『雪の進軍』 『雪の進軍』・・・歌詞は反戦歌です・・・マギレモなく瑕疵・・・
女性の生き様・・・にほんゴコロ・・・
「山本八重(同志社創立者の新島襄の妻)」
「山川捨松(大山 巖(巖・巗))の後妻」
・・・
「緒方貞子」
八重
捨松
貞子
コイシイなつ=小石異名通・・・小石川診療所・・・
「赤ひげ」・・・小石=磐の欠片=磐余彦=神武天皇
大岩に載りたい「石舞台」・・・おおいわ=多いわ
岩倉具視
磐井の乱
527年
磐井
筑 紫 國 造
(つくしのくにのみやつこ)
土筆=付くし・着くし・尽(盡)くし・悉くし・殲くし
突くし・搗くし・就くし・憑くし
都久志・津久志
築 紫=知久氏・矗氏・築志・・・建築を志す
↓↑
築=筑+木
・・・筑=楽器・琴に似る
悲筑(ヒチク)=琴に似た竹の楽器の
悲しそうな音色
京 へ=京都へ・・・「ヘ」
筑紫に=九州に・・・「に」
坂東さ=関東さ・・・「さ」
方向を示す助詞の地方方言
地名
小筑紫町石原 (高知県宿毛市)
朝妻筑摩 (滋賀県米原市)
上志筑 (茨城県かすみがうら市)
筑波 (茨城県つくば市)
筑紫 (福岡県筑紫野市)
筑波 (埼玉県熊谷市)
筑波 (埼玉県鴻巣市)
築=竹+巩+木
竹+工+卂+木
竹+工+凡+木
竹+工+⺄+十+木
竹+工+几+丶+木
チク
きずく・つく
建てる・建物を造る
きね=杵・土をついて固める道具
築山(つきやま)
・・・築山御前=駿河御前
徳川家康の正室
子女
徳川信康
亀姫
母は
今川義元の妹
姉妹
大谷元秀室
北条氏規 室?
「瀬名」?・・・築山殿の実名は不明
源頼朝・・・
築地(つきじ)
築地町(つきじちょう)
築港(ちっこう)・・・小樽築港
築山(つきやま)
杵築(きずき)
↓↑
何故、「造=辶+告
辶+吿
辶+⺧+口
辶+牛+口
辶+𠂉+丄+口
・・・𠂉=カミ挿し・櫛
丄=上
辶+丿+土+口
辶+丿+十+一+口」
が「みやっこ」と訓字るのか?
造=ゾウ=艁=䒃・・・造船
つくる
いたる・行く・到達する
なる・出来上がる
はじめる・始める
みやつこ
宮っ子・都子・看奴・・・嬴通子?
こしらえる・たてる・なす
はじめる・初め・最初
にわか・あわただしい
↓↑
造=みやつこ=渡来系技術者・・・創造・造反有理
豪族が朝廷によって派遣
朝廷に帰順して
国造に任命
その多くは
允恭朝に
臣・連・君(公)・直(凡直)などの姓が贈られた
朝廷直轄領の
県主(あがたぬし)と異なり
軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められた
↓↑
大山 巌(おおやま いわお)・・・
巌=山+厳
山+⺍+厂+敢
山+⺍+厂+丆(丅)+耳+攵
山+⺍+厂+一+ノ+耳+攵
大山 巖(巖・巗)・・・
巖=山+嚴
山+吅+厂+敢
山+口+厂+丅+耳+攵
山+口+厂+一+丨+耳+攵
天保十三年十月十日
1842年11月12日
~
大正五年
1916年12月10日
大運1911年6月(68歳)戊午正財
壬┏寅(己丙甲)印綬・正財帝旺⇔丙辰傷官
冲己
辛┗亥(戊甲壬)偏官・正財 死⇔庚子正官
乙 酉(庚 辛) ・正官 絶⇔辛巳偏官
丁 丑(癸辛己)食神・偏印 衰⇔己丑偏財
午未空亡
↓↑
陸軍大臣(初代・第3代)
陸軍参謀総長(第4・6代)
大警視(第2代)
文部大臣(臨時兼任)
内大臣(第4代)
元老
貴族院議員
称号・階級
元帥陸軍大将
栄典
従一位大勲位功一級公爵
号 赫山・瑞岩
字 清海
従兄弟
西郷隆盛
西郷従道
↓↑
薩摩国
鹿児島城下
加治屋町
柿本寺通(下加治屋町方限)出生
薩摩藩士
大山綱昌(彦八)の次男
幼名 岩次郎
通称 弥助
家紋 佐々木源氏大山氏
「丸に隅立て四つ目」
↓↑
「有馬新七」
らに影響されて過激派に属した
文久二年(1862年)
「寺田屋騒動」で
公武合体派に鎮圧され
帰国謹慎処分
薩英戦争に際して謹慎を解かれ
砲台に配属
西欧列強の軍事力に衝撃
幕臣
「江川英龍」の塾で
「黒田清隆」
らとともに砲術を学ぶ
↓↑
戊辰戦争
新式銃隊を率いて
「鳥羽・伏見の戦い」
「会津戦争」
各地を転戦
12ドイム臼砲
四斤山砲
の改良設計し
「弥助砲」と称され
日露戦争まで長く使用
↓↑
会津戦争
薩摩藩二番砲兵隊長
鶴ヶ城攻撃初日
土佐藩部隊の援護に出動し
弾丸が右股を内側から貫通
狙撃者は
「山本八重(同志社創立者の新島襄の妻)」
後の妻となる
「山川捨松」
とその家族が籠城していた
↓↑
明治二年(1869年)
渡欧
普仏戦争などを視察
明治三年(1870年)~六年(1873年)
ジュネーヴ留学
ロシアの革命運動家
「レフ・メーチニコフ」
と知遇
メーチニコフは
東京外国語学校に教師として赴任
↓↑
西南戦争
西南戦争、相次ぐ士族反乱を鎮圧
西南戦争では
攻城砲隊司令官
明治十三年(1880年)
陸軍卿
第1次
伊藤内閣の陸軍大臣
↓↑
1884年2月16日
陸軍卿
「川上操六」
「桂太郎」
大佐らをしたがえ
欧州兵制視察のために横浜を出発
1885年1月25日
帰国
↓↑
日清戦争(1894年~1895年)
直前には右目を失明
日清戦争
陸軍大将
第2軍司令官
明治三十二年(1899年)5月16日
参謀総長に就任
元帥
↓↑
1903年6月22日
参謀総長として
朝鮮問題解決の意見書を内閣に提出
↓↑
日露戦争(1904年~1905年)
元帥陸軍大将
満州軍総司令官(1904年6月20日)
同郷の
「東郷平八郎」
と並んで
「陸の大山
海の東郷」
↓↑
陸軍を代表し
元老
大正四年(1915年)4月23日
内大臣
↓↑
大正五年(1916年)
大正天皇に供奉
福岡県で行われた
陸軍特別大演習を参観した帰途
胃病から倒れ
胆嚢炎を併発
12月10日
薨去・享年75
死ぬ間際まで
「永井建子」作曲の
『雪の進軍』を聞いてい・・・
↓↑
大山の死は
「夏目漱石」
の死の翌日のこと
12月17日
国葬
参列する
駐日ロシア大使とは別に
ロシア大使館付武官
「ヤホントフ」少将
大山家を訪れ
「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ
花輪を自ら霊前に供えた
敵国の軍人から弔意を受けたのは
大山
と
「東郷平八郎」
の2人だけ
↓↑
墓所
栃木県
那須
塩原市
↓↑
小石川 養 生 所
(こいしかわ ヨウジョウショ)
北緯35度43分11.3秒
東経139度44分40.5秒
↓↑
江戸幕府が
江戸に設置した無料の医療施設
享保~幕末まで
140年あまり
貧民救済の医療施設
↓↑
享保六年(1721年)七月
将軍
「徳川吉宗」は
日本橋に高札を立て
和田倉御門近くの
評定所前に
毎月2日、11日、21日の月3回
目安箱を設置の公示
12月
漢方医
「小川笙船」は
目安箱を利用して
施薬院の設置を嘆願投書
↓↑
享保七年(1722年)正月
吉宗は笙船の上書を取り上げ
「有馬氏倫」に
施薬院の設立を命令
「有馬氏倫」の命を受け
町奉行の
「中山時春」
と
「大岡忠相」は
「小川笙船」の意見を聴取
↓↑
両奉行は
中山
出雲守
組与力
の
「満田作左衛門」
と
大岡
越前守
組与力
の
「吉田十郎兵衛」
を設立の事務方に当たらせた
↓↑
設立計画書
建築費
金210両
銀12匁
経常費
金289両
銀12匁1分8厘
人員
与力2名
同心10名
中間8名
を配置
与力は
入出病人の改めや
総賄入用費の吟味を行い
同心のうち
年寄同心は
賄所総取締
諸物受払の吟味
平同心は
部屋の
見回り、薬膳の立ち会い、錠前預かり
中間は
朝夕の
病人食や看病
洗濯や門番などの雑用を担当
女性患者は
女性の中間が担当
↓↑
小石川養生所の井戸
享保七年(1722年)十二月十三日
小石川薬園(小石川植物園)内に開設
建物
柿葺の長屋で
薬膳所
2カ所
収容人数
40名
↓↑
小石川養生所は
町奉行支配
「小川笙船
丹治」が
肝煎を務め
満田と吉田が
養生所与力に付いた
↓↑
医師
本道(内科)のみ
小川ら7名が担当
設立時の
養生所医師として
「岡丈庵」
「林良適」
が任命され
夜間急病の医師
「木下同圓」
「八尾伴庵」
「堀長慶」
が任命された
↓↑
寄合医師
小普請医師
などの幕府医師の家柄の者が治療
天保十四年(1843年)
町医者に切り替えられ
養生所勤務の年功により
幕府医師に取り立てられるものもあった
↓↑
当初
薬草の効能を人体実験すると風評
利用者が滞り
享保八年二月
入院基準を緩和
身寄りのない貧人だけでなく
看病人があっても貧民であれば
収容
十月
行倒人
寺社奉行支配地の
貧民も収容
七月
町名主に養生所の見学をさせ
風評払拭
患者も増え
医師の増員を随時行った
↓↑
幕末
蘭方医の
「医学所」と「医学館」が対立
蘭方医の権威が低下
↓↑
明治維新
廃止されたが
「医学館」の管轄に移り
「貧病院」と改称存続
漢方医廃止の方針により閉鎖
↓↑
1870年
薬園
養生所施設は
文部省の管轄に移行
1877年
東京帝国大学に払い下げられ
理学部に組み込まれた
↓↑
2012年(平成24年)9月19日
「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」
国の名勝および史跡に指定
↓↑
小石川植物園
(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)
内に
「井戸」
が保存され
関東大震災の
被災者の飲料水と利用された
↓↑
by 『ウィキペディア(Wikipedia)』
↓↑
今(2023/01/12・㊍)は
ここ
蝦夷地は
氷雪の世界・・・
今日は薄曇りだが空が眩しく、気温が穏やか・・・
二階の窓に斜めに迫る
煌めく氷柱(つらら)
その雫(しずく)の音・・・
寒い冬は嫌いだ・・・
灯油備蓄タンク目盛り半分の灯油代金
請求金額「2.3000円也」・・・
物価が安く、公共料金も安かった名古屋の大須4
戀しいのは
夏の日のポプラ並木の蝉の声・・・
大須の那古野山古墳の大木・・・
那古野山 古墳
(なごややまこふん・なごのやまこふん)
愛知県名古屋市中区大須
那古野山古墳公園(旧那古野山公園)
北緯35度09分35秒
東経136度54分04秒
↓↑
6世紀頃 築造
江戸時代
清寿院の後園が造営
↓↑
1879年(明治12年)浪越公園として開放
1910年(明治43年)浪越公園が閉園
1914年(大正 3年)那古野山公園が開園
2022年(令和 4年)那古野山公園が
那古野山古墳公園
↓↑
「柳下水」の井戸
清寿院の境内
尾張名古屋の三名水
明治初期に清寿院が廃寺になった後も
生活用水として使用
昭和50年代に埋め立てられ
跡地にモニュメント設置
2020年(令和2年)3月
モニュメントが取り壊され
公園内に移設
↓↑
本 居 宣 長
(もとおり のりなが)
享保十五年五月七日
1730年6月21日
~
享和元年九月二十九日
1801年11月5日
大運1796年1月(65歳) 己丑正財
庚戌(辛丁戊)偏官・偏財 養⇔辛酉正官
壬午(丙己丁)偏印・正財 死⇔戊戌偏財
甲戌(辛丁戊) ・偏財 養⇔癸卯印綬
乙丑(癸辛己)劫財・正財冠帯⇔癸丑印綬
申酉空亡
↓↑
国学者
文献学者
言語学者
医師
名 栄貞
姓 平氏
通称 弥四郎・健蔵
号 芝蘭・瞬庵・春庵
自宅の鈴屋(すずのや)で門人に講義し
「鈴屋大人(すずのやのうし)」
と呼ばれた
荷田春満
賀茂真淵
平田篤胤
とともに
「国学の四大人(しうし)」
「伊勢松坂」
豪商
小津家の出
↓↑
「契沖」の文献考証
「賀茂真淵」の古道説を継承
『古事記』研究
約35年を費やし
『古事記』研究の
注釈書
『古事記伝』を著
↓↑
『源氏物語』の
「もののあはれ」が
日本固有文学の情緒で本質とし
儒教を自然に背く考えであると非難
中華文明の
「荻生徂徠」を批判
↓↑
儒教仏教流の
「神典を解釈」を批判
「言挙げ」をしない真の道があったと主張
儒教の
「天命論」
「易姓革命」
を批判
「朱子学の理気二元論」
についても空論と批判
世界を理屈で解釈することは
さかしらの
「からごころ」
であり
神々に対する不敬であるとした
そうですか、
兎に角
・・・「古事記」は
「漢字」で記録されていたのだ
↓↑
by 『ウィキペディア(Wikipedia)』
↓↑
https://www.youtube.com/watch?v=PQSVkD9rT0U
ーーーーー
・・・???・・・
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源) + (表紙・画像・音楽)」の 移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
↓↑
メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/user/merikiri/videos
↓↑
モモちゃん
↓↑
モウ君の総合目次 (archive.org)
http://web.archive.org/web/20090606133825/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/kkmokuji.htm
↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m) (archive.org)
http://web.archive.org/web/20090609174025/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm
↓↑
古事記と虎関師錬 (archive.org)
http://web.archive.org/web/20090606191156/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kokan/kokansiren.htm