私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

雄略の大悪の証し(その2)

2015-10-19 09:56:05 | 日記

 3番目の兄「八釣皇子}を切り殺した雄略天皇は、次に、すぐ上の兄の坂合黒彦皇子(同母兄)にも、
 「あなたが眉輪王をそそのかしましたね」
 と問いただします。坂合皇子も、やはり、黙って何も語らずでした。又もや天皇の“忿怒弥盛<フンドイヤサカリナリ>”と書いてあります。ますます怒りが募ったという意味です。一緒にいた眉輪王も一緒に切り殺そうと思ったのですが、念のために眉輪王に、“按劾所由<ソノヨシウカウガヘトヒタマフ>”、按とは{罪を問いただす}ことで、劾とは{罪を取り調べる、さばく、}ことです。要するに、詰問します。それに対して眉輪王は言います。
 「私は決して安康天皇を殺そうとは思いませんでした。ただ父の仇を打っただけなのです」
 と。それで、その場は、一応、治まります。しかし、その権幕からして身の安泰を疑われた坂合皇子は眉輪王と伴って、家臣の円大臣<ツブラノオホイマウチギミ>の宅<イヘ>へ逃げ隠れます。
 それを知った雄略天皇は使いを大臣の家に送り
 「坂合皇子と眉輪王の二人を差し出すよう。」
 にと伝えますが、円大臣はその使者に応えます。
 「今までの歴史では、家臣がいつも王室に逃げて行って助けを求めていたのですが、此の度は、反対で、王が臣の宅へ逃げ隠れておいでになられました。この二人の皇子たちは私を“深恃<フカクタノム>でのことだと思います。そのような人達をどうして易々とあなたの元に送り出すことができるでしょうか」
 と。

 さてこの結果どうなりましょうや???

 


雄略天皇の悪者ぶり

2015-10-18 10:18:53 | 日記

 眉輪王は、安康天皇に、讒言により父を殺され、その上、母をも取られその妃にされます。ある時、その母の膝でお酒を飲んで寝てしまわれます。それを見た眉輪王は堪忍袋の緒を切らし、母の膝の上で熟睡しまった天皇を刺殺します。
 眉輪王が七歳の時の出来事です。 その話は、直ちに、雄略天皇の耳に入ります。すると、天皇は、直ちに、武装して、家来を引き連れ、先ず、向ったのが自分の兄(同母)である八釣白彦皇子に問いただします。
 「あなたが眉輪王をそそのかして安康天皇を殺させたのではないか」
 と。その今にも刀で斬りかかろうとする姿を見て、恐れをなして、何も言わないでその場に座っておりました。その兄をその場で切り殺してしまわれます。

 昨日も書きましたが、雄略は允恭天皇の第五子です。八釣白彦皇子は同母の第三子の兄なのです。それを、問答無用とばかりに一刀の元に切り殺しております。普通に考えれば、自分は弟です、どうして兄を手に掛けられるでしょうか。殺せるはずがありません。それが平然と行われているのです。まさに「大悪」そのものではないのでしょうか。
 なお、彼の事を書紀には
 ”長而伉健過人”(ひととなりて たけくましますこと ひとにすぐれたり)
 と書かれてあります。伉健とは、「おごり高ぶった行い」を云うのだそうです。これに<タケクマシマス>とブビがふってあります。兄を殺すことなで平気でやるような人だったのでしょうね。仏教も儒教もまだ日本には伝わってない長幼の序など道徳のない強の者が勝つ暗黒の時代のお話ですから。(四七〇年頃のお話で、ちなみに、仏教の日本伝来は五五二年だそうだす)


眉輪王から事件が

2015-10-17 17:11:23 | 日記

 ちょっと雄略天皇の行った歴史を覗いてみます。

 これも少々ややこしくなりますが雄略天王の前後の天皇を見ておきます。

 20代允恭天皇―21代安康天皇―22代雄略天皇と続きます。

 話はこの20代天皇から始まります。
 安康天皇の叔父に大草香皇子がいましたが、ある時、讒言により天皇に殺されます。そして、その妻を天皇は妃されるのです。この大草香皇子の子に眉輪王<マユワオオキミ>がいました。彼が7歳の時、安康天皇はお酒を召しあがって妃の膝を枕にして熟睡(<トケテミネマセル>とるびがふってあります)されます。それを見た眉輪王は、その場で、安康天皇を刺殺しします。

 と日本書紀には書いてありますが、その時、眉輪王はたったの7歳だと書かれてあります。本当かどうか疑わしいようにも思われますが。

 そこから、古事記には書かれていない雄略天皇の歴史が始まっております。なおこれから色々な摩訶不思議な事件が次から次へと起ります。なお、雄略天皇は20代允恭天皇の第五子、安康天皇は允恭天皇の第二子です。


「大悪天皇」とは

2015-10-16 17:59:53 | 日記

 これについて日本書紀では次のように記されております。

 “天皇、心を以ちて師<サカ>しと為<シタ>まひ、誤りて人を殺したまふこと衆<オオ>し”

 と書かれております、この「師」ですが、<サカシ>とルビが附ってあり、<さがし>は「危険だ。危ない。」という意味です。
 この文章を「日本王代一覧」の作者である林鵞峯は
  「天皇は生まれつきあらくして、人を殺すことを好む。罪なくして死する者多し」
 と、書いております。しかし、水戸光圀の「大日本史」では、この「大悪天皇」について
 「天皇、初め心を以て師(し)となし、好みて軽々しく人を殺し・・・天下謗りて大悪天皇と曰へり。」
 と。「師」を<さかし>としてではなく、「先生」として捉えて、その歴史を読みとっております。どちらにしたって、結局は同じような取れ方をしているのですが、光圀の捉え方の方が、やや同情的に雄略を捉えているように思われるのですがどうでしょうかね??それは書紀の「誹謗<ソシリ>」という言葉から判断されたのではないかと思います