稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.28(昭和61年8月27日)吉田先生が長井に対して

2018年10月07日 | 長井長正範士の遺文


○吉田先生が長井に対して
長井がいろいろな悩みを気がねして私のところへ来るが、
わたしは道を大切にするから邪魔くさいと思った事はない。
長井も迷惑をかけやしないかと気をつかう心配いらぬ。それは個人の問題である。
だから道を求めて来たら、それを導く人間も共に道を歩むんだ。
如何にして正しい道を民族に教えてゆくか、
流儀は正しく後輩に流して伝え残してゆかなけれなならない責任がある。
と、誠に有難き哉。

○昔の級と今の段。( )内が今の級・段。
七級 白紐
六級 上(二級) 中(三級) 下(四級) 白と青のまんだら紐
五級 上(二段) 中(初段) 下(一級) 青紐
四級 上     中     下(三段) 茶紐

吉田誠宏先生、二十才の時(明治四十二年~三年)は六級の上(今の二級)であった。
堀正平(1888年・明治21年12月2日~1963年・昭和38年12月27日、範士九段)先生は
四級の下(今の三段)であった。

その夏、武者修行をされ、信州で四十余名けいこされた。
五級の下(今の一級)になれば月謝として一年に一円貰えた。
六級の上では、けいこに行っても上座にすわれないのであった。
何とかして五級の下(一級)にと思い、死ぬ思いでけいこされ、
秋には五級の下になられた。ちなみに当時四級の下(三段)で卒業であった。

宮崎茂三郎(1892年・明治25年~1972年・昭和47年、大日本武徳会剣道範士)先生は
伊勢から京都へ来て、半年経って五級の下(一級)になった。吉田先生の二年後輩である。
宮崎先生は背丈大きく、わざも大きいから、またたく間に上達された。

持田盛二(1885年・明治18年1月26日~1974年・昭和49年2月9日、範士十段)先生は
養成所に入られて一ヶ月目に試験を受けられ五級の下になられた。

これから考えて見ると、
死んだ和崎君は今の七段は昔の三段ないかも知れぬと言った、とは
吉田先生のお言葉である。
(註:三重の宮崎茂三郎先生が武徳会へ来られたのは十八才であった)

○武者修業者の待遇に三段階あった(明治末期~大正)
1.めし 稽古して飯だけ食わして貰うだけで帰された。(今の五段ぐらい迄の人)
2.わらじ銭 当時五十銭ぐらい。(今の七段ぐらい)
3.酒肴料 当時一円ぐらい。
当時、米が一石十円ぐらいだったから、八千円~一万円ぐらいである。
(これは今の八段以上範士級であったと言う)

この項終り
コメント
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