○吉田誠宏作、竹刀の名刀について。
という題の貴重なパンフレットを吉田先生が生前私に下さったが、
その当時はちらっと一回だけ拝読して軽く浅く名刀とはそんなものかと思い乍ら、
そのまま他の書類と共に書棚にしまっておいて、もう二十年になろうか。
今そのお書きになった文章をじっくり拝読させて頂き、
これは大変に貴重な文献として如何に吉田先生は奥の深い名人であり
剣の奥義を自らあみ出し剣の道を極められたが今頃になってハッとして
その偉大なるものを後進に残されたか思い知らされ、ただただ感激無量である。
これを私することなく広く皆様にご披露申し上げ、以って吉田先生の霊に捧げたい。
但し残念ながら途中からの紙片が切れ紛失したので肝心なところが無いので
如何にも惜しいのが初めからの文章の流れから賢明な皆様のお察しにおまかせしたい。
以下、忠実に拝写致します。
(この文を書かれた方はゆえあってよみびとしらずとしておきます)
一、高野茂義先生と竹の名刀
名人高野茂義先生。先生は現代剣道によって物質本来なし、肉体本来なし、
心を観ずるに心もなし、ただ実在するものは「本心」即ち「剣の心」のみを徹見し、
隻手(せきしゅ)の声を聞き、剣の心を極めた人であるが故に、
先生は名人位に達したものと信じているものの一人であるから名人なる悟りを冠する。
先生の悟境(ごきょう)に関する消息は昭和三十一年七月号の文春四十二頁に
竹の名刀と題して現代剣道によって拓かれた悟境の一端を申し述べられているが、
これは誠にもってわれわれ剣人にとっては孫末代まで語り草とすべきお話であると思う。
悟境に関しては後程、竹の名刀に関連して出てまいりますが、
先に竹の名刀について私見を入れながらご紹介致します。
「私が七十年間に手入れした竹刀で、これこそ真に名刀であると気に入ったのは、
たった一本なのである。竹刀は刀剱と違い簡単に入手出来るものであるから、
竹刀の名刀なら何本でもありそうなものであるのに案外なことである。」
と申し、更に語をついで
「十代の少年時代から今日八十才になるまで何百本ともなく使用したが
自分で買い求めた中には一本も名刀が無かった。然るに大正初年、
京都の演武大会に出場したとき、柳河藩の後藤一先生から頂いた一刀は
誠にその相(スガタ)と言い、調子と言い、重量までが総べて私の好みに、
ぴったりと合い非常に気に入った。大連の家にこれを後生大事に持ち帰って、
早速自分の好みに最後の仕上げをして、中段、上段に構えて調子を見ると、
実に予期以上の名刀に仕上がった。思わず掛け声もかかり、独り稽古を始めてしまった」
とある。全く名刀と言うものは、そうしたものであると思う。
私たちは竹刀を使うということに専念して「竹刀につかわれること」を知らない。
名刀の動きにつれて体が自然と動く・・・・
これは名刀によって自己に内在している潜在力が導き出されてくる結果、そうなるのであるが、
茂義先生も独り稽古を始めたとある。ここに名刀の価値が有ると思う。
斯様(かよう)に剱人としての先生が、
これこそと思う名刀を手にした時のよろこびを余すことなく表現して
眼前に髣髴(ほうふつ)たらしめるものがあるのではないか。
弘法は筆を選ばずと言われているが、茂義先生をも竹刀を選ばずで、
どのような竹刀でも使いこなす人であったから、
竹刀のよしあし等に関して気にもかけなかっただろうと、はた目に見えたのであるが、
この述懐を見ると、先生程名刀を求めに求めた人は少ないような感じを受けるのである。
ご自分で買い求めた中には(続く)