稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.44 (昭和62年1月23日・続きの続きの続き)

2019年02月26日 | 長井長正範士の遺文


吉田先生は、こうした意味で剣道界の国士であり、達道の人である。

この吉田先生が高野茂義先生の死を聞くや、その晩は殆ど一睡もせず、
現代剣道の在り方と、その動向について考えたり自己の今後の剣人としての行き方を考えたり、
剣人としての茂義先生の生き方を考え、今後、十年間に、どのくらい剣の道を達成し得るか、
その限度と方法を如何にすべきや、と考えたりしているうちに、夜も白々と明けわたり、
山上の樹木もさわやかに、朝の挨拶うぃかわす頃、卒然として閃いてくるものがあったという。

如何なる名人、上手と雖も人は電光朝露(でんこうちょうろ)の如く、
泡の如く、虹の如く、無常なるものである。

今日までの自己の行跡を案ずるに、一体剣道界に何を残し得たであろうか。
自分の剣道を自己の人間性を本当に知っていてくれた、
お歌所の千葉胤明先生と八代将軍、剣道の育ての親とでも申すべき南天老師等は既になく、
自分が今日までに営々として開拓してきたこの剣道を何に托して後世に残そうか、
という問題に想到したときに、天来の声として霊示があった。
それが竹刀作製の事であったという。

如何なるものと雖も、現象的な、ありとあらゆるものは無常なものではあるが、
若し損傷されずして残れば二代、三代と伝わるだろう。

今日までに達し得た剣道の境地を竹刀に托してみよう。
二代、三代後の剣人がこの一刀を手にしたとき、ああ竹刀とはかくなるものか、
剣人にしてかくの如き竹刀を作り得た吉田誠宏なるものの剣道は
如何なる境地を開拓したものであろうかと、考えてくれる者が一人でもあるならば、
高野茂義先輩の死を意義あらしめる事であると悟ったと申されております。

誠に高野先生の竹の名刀の由来を知れば知るほど、今日名刀の得難い時に吉田先生が、
その名刀作製に乗り出して下さった事は私達にとって誠によろこばしい事である。
先ず手初め渡米記念にと思い、井上監督や、森寅雄君にあげるんだと
言って造られたものを拝見したのであるが、是れまさしく名刀である。

四、真の名刀
だれしも、これが名刀であると言われて、それを手にして見るとき、
成程そのよさがわかるのであるが、さてその名刀一本を数百本の凡刀の中に入れて、
ここに名刀一本あるからより出してみなさいと言われた時、
果して名刀はこれだと発見し得るだろうか。

茂義先生は七十年間中ご自分で買求めたものに一本も名刀はなかったと述懐しておられる。
これに反して、尊師高野佐三郎先生は竹刀で名刀というものは、こうしたものですと言い乍ら
三本ほど持出していろいろと名刀についてのお話をして下さった事がある。
ここに尊師の剣道と茂義先生の剣道にひらきがあった。へだたりがあったと見受けられる。

大海原のほとりに立って仰いで蒼々たる天空を視れば、
片々たる雲の瓢々として遊行するを眺め、俯しては茫々たる大海原を望めば
朗々波々ひねもすのたりのたりとうねっている実に寂静そのもの平和そのものである。
頭をめぐらして目を転ずれば妖岩躊石の肌合に和して、
松風の瓢々として一曲をかなでているを聴く。

こうした大景観の中に書かざる経文を読みとり、
そこに剣理を発見して宇宙の大生命に直接ふれてゆくことの出来る人!
それは剣人としての吉田誠宏先生その人である。

こうした人であってこそ、京都の尚武号で知られている高橋定康氏が
竹刀の材料としてもっている荒割りの三万本の中から仕上げれば
名刀となりそうな素材を五百本選び出し、それを更に仕上げてみて、
吉田誠宏作と銘を打てるものは、三百本出来ればよいとの事であるが、
玉石三万本の中から名刀(以下続く)
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