「御馬皇子」とは、あの“陽斯挍猟”によって殺害された市辺押磐皇子の弟君です。雄略天皇の従兄弟に当たるお方です。その人をも、次の殺害の対象にされます。我が身の危機を察知した御馬皇子は、以前から、信頼していた三輪君身狭に助けを求めようとその館に向かいます。
ここにある「三輪君」とは、三輪神社の神主だろうと考えられます。なにしろ、この雄略の480年代の日本には、未だに、神の力が絶大の力として人々の生活の中で生きていた時代なのです。卑弥呼の時代が色濃くその支配体制に影を落として、「神」そのものが人々の生活の中に絶対の存在として生きていた時代でう。いかに、天皇だろうと、むやみにその存在を否定できなかった時代なのです。だから、絶対絶命の御馬皇子も、三輪神社の神主に我が身の安全を託そうと考え、三輪神社に行こうと馬を走らせます。しかし、その御馬皇子の考え方を完全に読みとっていた雄略天皇は、先廻りをして、その道に兵士を配備して、そこを通った御馬皇子たちを、たちまちのうちに取り押さえ、その場で殺害してしまいます。
これが雄略天皇の「大悪」ぶりなのです。要するに「邪魔者は殺せ」の時代だったのです。
ここで一応整理しておきます。まず、雄略天皇に殺害された皇子は、実の兄たち、「八釣皇子」、その弟の「坂合皇子」、従兄弟の「眉輪王」、その家臣の「円大臣」、従兄弟にあたる「市辺皇子」、そして、その弟君「御馬皇子」です。まだ、この他、八釣皇子の家臣たちが名前は定かではないのですが、少なからずいたことは確かだと思います。何万といたはずです。この時代は「邪魔者は殺せ」ばかりの索莫とした時代だったと云うことがよく分かります、