・鹿児島で第一線の経営者等を「出前講義」方式で高校に派遣しています。
・今回は、霧島市の「(株)アルプスエステック」の小薗悦郎工場長に講義をお願い
しました。
○講師派遣先は、霧島市の「鹿児島県立霧島高等学校」でした。
株式会社「アルプスエステック」は、平成17年11月に静岡県浜松市から霧島市への誘致企業で、真空装置や液晶装置などの部品製造・加工を手がけております。
浜松市の「アルプスエンジニアリング」(刀原 精社長)が親会社です。
当日は、霧島高校の機械科約40名の1年生に、「高校生に求められるもの」と
いうテーマで、自分の経験を踏まえ講演されました。
今回は、その講義内容を2回に分けて公開いたします。
まず、第1回分です。
おはようございます今から10時45分まで「高校生に求められるもの」というテーマで話をさせていただく小薗悦郎です。
講和とか人前で話すことにはあまり慣れていませんので緊張していますが宜しくお願いします。自分の経験を通して、会社とはこういう所ですよとこういう項目で話をします。皆さんのこれからの過ごし方の参考になればと思います。
霧島高校は出来たばかりということで、皆さんが一期生と聞いています。
そこで私も同じような経験があったので、自己紹介を兼ねて自分の経歴に沿って話をさせていただきます。
経歴昭和23年(1948年)川辺生まれの60歳です。昭和39年(1964年)中学校を卒業し隼人の鹿児島高専に入学しました。その時は鹿児島高専も出来て2年目で、2期生でした。校舎や寮も最小限の物が出来ているだけで、実習時間は隼人工業高校の実習工場に行っていました。
私の場合は一つ上の先輩がいるだけ皆様よりは恵まれていましたが、学校での過ごし方、卒業後の進路など分からない事だらけでした。
また実家は川辺ですから、親元を離れての寮生活だったので洗濯や送ってもらった生活費の使い方の管理など、初めて経験する事も沢山あり不安も有ったわけです。しかし周りの友達も同じような状態ですから、友達とそういう不安を語り合いながら過ごしてきました。ここで自立する力が付いたと思います。
当時は国分サティーが有るあそこら辺は田んぼだったと思います。
昭和44年(1969年) 何とか卒業し、静岡県東部の沼津市にある工作機械や射出成型機などの機械メーカーに入社しました。
何故この会社を選んだのか当時、機械科の就職先は1位重工業、2位造船、後は自動車などその他で、成績の悪い私は機械の元は工作機械だと考え先輩のいない会社を選択しました。
また場所としても、東京に近く、伊豆や富士山などが近くにあり、気候も温暖ということで気に入りました。
特に電車や自動車や船が好きだということはなく、大工さんの棟梁みたいな、人に仕事の指示をするようになりたいと思っていました。
夜行列車で西鹿児島駅を出発し翌日京都で新幹線に乗り換えて沼津に行きました。当時まだ集団就職列車もあったように思います。
私の乗った列車も4人がけのボックス席で周りも就職する人達でした。
入社時は石の上にも3年と思い3年間はやめないぞとの決意でしたが平成11年(1999年)に退職するまで30年間工作機械の製造に関わってきました。
平成18年3月 鹿児島に来て今の会社㈱アルプスエステックにお世話になっています。
次回は、「会社で働くこととはどういうことか」ということについて、
小薗工場長の講義内容を掲載します。
かごしま企業家交流協会
◇http://www.kagoshima-kigyouka.com