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コジキジゲン

二宮尊徳、勤勉であっても損得勘定で感情が揺らぐ

2014-02-22 12:57:12 | 古事記字源

 ・・・「孫子」、「呉子」・・・「実践論」・「矛盾論」・「遊撃戦論」・「持久戦論」・・・
ーーーーー
 1917年
 孫文の同志
 アジア主義者
 宮崎滔天が
 毛沢東の故郷の
 湖南省を訪れ、講演
 毛はこの講演会に出席し、
 日本が
 欧米白人の
 アジア支配を打破したことを聞いて喜んだ
 後に
 毛沢東は
 米国記者
 エドガー・スノーに・・・恵土賀亜
             雪・雪辱・ソソグ
 日露戦争当時の
 日本の歌詞を紹介
 「雀は歌い・・・・・すずめ・ジャク
  鶯は踊る・・・・・うぐいす・オウ・ヨウ
  春の・・・・・・・はる・シュン
  緑の野は美しい・・みどり・リョク
  ざくろの花は・・・柘榴・石榴
           タクリュウ・セキリュウ
           木+石+木+留(卯+田)       
  紅にそまり・・・・くれない・あか・べに・コウ
  柳は・・・・・・・やなぎ・リュウ
  青葉にみち・・・・あおば・セイヨウ
  新しい・・・・・・あたらしい・シンしい
           振恣意・思惟・示威・詞意
  絵巻になる」・・・えまき・カイカン
           禍遺憾・可為漢・掛如何
 「当時わたしは日本の美を知り、感じとり、
  このロシアに対する勝利の歌に
  日本の誇りと力を感じたのです」・・・
ーーー
 「孫子」の翻訳
 12世紀ごろの
 「西夏語訳」
 18世紀初頭の
 清朝での、
 「満州語訳」
 中国で布教活動を行っていた
 イエズス会宣教師の
 ジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)
 満洲語版を基にして
 「孫子の抄訳」に
 自らの解説を付した
 フランス語で著述
 1772年
 パリで
 「孫子十三編」として出版
 1782年
 「北京イエズス会士紀要・第七巻に再録」
 ナポレオン・ボナパルトも「孫子」を愛読・・・?
 1922年
 フランス軍の
 ショレ(E. Cholet)大佐が
 著書“L'art militarie dans l'antiquite chinoise”
 で言及した・・・
 「孫子」がヨーロッパに伝えられるのは
 1905年
 英訳
 イギリス陸軍大尉
 カルスロップ(E. F. Calthrop)によるもの
 日露戦争後に
 日本研究で
 日本に滞在した
 語学将校
 カルスロップは
 日本人の助けを借りて
 「孫子」英訳を完成
 イギリス人の中国学者
 ライオネル・ジャイルズ(Lionel Giles)は
 杜撰な翻訳を非難、
 自ら中国語原典を元に
 「孫子」の英語版を
 1910年に出版
 同年
 ブルーノ・ナヴァラによる
 ドイツ語訳が出版
ーー
 「戦争論」
 カール・フォン・クラウゼヴィッツの
 「戦争論」との比較
 「戦争論」は
 ナポレオン戦争の
 教訓に学んで著された
 決定的会戦の重視や
 敵兵力の殲滅、
 敵国の完全打倒を
 基本概念として戦争を論じている
 軍事力の正面衝突を
 戦争の本質とするため、・・・?・・・政治の本質
 戦争遂行をそれに則り行った場合、
 国家間の凄絶な総力戦となる
 「孫子」はその比較対象とされた
 イギリスの軍事史家
 リデル・ハート
 「孫子」を古今東西の
 軍事学書の中で最も優れていると評価
 ハートは
 戦争は直接的な戦闘よりも
 策略・謀略を用いた
 間接的戦略を重視すべきであると説いた
 機甲戦術の提唱者
 ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー
 「戦争論」は未完成な書物で、
 読者を誤解に導いたと非難
 戦争の真の目的は・・・?
         ・・・目的は戦争当事者によって
            異なる
 平和であって・・・・・?
 勝利ではない・・・・・勝負の世界は勝利である
 ということを
 クラウゼヴィッツは
 最後まで
 理解できなかった
 と指摘・・・・・・当然であるカナ、ジョンもねッ
ーー↓
 日本への伝来
 「孫子」
  ↓
 「続日本紀」
 天平宝字四年(760年)
 反
 藤原仲麻呂勢力に属し、
 大宰府に左遷されていた
 吉備真備のもとへ、・・・・・吉・備・真・備
          桃太郎には黍団子と犬・猿・雉
          桃=木兆・黍=禾人水・戌申記事
          百太郎
 「孫子の兵法」を学ぶために
 下級武官が派遣された記録アリ
 吉備真備は
 「藤原仲麻呂の乱」で活用
 「恵美押勝の乱」・・・・・???
  ↓(ウイキペデア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E4%B9%B1
  ↓(ボクの家頁)
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki33.htm
  ↓
 孝謙太上天皇
  ↓ 阿倍皇女=孝謙・称徳女帝
  ↓ 駅鈴・印璽の確保
 道鏡と
 対立した
 大師(太政大臣)
 藤原仲麻呂(恵美押勝)が
 政権奪取に失敗
  ↓
 大江匡房
 兵学を修め、
 「孫子」も
 源義家に教え授けた・・・源氏は「新羅」系である
 源義家が
 前九年・後三年の役で
 孫子の
 「鳥の飛び立つところに伏兵がいる」
 という教えを活用し
 伏兵を察知し、敵を破った
 (古今著聞集)
  ↓
 武田信玄が軍争篇の一節より採った
 「風林火山」の旗指物
ーー
 徳川幕府
 戦国時代に蓄積された
 軍事知識の
 理論的体系化がなされる・・・
 「兵学(軍学)」
 江戸時代には、
 五十を超える
 「孫子の注釈書」が出版
 中国で
 明代から清代に出た
 注釈書が日本に伝わり、
 覆刻
  ↓
 劉寅の
 「武経七書直解」
 趙本学の
 「孫子校解引類・(趙注孫子)」
  ↓
 日本人
 林羅山の
 「孫子諺解」
 山鹿素行の
 「孫子諺義」
 新井白石の
 「孫武兵法択」
 荻生徂徠の
 「孫子国字解」
 佐藤一斎の
 「孫子副註」
 吉田松陰の・・・吉田寅(とら)次郎
             虎  二郎
  ↓      父は萩藩士
         杉百合之助・・・?
         山鹿流
         兵学師範であった
         吉田家の養子
         藩校明倫館を経て、
         諸国を遊学。
  ↓      佐久間象山に砲術と蘭学を学ぶ
 「孫子評注」
 など・・・
ーー
 明治以降
 日本は近代的兵学として
 プロイセン流兵学を導入
 日露戦争の
 バルティック艦隊撃破の
 東郷平八郎の
 「丁字」戦法採用
 「孫子」の
 「逸を以て労を待ち、
  飽を以て飢を待つ
 (軍争篇)」
 武藤章陸軍中佐
 「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」
 (偕行社記事・1933年6月)
 1972年
 山東省
 銀雀山から、
 「竹簡孫子」や「孫臏兵法」が発見された
ーーーーー
 ・・・「戦争の根幹」は「自然界の枠内」での「人間個々人」の意識、「個々の家族枠」、「各々の一族郎党縁者枠」、「個々の村落地域集団枠」、「個々の社会的な地域集団組織枠」、「個々の社会的職業集団枠」、「国家意識」・・・としての・・・「エゴ」の「常態化された意識」に尽きる・・・ミンなエゴです・・・
 「モーゼ、ブッダ、キリスト、マホメット」から「カミ」を差し引けば残るのは「ヒトビトの自己存在のエゴ体=自然体」である・・・エゴ=自己の生命維持と保持・・・獲護・恵互・・・?
 「自然体=エゴ体」からの解放は「カミの教え」であった・・・元々、「アブラハム、モーゼ」の「旧約のカミ自体」が「エゴ」で「嫉妬深い存在」で、「災いと救い」の存在と自認しているのだが、お節介で、押し付けがましい彼を信じれば「解放の場所」を保障してくれるのだ・・・
 その「カミの領域」とは「地上」であった・・・「天国」ではない・・・「地上の領域(パレスチナ)」である・・・「カミ」に手伝ってもらって、やっと艱難辛苦、試練苦難の結果手に入れたのに・・・今現在は「解放の場所」でもない・・・
 「ナゲキの壁」を護るため馬鹿でかいコンクリートの壁が国境を囲みつつある・・・莫大なコンクリート、ダムでも建設すれば、とも思うが・・・エゴ意識が肥大化した「国家領域の壁」である・・・秦の始皇帝は「万(萬)里の長城」を築いたが・・・「文字」、「度量」も統一した・・・後は「不老不死」で「永久権力者」になればイイが鍵は「ジャパンの蓬莱国」・・・「徐福(ジョフク)=徐市(ジョフツ)」・・・「市(フツ)」は「割烹着・前掛け・エプロン・白衣=医服」で、「柹=杮(こけら・ハイ)」の「右の字の市」・・・
 「柹」の右の字は「Unicode:U+3427=(亠)+ヤ+/+丶」の
 「第」の略字に類字・・・
ーー
 「十+冂(エンがまえ・マキがまえ・ケイがまえ・キョウ)」、
 or
 「一+巾(はば・きれ・キン)」、
 or
 「丶+帀(めぐる・ソウ)」・・・
ーー
 いずれにせよ、「モーゼ、ブッダ、キリスト、マホメット」は「カミ」を梃子にして「自然秩序意識=弱肉強食のエゴ意識」からの「人間意識の解放」を「人間社会の秩序形成意識」へと転換を試みたのだ・・・
 「自然」からの「解放」とは、元々「自然体=エゴ体」である「人間」の「人間社会でのエゴの相互抑制と相互協力の秩序」、「人間生活での社会的公平秩序」をである。
 だが、「人間社会」はそれを「拒否」した。「王」なる支配者「サウル」を望んで・・・「個々人のエゴなる自由」を選択してきたのである・・・おれも、あんたも、「コイズミ」、「アベちゃん」の選択に「自由」に間接、直接加担したかも・・・おまけに「マスゾエ」までも・・・それでも「選択の民主主義」は存在している。埃及はその「選挙」すらも拒んだ。タイ、ウクライナはどうか?・・・大陸中国、北朝鮮にはそんなモノすら存在しない・・・どうやら、ヒトビトが望んでいるモノは「選挙制度」ではなく、「衣食住の安定」と「政治行政の公平」であるらしいが、「個々人の意識」は「エゴの根源なるカネ」からは解放されるコトを望んでいないようである・・・
 人間最大の発明である「交換物の媒介道具」として「カネ」・・・その道具としての「使用価値」の「カネ」が、「使用価値」の無い「カミ」と「交換」された・・・のだ・・・しかも「交換機能」は「蓄積、退蔵機能」ともなった。不便だからダレかに「預ける」か、あるいは「強制的に徴集される」か、ダマサれて奪われるモノにもなった・・・そして、その「使用の選択の自由意識」が「地上」に「階級・格差」社会として実現されてきた・・・「カミの使い方」・・・確かに色々である・・・今や、カード、そしてコンピュータ上の「暗号」で「数字の金額が動く」・・・
 「自然」が元々「自然の生きた実体」である人間を「解放」してくれるハズがない・・・
 「国家民族主義者」ぶって、「縄張り争い」で血を流しているが・・・「国家」、「民族」ってナンなだか?
 「自然」が望むものは「自然ソノモノでアレ」と云う事なのか、どうなのか、自然災害での犠牲、ナニがあっても「自然と上手く相互に生活しろ」と云う事なのか・・・
 自然が「望むモノ?」は変化と新陳代謝、そのバランスである・・・人間が望むバランスではな・・・
 ・・・将来、食生活で「万能細胞」=「STAP(スタップ)細胞」の培養で「動物性タンパク質」の摂取は「家畜の肉=」からではなくなるかも・・・
 意識的、目的的な戦争での領土争いでの「殺し合いの場」は「国境」でもなく、「戦線」でもなく、マダラな「日常生活の面と空間」での「場」そのものが、「軍事兵器」でない、自動車、電車、工場排ガス、原発、ガス、灯油ストーブ、家庭用電化製品、加工冷凍食品、医療薬品等の諸々の使用によって「無意識的(?)」な殺傷現場となっているのに・・・使い方、食べ方の問題なのか?
 せめて、「狭い人間諸関係の社会の枠内」だけでも、と思うが、「ソウは問屋が卸さない」のが・・・カネの世の中・・・
 で、そもそも、「戦争」はダレのモノなのか・・・一人相撲ではない、戦争仕掛け人の相手がいるコトだし、其のスポンサーも存在する・・・

 

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孫の顔・マゴのカホ・馬子の顔

2014-02-22 01:39:06 | 古事記字源

 ・・・ジィジィとバァバァは「孫の顔」をみたいらしい。「子」よりも「孫」にナニを期待しているのだろう?「子(こ・ね・シ・ス)」は「親の生き方」に批判的で反抗的だし、知ったかぶりで、理屈ぽい、時にはライバル意識で親に対峙する。「孫」は・・・ただただ「めごい・めんこい・面濃・めんごい・めんこ・面子・可愛い・愛(いと)しい」・・・メ語彙?・・・「翰苑」の「後漢書」に「倭面上国王・帥升」、「唐類函・変塞部倭国の条」、所引の「通典」には、「倭面土地王・帥升」・・・の記録・・・「面濃い」って、「顔の彫りが深い」ってことなのか、「日焼け顔」なのか、「目が濃い黒い瞳」なのか、「久留米・来目・久米・大来目命=伊須気余理比売=比売多多良伊須気余理比売・富登多多良伊須岐比売=百合姫=小百合姫=クメの娘)の父・来目王子」は「黒目」なのか、「目の周りに刺青」してたのか・・・
ーー↓
 爾
 大久米命、
 以
 天皇之命詔其
 伊須氣余理比賣之時、
 見其
 大久米命・・・耐久、於補救米命
 黥利目而=ゲ・ゲイ・ケイ・いれずみ・利き目の爾
      解・刑・景・黒京・利の目爾
        芸・迎・桂・刺青(シセイ)
                 市政・利・目次      
            黥=里烈火(灬)京
 思奇歌曰、
 阿米都都=あめつつ?・・・・・阿毎の都の都
                亜米利加の都
 知杼理麻斯登登=ちどりましとと?
  杼=ショ・ジョ・どんぐり
 那杼佐祁流斗米=などさけるとめ
 爾大久米命、答歌曰、
 袁登賣爾=をとめに
 多陀爾阿波牟登=ただにあはむと
 和加佐祁流斗米=わがさけるとめ
ーー
 ・・・それとも「お面」そのものをかぶったヒトなのか・・・「埴輪の面」なのか・・・
 漢字の
 「子(こ・ね・シ・ス)」と
 「孑(ぼうふら・ひとり・ケツ・ケチ)=孒」は、
 「蚊」の幼虫の「孑」の漢字はほとんどが「子」と同じで区別がつき難い。
 「子・孑」を分解すれば「一+了」で「始と終」である。
 熟語なら「始終・終始」である。
 「孑」に「棒振」の漢字を当てる場合もある。「歌舞伎の舞踊の一つ」であるらしい。文字の「棒振」の説明文でみるかぎり、「フラダンス」か「ベリーダンス」である。
 漢字ソノモノの意味は
 「孑=右腕を欠損した子供」、
 「孒=左腕を欠損した子供」であるらしい。
 ならば
 「了」は「両腕のない子供」になってしまう。
 兎に角「蚊=中+ム+亠+乂」の幼虫である。
 「孫(まご・のがれる・ソン・スン・ソウ)」の漢字は
 「子+系」ではなく、活字で見る限り
 「孑+系」である。
 「燕王」の
 「公孫」の字面からすれば「公」の「孫」・・・
 「呉王」の
 「孫権」は「名前」であるように思うが
 「氏姓」が「孫」・・・すると「権」が一字の名・・・?
 ・・・「燕の公孫氏」と「呉の孫氏」の繋がりは・・・「卑弥呼」である・・・それとも
 「孫悟空」か、
 1910年(明治四十三年)に
 「支那暗殺團」を結社した
 「孫文=孫中山」・・・?
 「孫」=まご=「馬子」・・・蘇我馬子・・・?
 「乳母」
 「児孫のために美田を買わず」では
 「子孫」ではなく「児孫」で、
 「児孫」=「兒孫」・・・旧(臼)+儿→「舊+儿」
 「児=兒」ならば「臼のヒト(儿)」である。
ーー
 呉
 222年~280年
 三国時代に
 孫権が
 長江流域に建てた王朝
 姓は
 「孫」氏・・・?
 首都は
 建業(南京付近)
 孫呉、東呉とも呼ばれる
 222年
 魏に対して称臣していた
 孫権が
 「黄武」と言う新しい元号を使い始め、
 魏からの独立を宣言した年
 呉の建国
 孫権が
 皇帝を称して即位したのは
 229年
ーー
 孫権の
 父は
 孫堅
 兄は
 孫策
ーー
 孫堅は
 「孫子の著者」の
 「孫武」の末裔を称していた
  ↓  「孫子」は「兵法書」の署名だが・・・
  ↓  「孫」の「子」はナニを意味しているのか?
      ↓・・・後に「武経七書」の一・・・
      ↓「呉」は「兵法書」の
      ↓「呉子」を指す場合もある
         ↓
        春秋戦国時代に著作され
       「呉起」を主人公とした物語形式
        現存は「呉子・六篇」だが、
       「漢書・芸文志」には
       「呉子・四十八篇」と記録
        部隊編制の方法、
        状況・地形毎の戦い、
      ↓ 兵の士気の上げ方、
      ↓ 騎兵・戦車・弩・弓の運用方法など
      ↓ ・・・?
      ↓ 1)序章
          呉起と武侯との出会い
        2)図国
          政治と戦争について
        3)料敵
          敵情の分析の方法
        4)治兵
          軍兵の統率原則
        5)論将
          戦争指導者について
        6)応変
          臨機応変(法家思想)について
        7)励士
          士卒の激励と鼓舞について
        「和して、しかる後に大事をなす」
        四不和・・・戦争の訓戒、禁止
        国内の不和
        軍内の不和
        部隊の不和
        戦闘時の不和、不調
        「戦争勝利は治による」
        「治とは即ち、規律秩序」
        「進退節度・合図号令遵守」
        連絡不調でも陣容をくずさず、
        散開しても隊列をくずさない
        これを指して「父子の兵」と言う
        死に栄ありて生の辱なし
        軍将の心得
        1)理(管理)
          軍兵管理監督
        2)備(準備)
        3)果(決意)
        4)戎(警戒、自戒)
        5)約(簡素化)
        「一の力で十の敵を撃つ」
        険しい山地で戦う
        狭い谷間で戦う
        「多数を率いるものは、平坦な戦場
         少数を率いるものは、狭隘な戦場
         を選ぶ」
        「賞罰を公正しても、
         賞罰はそれ自体で、
         勝利の保証とはならない。
         号令に、
         喜んで服従する
         動員命令で、
         喜んで戦場に赴く
         敵と刃を交えれば、
         喜んで一命を投げ出す」
         「どうすればよいか?」
        「功績者を、抜擢して手厚く遇し
         且つ、
         功績のない者に対しても
      ↓  激励のコトバをかけてやる」
      ↓
     「孫武」は、紀元前500年ごろ
      当時の「呉」に仕えた人物・・・
      孫武の子孫で
      斉に仕えた
     「孫臏」も兵法書を著す
     「漢書・芸文志・兵権謀家類」
      孫武のものを
     「呉孫子兵法・八十二巻・図九巻」
      孫臏のものを
     「斉孫子兵法・八十九巻・図四巻」と記録
      両書はそれぞれ異なる著作
       ↓
      呉孫子兵法
      十三篇
     1)計篇-序論
       戦争を決断する以前に考慮すべき事柄
     2)作戦篇
       戦争準備計画
     3)謀攻篇
       戦闘に拠らずして、謀略の方法
     4)形篇
       攻撃と守備の態勢
     5)勢篇
       態勢から生じる軍勢の勢い
     6)虚実篇
       戦争での主導性の発揮
     7)軍争篇
       敵軍対する機制、機先
     8)九変篇
       戦局の変化に対応する九の対処戦術
     9)行軍篇
    10)地形篇
       地形による戦術の対処変更
    11)九地篇
       九種類の地形地勢に対応した戦術
    12)火攻篇
       火攻め
    13)用間篇
       敵情偵察
  ↓    間諜、スパイがもたらす情報、分析、判断
  ↓    (竹簡孫子・宋本十一家注孫子)
  ↓    好戦、長期戦の戒
  ↓    「百戦百勝は善の善なるものに非ず。
  ↓     戦わずして
  ↓     人の兵を屈するは
  ↓     善の善なるものなり(謀攻篇)」
  ↓    「彼を知り己を知れば
  ↓     百戦して殆うからず(謀攻篇)」
  ↓    「善く攻むる者には、
  ↓     敵、其の守る所を知らず。
  ↓     善く守る者は、
  ↓     敵、其の攻むる所を知らず(虚実篇)」
  ↓    「兵は国の大事にして、
  ↓      死生の地、存亡の地なり。
  ↓      察せざるべからず」
  ↓    「国を(防衛)全うするを上と為し、
  ↓    (敵)国を破るは之に次ぐ」
  ↓    「百戦百勝は善の善なるものに非ず」
  ↓ ・・・「孫子」は国家存亡の
  ↓    「戦略・政略」を重視・・・
ーー↓
 孫堅は        
 黄巾の乱で
 朱儁の配下
 戦後に
 別部司馬(別働隊の武将)
 辺章・韓遂の反乱の鎮圧で
 長沙太守
 「江東の虎」と評された・・・虎
 189年
 洛陽で
 董卓が関東諸豪族の反感を買い、
 反董卓連合軍が結成され、
 孫堅も出兵し、その途中で
 荊州刺史
 王叡
 南陽太守
 張咨を殺し、
 袁術の配下に入って
 破虜将軍・豫州刺史となった
 孫堅は
 董卓の武将
 華雄(葉雄)を討ち取り、
 呂布を撃退
 董卓は洛陽を焼き払い、長安へ去った
 後、
 反董卓連合軍は内部対立で崩壊
 191年(192年?)、
 孫堅は
 劉表と争い、
 劉表の部将
 黄祖の軍を打ち破るが、
 追撃途中で戦死
ーー
 孫策
 孫堅死後、
 軍団は伯父の
 孫賁の指揮の元で
 袁術の旗下に入り、
 孫策は
 江東(長江の東、江蘇省・安徽省)の
 劉繇
 王朗らを撃破
 江東を制覇
 孫策の周りには
 程普・黄蓋・韓当
 周瑜・太史慈・張昭・張紘・魯粛
 などが結集
 197年
 袁術が皇帝を僭称
 袁術と絶交し、
 献帝を奉じていた
 曹操の配下となる
 曹操の弟の娘が
 孫策の弟の
 孫匡に嫁ぎ同盟
 孫策は
 討逆将軍・呉侯の位を得
 長江の北部の
 劉勲を討ち、
 黄祖を破った
 200年
 孫策は許都侵攻作戦を企てが
 許貢の息子に襲撃され死亡
ーー
 孫権
 継いだのが、
 弟の孫権
 呉建国以前から居住していた
 漢民族は
 宗部・宗伍などと呼ばれた
 208年
 孫権は
 黄祖を討伐
 曹操は官渡の戦いで
 旧袁紹領をすべて併呑、華北を統一
 208年に軍を南下させ
 荊州の劉�懿は曹操に降伏
 曹操は、劉備を追い散らし、江東へと侵攻
 孫権は
 劉備と同盟を結び、
 周瑜・程普を大都督として
 赤壁で曹操軍を撃退
 (赤壁の戦い)
 孫権は、妹の孫夫人を劉備に嫁がせ
 荊州の数郡を劉備に貸し与えた
 後、蜀は劉備に占拠された
 210年
 孫権は
 歩騭を
 交州刺史に任命して交州に派遣し、
 士燮を服属させ、
 呉巨を謀殺した
 212年
 呉から建業へと拠点を移した
 214年
 孫権は呂蒙・甘寧を率いて
 曹操領の皖城を降し、
 廬江太守の
 朱光を捕らえた
 劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有
 孫権は劉備に
 荊州の長沙・桂陽・零陵の三郡の返還を要求
 孫権は軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪った
 曹操が漢中に侵攻
 劉備は孫権と和解し、
 長沙・桂陽を孫権に返還し、
 同盟友好関係を回復
 217年
 劉備に対し
 孫権は曹操と和睦して称臣
 219年
 荊州を攻め落とし、関羽を捕らえて処刑
 孫権は荊州の南部をすべて領有
 220年
 曹操が死去
 曹丕が献帝より禅譲を受け
 魏の皇帝を称した
 221年
 劉備は魏に対抗して
 皇帝を名乗り、蜀漢を建てた
 孫権は
 魏の
 曹丕に対して臣従し、
 呉王に封ぜられる。
 皇帝となった劉備は、荊州奪還で呉に侵攻
 呉の
 陸遜が全軍の指揮を執り、
 蜀軍に大勝
 (夷陵の戦い)
 大勝した孫権は、
 黄武の元号を立てて
 魏から独立
 大敗した劉備は
 223年に病死
 劉禅が継ぎ、
 諸葛亮が政治・軍事の全てを司る
 以降、蜀漢と呉は再び和睦して
 魏に対抗
 
 229年
 孫権は皇帝に即位
 元号を黄龍と改め、
 建業に遷都
ーーー
 その後、
 孫権は
 遼東の
 公孫淵に使者を送って
 魏を挟撃しようとしたが失敗
 東の夷州・亶州(台湾・沖縄諸島)に
 兵を派遣したが、
 亶州には辿り着けず、
 夷州から数千人の住民を連れ帰った
 231年
 潘濬に命じて武陵蛮を討伐し、鎮圧
 234年
 蜀軍との同盟により、
 諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻める
 236年
 五銖銭500枚、
 238年
 五銖銭1000枚の
 価値を持つ貨幣を発行
 246年に廃止
 皇太子
 孫登の死後、
 三男の
 孫和を皇太子に立てたが、
 243年頃から四男の
 孫覇との間での継承争い
 (二宮事件)
 250年
 孫和を庶子に落とし、
 孫覇に対して自殺を命じ、
 皇太子には
 七男の
 孫亮を即ける
ーー
 孫亮・孫休
 252年
 孫権は死去
 十0歳の
 孫亮が皇帝
 太傅・大将軍の
 諸葛恪が政権を握る
 皇族の
 孫峻によるクーデターで
 諸葛恪は殺される
 258年
 孫権の六男
 孫休が擁立
ーー
 孫晧
 孫休が死去し、
 孫権の三男で
 廃太子であった
 孫和の子の
 孫晧が擁立された
 279年
 晋が呉へ侵攻
 280年3月
 晋軍は建業に達して
 孫晧は降伏、呉は滅亡
 ・・・・???
ーーーーー↓
 公孫氏 (遼東)
 公孫氏(こうそんし)
 三国時代の中国において栄えた氏族
 二世紀後半
 後漢の地方官だった
 公孫度が
 黄巾の乱以来の混乱に乗じて
 遼東地方に半独立政権を樹立
 漢民族
 領土
 朝鮮半島中西部
 帯方郡を境に
 南は
 韓と接し
 東北は
 高句麗
 西北は
 烏丸・鮮卑と接する
 公孫康の時代以後
 韓や倭は帯方郡に帰属
 189年
 公孫度は後漢により
 遼東太守に任命
 後に後漢から自立
 朝鮮半島の北端である
 楽浪郡や、
 山東半島まで伸張
 204年
 公孫度の嫡子である
 公孫康が
 楽浪郡の
 南に
 帯方郡を設置
 韓や倭を勢力下に置く
 「魏志韓伝」
 曹操の後漢
 公孫康に服属
 左将軍の官位を授けられた
 公孫康の後継には
 弟の
 公孫恭が立ったが、
 228年に
 公孫康の子
 公孫淵が謀叛
 叔父から位を簒奪
 後漢が崩壊し
 魏・呉・蜀の
 三国に分立
 公孫淵は三国の
 魏に臣従を装い
 呉と同盟工作
 236年
 魏の皇帝
 曹叡から上洛を求められ
 公孫淵は
 魏に反発
 燕王を称した
 翌年には年号を
 紹漢と定めた
 公孫淵
 一度は魏の
 幽州刺史の軍勢を退けたが
 238年
 太尉
 司馬懿の討伐を受け
 国都
 襄平を包囲され降伏
 公孫氏の勢力は消滅
 (遼隧の戦い)
 公孫恭は魏への忠義を貫いたとして
 処刑されなかったが、
 子がおらず
 公孫恭の死により
 公孫度の子孫は滅亡
ーー
 黄巾の乱の前後に
 倭国大乱
 公孫氏滅亡後
 卑弥呼による魏への遣使まで
 倭に関する記事が無い
 公孫氏滅亡直後に
 遼東経由で
 遣使された
 公孫氏が
 倭の勢力が
 中国本土へ朝貢する道を遮って、
 倭からの朝貢を
 公孫氏が受けていた可能性・・・
 「新撰姓氏録」の記録には、
 「常世連」なる帰化人は
 公孫淵の末裔であると記述・・・
ーー
 公孫延-公孫度-公孫康-公孫晃
          |   |
                  公孫恭   公孫淵-公孫脩
ーーー
 公孫度(コウソンド・コウソンタク)
 ?~204年
 字は升済
 初名は豹
 漢末期の群雄
 幽州
 遼東郡
 襄平県の人
 「後漢書・謝弼伝」では
 玄菟郡の出身
ーー
 家系は公孫氏
 父は公孫延
 子は
 公孫康
 公孫恭
 孫は
 公孫淵
 公孫晃
ーー
 父は
 玄菟太守の
 公孫琙に官吏
 公孫琙の早死した
 子の名が、
 公孫度の
 初名と同じ「豹」だった
 尚書郎から
 冀州刺史に転じたが、
 謡言を理由に職を追われた
 董卓が実権を握ったとき、
 友人であった
 徐栄の推挙で
 遼東太守
 後漢が衰退し
 董卓が死んだ後は、
 公孫氏による
 独立国のような体制となった
 公孫度
 襄平の名門を滅ぼし支配を固め
 高句麗や
 烏桓を討伐し
 実権を握った
 曹操に賞され、
 武威将軍
 永寧郷侯の地位を与えられたが
 臣従を嫌い
 遼東王を称した 
ーーー
 公孫氏
 字義通り、公(諸侯)の孫を指す
      ?・・・「ダレの公」の「孫」なのか?
 公の子である
 公子までは公族
 公孫からは臣籍
 公孫を「氏」とすることが多い・・・?
ーー
 公孫氏
 公孫竜・公孫僑(子産)・公孫鞅(商鞅)
 公孫述・公孫瓚・公孫度・公孫淵(遼東公孫氏)
 など
 公孫氏は、多くが
 楽浪から
 襄平・北平・薊(北京)など、
 遼東を含む河北の北部に存在
ーーー

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