○文武両道について。
文を学ぶのには先ず片仮名から始め、ひらがな、
そして、やさしい漢字から次第に字画の多い字を学ぶのである。
そして毛筆の書き方の基本を総合した「永」を学んでゆくのである。
そうして漢字をおぼえてゆくのにも、書く順序を名称づけ、呼称し乍らおぼえてゆく。
このように文武両道というからには武も亦、文と同じように基本から、
いちいち名称づけて教えてゆかねばならない。果して文のように教えているだろうか。
大半は自分の浅い経験だけで自分勝手な考えで教えている。
これでは文武両道とは言えない。
故に剣道も亦、文と同じように指導の段階を考ゆかなければならない。
即ち基本を一歩一歩踏んでゆくのである。
剣道即学問と考えていって、文武両道という限りには両道が平行してゆかなければならない。
従って剣道にも文学のように段階を踏んでゆかなければならない。
○剣道も時代と共に伸びなければならない。
昔、宮本武蔵は六十才過ぎたら剣道をせずに山に篭った。
このような時代は刀を二本差し、わらじで歩いた侍達の時代であるから、
体力も消耗していたから、六十才で剣を握らない時代であるとするなら、
今の時代で言えば八十才に相当すると思う。
何もかも発達しているからである。
故に八十才ぐらいまでは剣道出来なくてはならない。
即ちワラジ時代と自動車時代の差があるのだから、
剣道も時代的に伸びてゆかなければならない。
剣道の無形の精神力、偉大さを知らなければならない。
○吉田誠宏先生が三十五才の時、精神的に苦しまれた話。
それは「剣禅一如」は剣と禅が同じというのか、
そこに連絡があるのならどこに基点を持ってゆくのかということである。
南天老師の所へゆき、半年ほど苦しまれた。
南天老師(南天棒=中原鄧州・なかはらとうしゅう)は
鐘を六回叩かれたがどうしても判らない。
南天老師は心配されて「吉田さん、あんた剣道をやめなさい」と言われた。
それから吉田先生は三年苦しまれたのである。
そして或る日、電車を降りてハッと気がつかれた。
それですぐさま老師の所に行って「三年経ってようやく判りました。
鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか、これでは禅が通らぬ。
「鐘と撞木との間が鳴るんだ」と悟られたのである。
剣道も、打つ人も打たれる人も、
間に音が生ずるものでなくてはいけないと悟られたのである。
私は現在七十一才、既に老境に入るも
三十五才の吉田先生の悟りのお話を承って恐懼再拝し、
身の遠く及ばざる我が未熟さを恥じたのである。
○吉田先生と西宮海晴寺へ行った時の話(おぼえがき)
乃木中佐と南天老師の話。
あんたは軍人だから百万の部下があり「さあ戦え」と言ったらどうするか?
乃木中佐は考えていると、南天老師は八帖の間を中佐に四つんばいにさせ、
馬乗りになって部屋を三回乗り回し言われるのに
「真剣とは身を捨ててこそ真剣味が判るんだ」と。