私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

アマテラスとスサノウの姉弟喧嘩から、どんでもない方向に・・・

2017-03-24 14:24:12 | 日記

 アマテラスの“清明何以知”という問いに対して、「須佐之男命」の“各宇気比而生子<オノモオノモ ウケヒテ ミコ ウマナ>”と答えたことから話が、どんどんと飛び散って、中国の故事にまで飛んでしまいましたが、再び、話を日本の上古にもどします。

 ちょっと話が飛びましたので、どこまで進んだか書いている私自身にも分からなくなりましたので。もう一度、復習のつもりで、やや詳しく書いてみます。

 イザナギの左目を洗った時に生まれた神が「アマテラス」で、右目を洗った時「ツクヨミ」が、鼻を洗った時「タケハヤスサノヲ」が生まれます。この3人の子たちにイザナギは命令します。

              ・第一子「アマテラス」は『高天原』
              ・第二子「ツクヨミ」は『夜之食国<ヨルノオスクニ>』
              ・第三子「アマテラス」は『海原』

を「私に代わって治めなさい」と

 

 


「孟嘗君、函谷関を出る」の項

2017-03-23 09:22:43 | 日記

 昨日書いた孟嘗君が函谷関を出る様子を、「史記」には

   ”孟嘗君至関。関法鶏鳴而出。孟嘗君恐追至。客下坐者有能為鶏鳴、而鶏尽鳴遂発伝出”

 と、これだけ書き記しております。
 このたった30字ほどの中に、その時の孟嘗君や秦の昭王の心の動きや言動までもが、何もかも、見事に、何か絵にでも書き現わしてでもいるように、文と文の間にある諸々の出来事が、行間を読むという言葉がありますが、そのように鮮明に手に取るように読者に想像させます。司馬遷の世界的名著だと言われる所以です。

 今まで、史記に書かれている「鶏鳴」について、その故事はともかくとして、本文までは専門家でないのですから御読みになってはいない思い、ご参考までに書き現わしました。
            
      これをどう読まれますか。声に出して御読みいただければ・・・・・。
 
 私は聞いたことがないのですが、中国語で読むと、どんな響きが伝わるのでしょうかね!!!!!!!


孟嘗君、秦王の城を脱出する。

2017-03-22 09:06:23 | 日記

 秦の昭襄王の城から、その寵姫の計らいでようやく脱出できた孟嘗君は斉の国に急ぎます。この秦の国を旅する場合、「関所手形」が必要ですが、それを偽造して(これも偽造を難なくする家臣いたのでしょうが)、城門を通りぬけ、真夜中、国境のある函谷関にさしかかります。当時の秦の掟で、一番鶏が鳴いてからでないと城門を開いてはいけなかったのです。函谷関は天下の嶮と言われた場所で、此の関を越えなければ他国へ出ることはできない交通の難所です。朝、鶏が鳴くまで通ることはできません。まだ真夜中です。秦の兵が追いかけれ来るにちがいありません。うかうかしてはおられませんが、夜明けを待つしか他に方法はありません。危険がすぐ後ろまで押し迫っているのですが、どうすることもできません。困憊そのものです。その時、家臣に加えていた「物まね名人」が、
 「私が・・・・」
 と、言ったかと思うと、たちまち鶏の鳴き真似を大空に向かって高らかに張り上げます。その余りにも上手な鶏の鳴き声を聞いた近くの鶏舎の鶏が、「朝が来たか」とばかりに、一斉に鳴きだしたのです。その声を聞いた関守も
 「もう朝か・・・・・・」
 関門を開けます。「それ・・」とばかりに孟嘗君の一隊も、にせの関所手形を使い、楽々と関門を通りぬけ、秦の外に逃げ出ることができたのです。それからしばらくして秦の軍勢がそこに来るのですが、もはや、後の祭りです。これが有名な「狗盗鶏鳴」の故事です。

 なお、「コソ泥」や「物まね名人」をその家臣に加えた孟嘗君を「何で???」と薄笑いを浮かべていた人達が、これら家臣の軍功を聞いて、「将の器とは・・・」と深く思ったと言うことでした。

  


「鶏鳴狗盗」と「そのよく似たお話」

2017-03-21 09:15:59 | 日記

                                

 史記にある『孟嘗君』の記事です。ここに書かれた事をかいつまんでお話しますと、

 「BC300年頃のお話です。中国では秦や斉などの国がお互いに覇権を争っていた時代です 。斉の国に 孟嘗君という非常に賢い一人の子供がいました。此の子が、後に、斉内の一国 「薛」の城主となります、彼は善政を敷き、多くの財をなします。そのお金で、中国全土から沢山の食客を雇い入れます。その中には「こそ泥」や「物まね似名人」など、「どうしてこんな人まで」と思もわれるような人も家来に取り立てます。そのような人の活躍お話が、「鶏鳴<ケイメイ>」即ち、鶏の鳴き声がとても上手な人と「狗盗<クトウ>」 こそ泥です。

 当時、中国で力が一番強かった秦の国王『昭襄王」が、名君として国中に鳴り響いていた孟嘗君を秦の国の宰相に招きます。その時に「狐白裘」という大変高価な毛皮を土産として持って行き、国王に献上します。しかし、国王の家臣たちは
 「彼が秦の宰相になれば、きっと斉の国に滅ぼされます」
 と強く反対したため、宰相にしませんでした。それどころか、
 「これを知ったら、きっと 孟嘗君が怒って、何をするか分かりません。彼を早く殺してしまううではありませんか」
 と相談します。その話を何処からか聞きだした孟嘗君は、国王の寵姫に泣きついて、帰国させてもらおうと考え、姫に頼みこみます。すると、姫は言います。
   「国王に上げたと同じ『狐白裘<コハクキュウ>』をくれたら、あなたの希望をかなえてあげてもいいわ。」
 と。
 さて、孟嘗君は困ってしまいます。だって、「狐白裘」 はこの世には2枚とはありません。その時、孟嘗君の家来になっていた例の「狗盗」がほくそ笑んで言います。
    「私にお任せを」
 と。結果はどうなったか明らかです。その夜、国王の土蔵に忍び込んで、なに知らぬ顔で、世に二つとない狐白裘を盗み出して孟嘗君に渡します。それを姫に差し出し、それがために、無事に秦の城から逃げ出ることができたのです。

 このお話のように「姫」を懐に入れると、大概の望みは適うというお話は、何時の時代でも、どこにでもあることなのでしょうか???これと何かよく似たお話が近頃、大阪辺りで起ったのではないでしょうかね???そのまさか、なんとか池のコソ泥的な狗盗の計略にまんままと引っかかたのではないでしょうね。どこかの「こりゃあヤベエ」さんとその愛姫さんは。

     


夜をこめて鳥のそらねをはかるとも・・・

2017-03-20 11:20:12 | 日記

 ご存じ。「百人一首」にある清少納言の歌です。今、話している「孟嘗君」の故事に由来した、大納言行成との機知に富んだやり取りとして詠まれた歌です。

             ”夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ”

この歌の意味は
 「昔中国の斉の孟嘗君は、深夜ながら、鶏の鳴き声を立て函谷関の門を開けさせたのですが、私は逢阪の関ように、いくらあなたが「愛している」と言われても、決して、私の家の戸口は開けることはしません」
 です。
 平安中期の時代(1000年頃)です。清少納言は、中国の歴史書「史記」が出来て、既に、14、500年は経過していたはずですが、そこに書かれて内容を彼女たちは十分に熟知していたのです。

 当時、清少納言が見た「史記」とはどのようなものだったのか、またまた私の自慢の「史記」(明治15年に出版された東京「鳳文社」の「史記評林」)をお見せします。

                     

 平安中期には、ここに見られるようなレ点も何も、まだ、付いてはなかったと思われますが、どのようにして、この漢文を、清少納言は読んだのでしょうか。なお、ここに見える函谷関の故事は詳しく明日にでも