私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

御馬皇子の殺害

2015-10-24 11:43:12 | 日記

 「御馬皇子」とは、あの“陽斯挍猟”によって殺害された市辺押磐皇子の弟君です。雄略天皇の従兄弟に当たるお方です。その人をも、次の殺害の対象にされます。我が身の危機を察知した御馬皇子は、以前から、信頼していた三輪君身狭に助けを求めようとその館に向かいます。

 ここにある「三輪君」とは、三輪神社の神主だろうと考えられます。なにしろ、この雄略の480年代の日本には、未だに、神の力が絶大の力として人々の生活の中で生きていた時代なのです。卑弥呼の時代が色濃くその支配体制に影を落として、「神」そのものが人々の生活の中に絶対の存在として生きていた時代でう。いかに、天皇だろうと、むやみにその存在を否定できなかった時代なのです。だから、絶対絶命の御馬皇子も、三輪神社の神主に我が身の安全を託そうと考え、三輪神社に行こうと馬を走らせます。しかし、その御馬皇子の考え方を完全に読みとっていた雄略天皇は、先廻りをして、その道に兵士を配備して、そこを通った御馬皇子たちを、たちまちのうちに取り押さえ、その場で殺害してしまいます。

 これが雄略天皇の「大悪」ぶりなのです。要するに「邪魔者は殺せ」の時代だったのです。

 ここで一応整理しておきます。まず、雄略天皇に殺害された皇子は、実の兄たち、「八釣皇子」、その弟の「坂合皇子」、従兄弟の「眉輪王」、その家臣の「円大臣」、従兄弟にあたる「市辺皇子」、そして、その弟君「御馬皇子」です。まだ、この他、八釣皇子の家臣たちが名前は定かではないのですが、少なからずいたことは確かだと思います。何万といたはずです。この時代は「邪魔者は殺せ」ばかりの索莫とした時代だったと云うことがよく分かります、


雄略天皇の陽斯<イツワリ チギリ>

2015-10-23 17:07:19 | 日記

 自分の天皇位就任の為に、又もや、その人の殺害を計画します。市辺押磐皇子です。
 先ず天皇は、皇子を狩り誘います。

 ”近江来田綿蚊屋野猪鹿多在<オウミ キタワタノカヤノニ サワニ イシカ サワニアリ" 

 と。さらに、
 「その角はあたかも枯木の末を並べたようであり、また、その群れ歩く足々はしなやか枝先のようです。それら鹿たちの吐く息は朝霧のようにそこら辺りに立ち込めております。どうですかご一緒にこの動物たちを狩りしようではありませんか
」 と。
 10月の風もなく絶好の狩猟日和です。天皇と皇子は共に馬に乗って、近江の蚊屋野の鹿や猪の群れを追いかけます。その途中で、突然、雄略天皇は

 "陽呼白猪有<イツワリて シロシカアリと ノタマワく>”

 (ここにも「陽」がで出来ます。)と云いいます。そして、天皇は弓に矢をつがえ、皇子に矢を放ち殺害してしまいます。要するに騙し討ちです。初めから皇子殺害を目的にした誘いです。誠に残忍としかい言うようのない殺害方法です。その時、皇子に仕えていた「売輪」という家来は飛んできて、皇子の体を抱きかかえて、

 "不解<シラズ>所由<スルスベ>反側<フシマロビ>呼<ヨバヒ>号<イラビテ>”

 要するに、家来は、どうしたらよいか分からず、大声でわめきその死体を抱き抱え、その場で右往左往するだけだったのです。その家来を

 "天皇尚誅<スメラミコト ナホ コロシタリ”

 どのように殺したか何も書かれていはいませんが、「尚」という一字によって、その殺害方法は想像がつきますが。多分何もおっしゃらないで、その刀で、どうしたらよいか分からないでう泣き悲しんでいる家来を、無言の内に、一突きで殺されたのではないでしょうか。

 この筆者の言葉選びの巧さには幾度となく感激させられる場面です。

 まあ、これで天皇の大悪が終わるのかと思いましたが、書紀には、これから、まだまだ、その大悪を書き続けております。「吉備の3代美人」にまで到着するには今しばらく時間がかかると思いますがお付き合いください。


 


“陽”に観る中国人気質は!!!

2015-10-22 17:50:29 | 日記

 雄略天皇は市辺押磐皇子が次の天皇になるかもしれないと心配してその暗殺を考えます。その計略を書紀には

”陽斯挍猟”

と、たった4文字を使って説明しているのです。
 <イツワリテ ミカリセムト チギリ>
 と読ませております。驚いたことに、この「陽」に<イツワリテ>とルビが附ってあります。辞書によりますと「陽狂=きちがいのふりをする」や「陽言=いつわっていいふらす」「陽眠=ねたふりをする」「陽死=死んだまねをする」等の言葉があり、いずれも、「いつわり」を意味しています。
 この偽りを意味する「陽」には、あの太陽の陽から想像する思いとは、随分とイメージの違った使い方をしているのです。目からうろこでした。
 それにしても、漢字のもつその不思議さと言ってもいいかも知れませんが、その奥が大変深い事が分かり、益々漢字が好きになり、昔の中国人の感覚的知覚能力の素晴らしさに驚かさせられますよね。現代の中国人にはまねできないような人のあり様を幾通りにも考え、夫々を多方面から考察していくという、ヨーロッパ式の合理的一元的な物の考え方でなく、ものすごく幅の広い多元的であるという言葉では表せないような物の見方によって、主義ではなく、経験的実践的でもない、神秘的だとしか言い表せないような物の考え方によって、物事の真髄までを見極め考察していたのではないかと思われるのですが、どうでしょうかね。

 

 こんなこと書いている私って、狂っている80老人でしょうかね。可笑しいのでしょうか。誰かコメントをしてください。お待ちしております。


市辺押磐皇子の殺害

2015-10-21 08:37:19 | 日記

 「眉輪王」や兄「七釣・坂合皇子」の次に、書紀には、雄略天皇の「市辺押磐皇子<イチヘノオシハノミコ>」殺害について書いてあります。なお、「市辺押磐皇子」とは、「安康天皇」の兄「允恭天皇」の子、従兄弟にあたるお方です。

 この市辺押磐皇子について、書紀には

 ”穴穂天皇曾欲以市辺押磐皇子伝国而遥付嘱後事”

 とあります。
 「穴穂天皇の曾<イムサキ> 市辺押磐皇子をして国を伝へて 遥か後の事を付<ユダネ>嘱<ツケム>と欲<オオセシ>」。
 要するに、過って、安康天皇は自分の兄、允恭天皇の子「市辺押磐皇子」に、天皇の位を託して、日本の国を委ねようと思っていたのですが、雄略天皇はそれを恨んでいたのです。このままにしておくと 市辺押磐皇子が次の天皇になり、自分が天皇にはなれないと思ったのでしょう、そこで、『邪魔者は殺せ』とばかりに、ある策略をめぐらします。


円大臣<ツブラノオホイモウチギミ>の議侠心

2015-10-20 08:57:25 | 日記

 円大臣の家を取り囲んだ雄略に向って言います。

 「例えこの身は殺されましょうとも、命令を聞くわけにはまいりません。古人は、匹夫(物事の道理の分からない男)ですら、その志(思っていること)を奪うことは難しい。況や尊者をや、と言っております。私はその言葉どうりの男です。どうか尊者であらせられる貴方様ならお分かりだと思います。どうぞ、私の娘子「韓媛」と私の領地を全部差し上げますから、このお二人をお許しください」

 と頼みます。
 敢て、日本書紀の筆者は、此の逸話の一文を挿入することによって、その索莫とした暗黒の無道徳の時代においても、なお、このような心豊かな人としての道を重んずる臣がいたのだということを、きっと、後世の人々に伝えたかったのではにかと思うのですが???

 でも、その結果は「大悪天皇」で、言わずもがなです。その館に火を放ち、坂合皇子、眉輪王、円大臣等其家にいた人々は燔死<ヤケシヌ>してしまいます。その時、「焼き殺された坂合皇子や眉輪王等の死体は、どれがどれか分からないように、そこら辺りに散乱していた」と、記されておりますから、相当激しい荒々しい雄略天皇側からの猛攻があったのではないかと想像されます。それも又、此の天皇の悪名を高めた一因になっていたのです。もう一度書きますが、この雄略天皇は允恭天皇の第五番目の皇子です。