渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

マニアックな映画鑑賞 『荒野の決闘』

2021年06月07日 | open
荒野の決闘 (My Darling Clementine 1946) 
モニュメントバレー映画撮影地
(Monument Valley movie taking location)
その2 Ver2





凄い人いるもんだね。
大西部の撮影現場を訪ねて検証している。
でも、こういう映画の観方は好きだ。

ラストシーン。

この清廉な握手のシーンでお別れとした
のが本来の作品。
でも、頬にキスしてサヨナラ板がある。
監督とスポンサーの意向の確執が存在し
た名作の逸話。

映画製作では、監督よりも権力がある者
がいる。
それが「製作者」だ。
角川映画ならば角川春樹がそうであった
ように。話し合いや折衝などは無い。ドン
が決める。監督だろうが、言うこときかな
い監督は降ろされる。
それが映画の裏世界。

この映画、多くの人が指摘しない点に作品
の題名がある。

出演者掲示の映像でこの作品の特徴が看守
できる。
それは、本作での表記は人名には i という
小文字を使うのである。名前以外にも。
だが、人の名でも使っていたりいなかっ
たりもする。
そして、本作品の題名表記は、正しくは
MY DARLiNG CLEMENTINE
なのである。

映画作品とは、その映像で出てくる題名が
真の題名と思う。
しかし、これが墨守されることは存外少
ない。
邦画『彼のオートバイ.彼女の島』は原作
とも異なる「.(ドット)」が中に入るのが
映画映像の題名だが、ポスターやパンフ
DVDに至るまで改変されている。
映画の原本は「彼のオートバイ、彼女の
島」でも「彼のオートバイ 彼女の島」で
もないのにである。

これはあまりにも無頓着過ぎないか。
作品の題名を改変するとは。
『吾輩は猫である』は、「吾輩は、猫で
ある」でも「吾輩は 猫である」でも、
「わがはいはネコである」でもないのだ。
そうした厳密さを蔑ろにする事を文芸作
品、映像作品でやらかしてはならないと
思う。
「細かいことはどうでもいいじゃん」なん
てのは、こと原本物があるという存在に
対しては絶対によくない感覚だ。
そんな感覚でいたら、『吾輩は猫である』
についても『吾輩は猫だきゃあ』でも良い
とかいう事になる。
しかし、原本を改変するというのは、その
だぎゃーみたいな事を為している、それの
要件を構成しているのだ。宜しくない。

ただし、公序良俗に反する原稿を編集校正
担当に正されたからと逆ギレして出版社や
編集者に悪態ついて暴れるのは論外。
そういう輩は文壇のみならず、社会から
消えるべきである。
しかし、有害者として放逐されたら逆恨み
いつまでもネチネチと裏ネットで罵詈
雑言の権化ぶりを示すしか能がないみじめ
な老後を送るしかなくなる例もある。
いわゆる、サイコパスの犯罪者。
犯罪者を求める社会というのは、人の世に
は無い。人の社会から消えるべき。
カラフトかツンドラ地帯あたりに移住して
はどうだろう。
モニュメントバレーの荒野はダメよ。
あそこは、ナバホの管理地だから。
自分に向いてる人様がいないとこに行か
ないと。

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