名刀らしいものが一本もなく、後藤先生から頂いた一刀こそが
多年求めに求めた名刀であったことのよろこびを又、次の例話で表現している。
「この私のよろこびというものは、音楽家が名器を手に入れた時のよろこびなどと同様であろう」と。
更に「この名刀は試合専門として、天覧試合にもこの愛刀一本で臨み、
その他数々の勝負を重ね、大連引上げの際も、これだけは、ソ連兵が何と言をうと
身から離さず持ち帰った」とある。
先生は全く命にかえてもと、この愛刀を護りきった事がよくわかる。
これ一本では誠に破損した時に心もとなく、備えとして、これに代わるべき一本をと、
その後、随分苦心して求めてはいたが、遂に手に入らなかった。
と、現代竹の名刀の殆んどないことをなげいていられるのである。
先生はこの一本の名刀が手に入ったために、現代剣道によって、
はしなくも剱の心を悟り、剱の妙境に遂に達し得た事を申述べているが、
如何に名刀ならでは剱道至極のところを、ずばりと悟ることが困難であるかを
述壊しておられるのである。
二、名刀によって剣の心を悟る
「愛用の名刀であると、試合でも、稽古の際に於いても、
身剱一如の境地に入り易い」と申されている。
これは名刀がよく、自己に生れ乍らにしてというよりも、
生れる以前から即ち父母未生以前(ぶもみしょういぜん)から
内在具有しているところの潜在する真の力量(剱の心)を
引き出す力があることを教えておられるものと解したい。
そして次の一文こそ、先生がこの名刀によって
剱道の悟境に達し得られたよろこびを書き綴ったものであろうと思う。
「勿論勝とうとか、秀でた技を見せようとか思う気持ちが動いたら立派な剱は使えない。
こうした想念が全く無くなって了(しま)い、思念や肉体が気にならなくなると、
真に剱と一体となった試合を行えるもので、無我の境地に入る。宗教で言う空の境地であろう。
この境地になると技を邪魔する色々の想いが消え去り
(心を観ずる心になく!迷う心などは本来なしと悟ってみれば)肉体まで消え去って
(色即是空を感じ、物質本来なし、肉体なし)本心(即ち「剱の心」言うなれば「不生の心」)
そのものになってくる。
剱と自分が無になると、相手の心の中に自分が溶け込んで了(しま)う。
(本来彼我共に宇宙の大生命を生きているのであるから、生命に於いて一つなのであるという
一体観に立ってみると・・・・・)
すると、相手と自分とは同じもので、相手の思うこと、なすことが自分にピンと感じられ、
無理なく、剱理にかなって相手を打込めるものなのである。
(無敵流の流祖が、この境地を悟ってからは、剱法と言わないで「平法」と名ずけている。
何故平法と申したかというと、我と彼とは本来平等一体であるという自覚を剱に生かしたもので
あるからである。彼我本来一体である。そこから平法が生れてくる。斗う(たたかう)のではない、
和解平和の法である。一切に和解して無敵なるが故にである。ここのところは、あたかも
信心銘の劈頭語、至道無難唯嫌揀択(しどうぶなんゆいけんけんじゃく=好ききらい)を嫌う、
ただ憎愛なければ洞然として明白なりの境地と一つのところである)
と先生ご自身の絶対不敗の大悟境を披歴しているが、
これは全く、名人上泉伊勢守信綱の歌ったものと同じ悟境である。
“よしあしと思ふ心を打ちすてて、何事もなき身となってみよ”
そして最後に、何と言われたかと申しますと、
「この境地まで導いてくれた愛刀を時折、竹刀袋より取り出して眺めるのが何より楽しい」とあるが、
これは先生の人柄を遺憾なく発揮した不朽の名文であり金言である。(以下続く)