私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

大伯皇女の御歌“我が背子を・・・・・暁露に・・・”

2017-03-19 09:55:59 | 日記

 この歌ですが、ついでの事に、万葉仮名で描いてみます。

  “吾瀬枯乎<ワガセコヲ> 倭辺遣登<ヤカトヘヤルト> 佐夜深而<サヨフケテ> 鶏鳴露爾<アカトキツユニ> 吾立所霑之<ワガタチヌレシ>”

 とあり、此の中の“鶏鳴”ですが、これを“アカツキ”と読ましておりのです。鶏のなく時刻が中国では夜明けの証拠だとされていますが。これをそのまま日本でも使って、“暁”「アカツキ」と読ましたのだそうです。

 此の鶏の故事は「鶏鳴狗盗」の言葉として有名な話が残されております。(史記の中「孟嘗君列伝」)。話が横道にそれたついでに、今日は、そのお話から。

 中国戦国時代(BC200年頃)です。斉の国に「孟嘗君田文」という子が生まれました。妾の子で生まれた日が5月5日でしたので、5月5日に生まれた子は「父母殺す」と言われ育てないのが、当時の中国での習わしでした。そこで父は、母に「育てるな」と、命令します。でも、母は父に内緒で、竊に、育てます。孟嘗君が大きくなってから、その父親に合わせます。すると、父が「どうしてそだてたのか?」激怒しますが、それを聞いていた母の傍にいた孟嘗君は父に尋ねます。

                          “君所以不挙五月子者何故”

 「お父さんにお尋ねします。どうして5月5日に生まれた私を育てないようにと、お母さんに言ったのですか。」と。それに答えて父親は云います。
 「5月5日に生まれた子は大きくなって背が敷居に届くようになると“将不利其父母”(父や母によくないことがある)と云ったのです。するとです。そこが孟嘗君の孟嘗君たる所以なのです。次のように言ったと書かれております。

                “人生受命於天乎。将受命於戸邪”

 「人は命は天から授かるのでしょうか、それとも家の戸口から受けるものでしょうか」と、父親は、それに付いて、何も言えず黙っていますと、孟嘗君は、更に、付け加えて云い放ちます。

                ”必受命於天、君何憂焉。必受命於戸、則高其戸耳。誰能至者”

 「命は天から授かるものです。御父さん、何も心配しなくてもいいのではないでしょうか。もし、命が戸から授けっれるものとしたら、その戸を高くして行けば、、その背は、決して戸までは届きはしませんよ。」
と。此の子の言葉に、父親の云う言葉がなかったと司馬遷は書いております。これから、この孟嘗君の、とっても愉快な頓知話が続いておりますがそれは明日に又


万葉集の大津皇子

2017-03-18 10:01:16 | 日記

 この大津皇子の謀反が発覚して???、その2日後には刑が執行されています。驚くべき早さです。そこら辺りにも、何か此の事件の奇妙さが伺えるのです。此の事件については、又、「万葉集」にも彼と関連した歌を、数首見ることができます。

 先ず最初は、皇子の姉「大伯皇女」とのやり取りの歌として紹介されてあります。
 この大伯皇女は前に書きました斎明天皇の新羅征伐の時、吉備の大伯海の船上でお生まれになった皇女です。だから、この時の皇女の歳は24歳で、伊勢の斎宮として伊勢神宮におられます。大津皇子も21歳になっており、その姉に、自分の気持ちや、今ある自分の立場に付いて聞いてもらいたかったのでしょうか、姉を尋ねてわざわざ伊勢に行きます。姉弟でどのような話をしたのかは分かりませんが、一晩じっくりとお話をしたのでしょうか、その早朝、再び、姉は大和ヘ帰って行く、多分、大和に帰れば、もう二度と会うこともないだろう心痛な思いの別れだったのでしょうか、その時の大伯皇女の弟の運命を歎いた歌が載っております。ご存じの

            “わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし”

                     ”二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ”

 の二首です。

 天武天皇の崩御は9月9日です。大津皇子の”謀反<ミカドカタフケム>ことが発覚<アラハ>れぬ” 9月24日のことです。そして逮捕・処刑が10月2日・3日ですから、皇子がこの姉を伊勢に尋ねたたのは、此の8日間だったのではないでしょうか???多分10月1日の暁時に伊勢を出て大和へ帰ったのだろうと想像がつきます。愛する姉に、自分の今の立場、その真実をぜひ知ってもらいたかったのでしょうね。それしか自分を証明する何ものも、その時の皇子にはなかったのでしょう。たった20歳前後の若い青年だったものですから。愛されていた父「天武」ももうこの世の人ではなかったのです。歴史書は、「天皇は大津を大変可愛がっていた」と伝えています。


此の事件を日本書紀には

2017-03-17 10:19:10 | 日記

 日本書紀には此の事件について次の世に書いております。参考までに・・・・・・

 「・・・九月九日・・・天渟中原瀛真人天皇<アマノ ヌナハラ オキノ マヒトスメラミコト>崩<カミサ>り給ひ、皇后、臨朝称制<ミカドマツリゴト キコソメス>。冬十月二日、皇子大津、謀反<ミカドカタムケヌ>とすること発覚<アラハ>れぬ。皇子大津を捕<ト>るに逮<オヨ>びて・・・・・」

               “庚午の日(三日)、皇子大津を訳語田<ヲサダ>の舎に賜死<ミマカラシム>”

 とあります。謀反の為逮捕され、直ぐ翌日の三日に死を賜っておるのです。電光石火とはまさにこの事を云うのです。その詳細を問うこともなしに、即座に刑を執行しています。これが、後世になって、鵜野皇女の我が子可愛いさのためのでっち上げの事件だと言われる所以です。毒殺なんてそのような複雑怪奇な怪しげな陰謀による処刑ではありません。更に、書紀には、大津の妃「山辺皇女<ヤマベノヒメミコ>」について

              ”髪を被<ミダ>し、奔赴<ハセオモム>きて、殉<トモニシニ>ませり”

と書いてありす。余りにも悲惨な事件だったのでしょうか、当分の間、人々の噂に上り“皆な歎欷<ムセビ>ぬ”と書かれてあります。

 此の事件の後すぐ、此の事件に関わったとされる30数名の関係者はすべて

               “従<シタガイシ>者をが皆之を赦すべし“

 として、「何のお咎めもなし」で、この事件が終了しております。


正恩と正男と。・・・・・・草壁と大津と

2017-03-16 12:44:05 | 日記

 先ず最初の二人ですが、正恩は弟、正男は兄の異母兄弟ですが、弟が自分の地位を脅かすだろうと考えて、兄を、密かに、マレーシアで、誠に、奇天烈極まりない巧妙な手口を利用して、葬り去った事件です。よくも、こんなことができる物だと呆れているのですが、日本でも、1300年も前の事になりますが、此の事件と全く同じとは云えませんが、よく似た事件が起きております。しかし、北朝鮮の場合は、弟が兄をですが、此の時起きた日本での事件は兄が弟を殺しております。但し、この場合は暗殺ではありません。「謀反」の罪をでっちあげて、正々堂々と????殺しているのですが、考え方はどちらもどちらですが。
 672年の壬申の乱の後、685年の事です。天武天皇の皇子「草壁」が、次の天皇にはるはずですが、その弟「大津」が、昨日書いたように、能力的にも、肉体的にも、精神的にも、余りにも優れた能力を備えていたため、兄「草壁」はどう思っていたのかは分かりませんが、草壁皇子の母親「鵜野皇女」は、どうしても我が子「草壁」を次期天皇にと考えたのです。そのためには、どうにかして我が子「草壁」の大敵となるべき弟「大津」を出来るだけ早くこの世から消えてもらう必要があるのです。しかも、その死に「正男事件」のような疑惑がかからないような方法で。その為の策を母親は練ります。

  685年9月9日天武天皇は崩御されます。その喪も明けない10月2日です。突如として大津皇子の謀反が発覚します。どのような謀反があったのか、この辺りの事は何ら明確になっておりません。まるで、稲田かなんかという人の発言のようで、その全貌には霞がかかっており、云うことがその時々で激変する支離滅裂であきれ返っておりますが。それと同じで、何が真実か不明な不思議な事件だそうです。草壁皇子の母「鵜野皇女」が深く関わっていたということは疑いの余地がないと言われております。 新羅の怪僧が関わっていたとか、川島皇子が関わっていたとか色々なうわさが立っていますが、1300年の今でもその真相は不明なままのようです。なお、稲田さんの方は大分明らかになりつつああるのでしょうかね????


鵜野皇女の確執(壬申の乱後に・・・・・・)

2017-03-15 10:31:09 | 日記

 大友と大海人との「壬申の乱」後、再び、都が奈良に移り、大海人皇子は「天武天皇」になられます。天武の妃は、天智の女「鵜野皇女」と、その姉「大田皇女」の姉妹です。この姉妹にはそれぞれ「草壁」と「大津」という皇子がおります。年齢は「草壁」が一つ上ですから、此の人が皇太子になります。そうこうしているうちに姉の大田皇女がいなくなります。しかしながら、才能豊かで、人望も熱かった、弟である大津皇子こそを、「此の人が次期天皇に」、と思う家臣も多かったのです。この大津皇子の性格を「懐風藻」には

                   ’状貌魁梧、器字峻遠”

 <ジョウボウ カイゴ キウ シュンエン>と。「姿、容ちが立派で、才能が非常に優れ心がとても広い」とその人となりを称賛しております。そして  更に、

     「博覧にして能く文を属<ツヅ>る」、「壮<サカリ>に及びて武を好み」「節を下して士を礼<イヤ>ぶ」

な人であったとも書いてあります。常識が豊かで、力強く武芸を嗜み、さらに礼節を重んじて武士道の精神が生まれながらに備わっていると。それに反して、皇太子「草壁」は身体虚弱で病気がちだったと言われていたのです。
 そうすると、どうしても、「次期天皇には・・・・」と言う思いが多くの人から湧きあがってくるのは当然でしょう。しかし、次期の天皇と決められている皇太子「草壁皇子」の母は、此の人々から、このように絶対の称賛を得て、褒め称えられている「大津皇子」、自分の姉の子でしょうが、面白い訳がありません。

 さて、此の母「鵜野皇女」は、我が息子「草壁」を皇位継承者として、確固たるその位置を保持させるためには何をなすべきかと考えるのは当り前のことのように思えるのですがどうでしょう