【2004年に開園、江戸下屋敷跡から出土の滝も再現】
「徳川園」は名古屋城本丸の東約3キロに位置する池泉回遊式の日本庭園。元々は尾張藩第2代藩主徳川光友(1625~1700)が1695年(元禄8年)に隠居所として造営した大曽根下屋敷の跡地で、1931年に名古屋市が尾張徳川家から邸宅と庭園の寄付を受けた。戦時の空襲で表門を残して焼失してしまい、戦後は葵公園(一般の都市公園)として市民に開放していたが、これを日本庭園として再整備し14年前の2004年に徳川園として再オープンした。
庭園の中心的存在は地下水を水源とする広大な「龍仙湖」。その南側から東側にかけて、鯉が滝を登って龍になるという登竜門伝説に基づく「龍門の瀧」、新緑のもみじの木々が渓谷を覆う「虎の尾」、落差6mの三段の滝「大曽根の瀧」、中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を縮景したという「西湖堤」、花菖蒲がちょうど見頃の「菖蒲田」などがある。「龍仙湖」の西側には2代藩主光友の諡号(しごう)瑞龍院から名付けられた茶室「瑞龍亭」が佇む。
「龍門の瀧」は東京・新宿の尾張家江戸下屋敷跡から出土した大規模な滝の石組みの遺構を元に徳川園で再現したもの。遺構は1998年に現在の早稲田大学戸山キャンパス内で見つかった。出土した石材は伊豆石と呼ばれる安山岩で、総数360個、総重量250トンに上る。江戸城築城の余り石と推定されているそうだ。これらの石材を名古屋市が同大学から譲り受け江戸下屋敷の庭園にあった滝を蘇らせた。
2代藩主光友を巡っては花菖蒲を愛し、江戸屋敷に菖蒲園を造って観賞したという記録も残っている。花菖蒲は大きく分け江戸系、肥後系、伊勢系に分類されるが、そのうち江戸系は光友が各地の野生の花菖蒲を栽培し交配させたのが始まりともいわれる。徳川園の菖蒲田にはその江戸系を中心に約1700株が植えられており、来園者たちが咲き誇る色とりどりの花をカメラに収めていた。