く~にゃん雑記帳

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<東大寺ミュージアム> 特別企画「東大寺文書の世界―ハンコとサイン」

2023年08月16日 | メモ

【源頼朝や足利尊氏の花押、織田信長の「天下布武」印】

 将軍など歴史上の人物は自分の手紙や書類である証(あかし)として、どんな印(しるし)を残したのだろうか。東大寺南大門のそばにある「東大寺ミュージアム」で、そんな疑問に答える夏休み特別企画展が開かれている。題して「東大寺文書(もんじょ)の世界―ハンコとサイン」。花押(かおう)が記された源頼朝の書状や「天下布武」印が押された織田信長の朱印状などが並ぶ。8月27日まで。

 東大寺には多くの古文書が伝わり、1万点近くが一括して「東大寺文書」として国宝に指定されている。今回はこのうち5点も展示中。「源頼朝書状(九月八日付)」は鎌倉幕府を開いた頼朝が、大仏殿の再興に奔走していた大勧進重源に宛てて書いたもの。大仏殿は1180年の平重衡ら平氏軍による南都焼き討ち(治承の兵火)で焼失していた。この書状には頼朝の頼の偏「束」と朝の旁「月」を合体した花押が頼朝のサインとして記されている。

 「足利尊氏椋橋庄(くらはしのしょう)寄進状」は室町幕府を開いた尊氏が東大寺に対し、椋橋庄(現在の大阪府豊中市)という荘園を寄進したことを記したもの。末尾の「源朝臣」の下にある花押が、尊氏からの書状であることを示す。尊氏の改名前の名は「髙氏」。尊氏の花押はこの「はしご高」をもとに考案したともいわれる。

 織田信長の印は朱色の印肉で押された「天下布武」印が有名。1572年の「織田信長朱印状」にも日付の下に名前と「天下布武」の朱印が押されている。この書状は織田家の本拠地尾張の出身で、大仏殿の再建に取り組んでいた清玉上人に宛てたもの。東大寺の大仏殿はその5年前の「永禄の兵火」で再び焼け落ちていた。清玉上人は本能寺の変後、信長の遺灰を阿弥陀寺(京都市上京区)に持ち帰って埋葬したといわれる。境内には「織田信長公本廟」がある。

 「豊臣秀吉朱印状」(1595年)は本能寺の変の後に、豊臣秀吉が東大寺に宛てて出したもの。その中には大和国添上郡市本村(現在の奈良県天理市櫟本)の領地を東大寺のものと認めるとの内容が記されている。

 サインの花押やハンコの印章が生まれる前には「画指(かくし)」という方法もあった。署名代わりに自分の指の形を書いたもので、男性は左手、女性は右手の人差し指と決まっていた。奈良~平安時代に多く使われ、鎌倉時代に入ると次第に使われなくなったという。展示中の「佐伯四郎丸田畠作手売券」は鎌倉初期の1202年に土地を売り渡したときの証書。展示中の史料点数はさほど多くないが、中世を中心に署名の変遷を辿るうえでも見応えのある企画になっている。

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