・・・高校時代に「世界史」を学んだが
「世界史の若い教師」が
「ヒッタイト」
と
「ヒクソス」
を同じ人種と混同し
「鉄器の発明」部族であると
教壇に立ってハナシていた・・・
それを
疑問にした生徒が
「ヒッタイト」と
「ヒクソス」は
違うのではないですかと
先生に質問していたが・・・
回答は曖昧だった・・・
もちろん
ボクには
「カタカナの音声や
民族の名前の相異や
問題提起の
鉄器使用の重大さ」
すら・・・
ドウでもイイコトだったが・・・
多分
「科学、化学、生物学、医学、物理学・・・」
「考古学」も
あの時代も
「ヒッタイト」
と
「ヒクソス」
の歴史は確定できない不明な点が
今現在よりも多かったカモ・・・
共通文字は「ヒ」で
発音も「ひ・ヒ」だが・・・
ツヅク文字の「比較」をカンジレば
「ッタイト」
・・・つた=蘿(蔦・樢・津多・便・傳・伝)
いと=糸(怡土・以登・委奴・意図
伊都・縷・維人
・・・維新の人?
「クソス」
・・・くそす=句蘇素・玖姐主
糞爲・・・?
世界史や日本史を
選択している受験生・・・
ドウ・・・するんだか・・・?
↓↑
ユーチュブで
「ヒッタイト」を観た
序でに
PCの検索・・・
「ウイッキペデア」の記事を視覚と音声で・・・
イヤァ~・・・
「上海ナントカ機構」・・・
何を協力するのか?・・・
エゴイスト集団・・・の「S」と「P」・・・
「独裁権力」を握ったプウチン、キンペイのオマツリ・・・
あの時代の
「領土拡張戦争人間」と同類・・・カモ・・・
「戦争指導者」だけではない・・・
必死で生き残った・・・兵士も従属民も
「勝利の代償」が略奪、強奪、強姦・・・
「敵国国民」に対する「生殺与奪」は「自由」だった?
↓↑
検索で
出てきた「片仮名」を
「漢字表記」したならばドウなるんだか
ーー↓↑ーー
ヒッタイト(hɪtaɪts)・・・筆対訳(譯)?
(英語: Hittites
古代ギリシア語: Χετταίοι・希臘語
ラテン語: Hetthaei)・・・拉丁語・羅甸語
紀元前1600年頃
アナトリア・・・穴(あな・孔)
鳥(とり・取・酉・採り)
蛙(ア・亞・丫)
の北中部
ハットゥシャ・・・法堂者・八頭借?
を中心とした王国を樹立
アナトリア人の王国
レバント北部・・・例番訳(譯・頭)
上部メソポタミア(希臘語: Μεσοποταμία
拉丁・羅甸語: Mesopotamia
複数の河の間
チグリス川
ユーフラテス川
の間の 沖積平野・イラクの一部
女蘇保民亜
の一部を領有
「シュッピルリウマ1世」
シュッ=出・卆・卒・帥
ピル =肥留・蛭・蒜・昼
リ =里・理
ウマ =馬・午・宇摩・旨
の下で
紀元前14世紀半に絶頂
↓↑
紀元前15世紀~紀元前13世紀
「ヒッタイト」・・・アッシリアから見て
西(酉=とり=鳥・鶏・禽)の
地域を指す地名
と呼ばれる
「ハットゥシャ」の王国
エジプト新王国・・・埃及
アッシリア帝国・・・亜西里亜・亜祭里亜・Assyria
ミタンニ帝国・・・・観譚似(爾・邇)?
と競合
中アッシリア帝国が
ヒッタイト王国の多くを併合
残りの部分は
フリュギア人・・・附躘義亞?
よって略奪
紀元前1180年以降
青銅器時代後期の崩壊時
いくつかの独立した
「シロ・ヒッタイト」・・・新ヒッタイト王国
「シロ・ヒッタイト
(Syro-Hittite)王国」
シロ=斯羅・新羅=辰韓
国家に分裂
いくつかは
新アッシリア王国に屈服する前に
紀元前8世紀まで存続
↓↑
ヒッタイト語
インド・ヨーロッパ語族
アナトリア語派の一
ルーアン語・・・留卯行(安・杏・案)?
とともに
歴史的に記録されている最古の
インド・ヨーロッパ語
その話者によって
「nešili=ネサ」・・・音差・根差・禰査?
の言語
ヒッタイト人は自分たちの国を
「ハットゥシャ王国
(アッカド語 ハッティ)」
・・・発停・髪剃・剃髪?
と呼んでいた
紀元前2千年紀の初めまで
この地域に住んでいた
「ハッティ」人に由来
しかし
「ハッティ」人の言語であるハッティ語は
ヒッタイト語とは無関係の言語
「ヒッタイト人」という名称は
19世紀の考古学が最初に
聖書のヒッタイト人であると識別したもの
↓↑
「ハットゥシャ
(トルコ共和国、ボアズカレ)」
・・・母阿事珂例?
のライオンの門・・・・雷音
↓↑
ヒッタイト文明の歴史
楔形文字のテキスト
アッシリア、バビロニア、エジプト
中東の様々な史書で発見され
外交と商業の文通から解読
↓↑
鉄の製錬
青銅器時代後期
アナトリア・・・穴門里蛙(阿・亜)
ヒッタイト人
に起因
後期青銅器時代
初期鉄器時代
の一部として
この地域で
鉄工技術が比較的継続的に普及
青銅器時代の
アナトリアの鉄器は
エジプトなどで発見された鉄器に匹敵
武器となるものはごく少数
採掘、採集し溶かした鉄ではなく
隕石・・・・・音碩?
の鉄を使用
戦車(チャリオット・タンク)の使用
・・・どの部分が鉄
・・・車輪・軸?
↓↑
ヒッタイト王朝
シリア、レバノン、イスラエル
の周りに散らばった小さな王国で
統一された連続性を欠き
子孫は散らばり
バント、トルコ、メソポタミア
などの近代的な民族に統合されていった
↓↑
1920年代
トルコ建国で
ヒッタイト人への関心が高まり
ハレット・チャンベル
タフシン・オズギュチ
などのトルコ人考古学者の注目を集めた
↓↑
ヒッタイト語
20世紀初頭に解読され始め
1902年
ヨルゲン・クヌートソン
(en:Jørgen A. Knudtzon・ノルウェー)
が、ヒッタイト領で発見された粘土板の多くが
アッカド式楔形文字で書かれていることを指摘
「音節文字」で書かれ解読が進んだ
1916年
ベドジフ・フロズニー
(en:Bedřich Hrozný、チェコ)
・・・ボクには「フロズニー」が
「くろすみい」
に聴こえた
黒住・黒澄・黒墨・黒済???
が
この言語は印欧語に属すると結論
さらに解読が進んだ
↓↑
ヒッタイト学
アンカラの
アナトリア文明博物館の設立
ヒッタイト人の美術品や遺物の展示
↓↑
名称
「ハッティ (英: Hatti) 」
旧約聖書の
「ヘテ人(英: Hitti・ヘト人)」
をもとにして
イギリス人
アッシリア学者
「アーチボルド・セイス」
が命名した
↓↑
聖書の
「ヘト人」は
「カナン人」・・・仮名務?
の一派
『エズラ記』9章1節
ユダ王国の指導者たちが
バビロン・・・ 古代名は「神の門」
アッカド語 バビリム
Bab-ilim
聖書では「バベル Babel」
「巴比崙=バビロン」
捕囚から戻っていた時
氏族長たちの報告で
周辺の
異民族の名前として出てくるのを
最後に名前が上がらなくなり
西暦1世紀後半の頃には
ユダヤ人たちから
「名前以外不明の滅んだ民族」
という認識をされていた
(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節)
↓↑
「ヒッタイト人 (Hittites)」
クルガン仮説による
黒海を渡って来た北方系民族説
アナトリア仮説による
アナトリア地域を故郷として拡大
・・・2つの説
↓↑
カマン・カレホユック遺跡
・・・化萬・彼保愉通句?
トルコ共和国
クルシェヒル県
クルシェヒル・・・句留詞重(得)比留?
で鉄滓が発見
ヒッタイト以前の
紀元前18世紀頃
アッシリア商人の植民都市が
アナトリア半島一帯に展開した時代に
鉄があったことが明らかにされ
他国に青銅を輸出、輸入していた
大量の積荷が
海底から発見
↓↑
ヒッタイト古王国
紀元前1680年頃
クズルウルマック・・・句事留沽磨通句?
(赤い河)周辺に
ヒッタイト古王国を建国
メソポタミアなどを征服
ヒッタイト王の称号は
「ラバルナ」・・・等葉留名?
で、古王国の初代王
「ラバルナ1世」
「ラバルナ」の名を継承した
「ハットゥシリ1世」・・・法堂史利?
・・・服部?
「はたおり=機織」の音約
の個人名に由来
ヒッタイトの君主号として定着
ヒッタイト王妃の称号
「タワナアンナ」
・・・垰(多和・乢・嵶)奈(拿)行名?
で、初代の王妃
「タワナアンナ」の名を継承
紀元前1595年頃
「ムルシリ1世」・・・務留詞理?
率いる
ヒッタイト古王国が
「サムス・ディターナ」
・・・纂素・出意多阿名?
率いる
古バビロニアを滅ぼし
メソポタミアに
カッシート王朝を建国
↓↑
ヒッタイト中王国
紀元前1500年頃
ヒッタイト中王国が成立
タフルワイリ
アルワムナ
による王位簒奪が相次ぎ
70年間ほど記録が少ない時代が続いた
↓↑
ヒッタイト新王国
↓↑
ヒッタイト軍の戦車
紀元前1430年頃
ヒッタイト新王国が成立
紀元前1330年頃
シュッピルリウマ1世は
ミタンニを制圧
王の息子達(テレピヌとピヤシリ)
前線司令官
紀元前1285年頃
古代エジプト
と
シリアのカデシュで衝突
(カデシュの戦い)
ラムセス2世の
エジプトを撃退
ラムセス2世は
勝利の記録を戦いの様子と共に
ルクソールなどの神殿に刻んだ
実際には
シリアはヒッタイトが支配を続けた
エジプト
ラムセス王の寺院の壁に
3人乗りの戦車で
ラムセス2世と戦う
ヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)
のレリーフが描かれている
この際
「世界最古の講和条約」締結
「ハットゥシリ3世」
の王妃
「プドゥヘパ(英 Puduhepa)」
作の宗教詩は最古の女性の文芸作
ヒッタイトの宗教
は
フルリ人・・・振る理・・・ルビ振り
の宗教の影響を受け
フルリ文化の色彩強まった
↓↑
紀元前1190年頃
地中海諸地域の諸種族混成集団である
「海の民」によって滅ぼされた
最近の研究で
王国の末期に起こった
3代におよぶ内紛が
食糧難などを招き
王国が滅亡(前1200年カタストロフ)
↓↑
ヒッタイト新王国滅亡後
遺民は
南東アナトリアに移動
紀元前8世紀頃まで
「シロ・ヒッタイト国家
(シリア・ヒッタイト)」の
都市国家群として活動
(紀元前1180年~紀元前700年頃)
・・・「シロ」が「シリア」・・・?
↓↑
歴代君主
古王国以前の支配者
パンバ (紀元前22世紀初頭)
ピトハナ (紀元前18世紀)
ピユシュティ(紀元前17世紀)
アニッタ (紀元前17世紀)
トゥドハリヤ(紀元前17世紀)
PU-シャルマ (紀元前1600年)
古王国
ラバルナ1世 (紀元前1600年頃?)
ハットゥシリ1世(紀元前1586年頃~前1556年頃)
ムルシリ1世 (前1556年頃~前1526年頃)
ハンティリ1世 (前1526年頃~前1496年頃)
ツィダンタ1世 (前1496年頃~前1486年頃)
アンムナ (前1486年頃~前1466年頃)
フッツィヤ1世 (前1466年頃~前1461年頃)
テリピヌ (前1460年頃)
中王国
タフルワイリ
アルワムナ
ハンティリ2世
ツィダンタ2世
フッツィヤ2世
ムワタリ1世
新王国
トゥドハリヤ1世 (前1390年頃?)
(以下の4代の王は
血縁関係や在位年代が不明)
アルヌワンダ1世
トゥドハリヤ2世
ハットゥシリ2世
トゥドハリヤ3世 (前1360年~前1344年)
シュッピルリウマ1世(紀元前1344年~紀元前1322年)
アルヌワンダ2世 (紀元前1322年~紀元前1321年)
ムルシリ2世 (紀元前1321年~紀元前1295年)
ムワタリ2世 (紀元前1295年~紀元前1272年)
ムルシリ3世 (紀元前1272年~紀元前1267年)
ハットゥシリ3世 (紀元前1267年~紀元前1237年)
トゥドハリヤ4世 (紀元前1237年~紀元前1209年)
クルンタ ?
アルヌワンダ3世 (紀元前1209年~紀元前1207年)
シュッピルリウマ2世(紀元前1207年~紀元前1178年)
ーーーーー
ヒクソス(Hyksos)
古代エジプト第2中間期
に登場
シリア・パレスチナ地方に起源を持つ
雑多な人々の集団が
エジプトへ侵攻したもの・・・
↓↑
トリノ王名表
6人のヒクソス王が
108年間在位した
マネトの記録
第15王朝の王も
6人とされ
「ヒクソス・ヒクソス政権」
などはこの第15王朝
↓↑
第15王朝を大ヒクソス
第16王朝を小ヒクソス
と呼ぶ場合もあり
第16王朝については
テーベの
エジプト第13王朝の
後継政権の説
↓↑
「ヒクソス=異国の支配者達」
を意味する古代エジプト語の
「ヘカウ・カスウト」
のギリシア語形に由来・・・希臘語?
↓↑
「ヘカウ・カスウト」
は誤って
「羊飼い・牧人の王達」
などと訳される・・・
↓↑
ヒクソスの起源
未解決の問題で
ヒクソスの権力掌握の史料は
1500年後の
「マネト」・・・真似(儗)徒
による記録のみ
後代の史料は全て酷く歪曲されている・・・
「ヘカウ・カスウト」
外国人の首長
アジア人を指す言葉として使用され
中王国時代に作られ
「ベニ・ハサン」
に残る墳墓に
「異国の首長(ヘカウ・カスウト)
アビシャイ」
が
37人のアジア人を率いて
エジプトへ
産物を運ぶ光景を描いたものがある
「ヘカウ・カスウト」
エジプトを支配する異民族を指す呼称は
支配異民族達が
「ヘカ・カスウト」
の語を尊称として使用してから・・・
↓↑
エジプトを支配した「ヒクソス」が
どのような集団であるのか、詳細不明
エジプト学者
ヴォルフガング・ヘルク
や何人かの学者は
ヒクソスとフルリ人を結びつけた
第2中間期の層から
発見される土器が
北シリアで発見される
「ハブール土器」
「ヌジ土器」
と
フルリ人・・・振る理の人
と関連付けられる土器と
同様の装飾等を論拠としている・・・
エジプト側で発見されている土器は
ハブール土器
ヌジ土器
とも異なるが
同じような装飾を施していることが論拠
↓↑
ヒクソスの人名は
セム語系
言語学的に
ヒクソス
と
フルリ人
を結びつけるのも不可能・・・?
↓↑
ヒクソスとの関係が明白なのは
同時代の
シリア・パレスチナ地方にいた
西セム系の人々
ヒクソスの人名に
西セム語の要素(ヤコブ等)が見られ
ヒクソスの時代と前後して
アナト・・・穴門・長門・・・鳴門?
バアル
とシリア地方の神がエジプトに持ち込まれ
ヒクソスと
「アジア人」の繋がりを想定させる
彼らの物質文化は
「レヴァント」の文化と
エジプトの文化の特徴が混合したもの
神殿の建築や土器、金属加工製品の
形式などは
シリア・パレスチナ地方のそれと類似しているが
同一ではない
ロバの犠牲などの儀式が行われ
このような習慣は
パレスチナ地方でも見られ
ヒクソスは
「アジア系の異民族」などと説明されるが
不明な点が数多くある・・・
↓↑
ヒクソスの活動と
クレタとの関係
「アヴァリス」の遺跡(テル・アル=ダバア遺跡)
クレタ島の
「クノッソス宮殿」に類似した
「牛とび」を描いた壁画の破片が発見され
クノッソスで発見された
第15王朝の王
「キアン」の
「カルトゥーシュ」名を記した
アラバスター製水差しの蓋の存在によって
ヒクソスとクレタ文化圏の間に交渉が明らかとなった
「アヴァリス」
壁画は、単なる模倣ではなく
クレタ文化圏の人々が
エジプトに移住していた・・・
↓↑
ヒクソス
野蛮な侵略者
プトレマイオス朝時代
『アイギュプティカ(エジプト史)』
を著した
「マネト」・・・「真似・儗」+人(徒)?
の記録では
ヒクソス(第15王朝)
による支配を
エジプトを襲った
災厄、異民族支配として描いている
↓↑
「トゥティマイオスの代に
原因は不明であるが
疾風の神が
われわれを打ちのめした。
そして
不意に東方から
正体不明の闖入者が威風堂々と
わが国土に進行して来た。
彼らは
圧倒的な勢力を以て
それを簒奪し
国土の首長たちを征服し
町々を無残に焼き払い
神々の神殿を大地に倒壊した
また
同胞に対する扱いは
ことごとく残忍をきわめ
殺されたり
妻子を奴隷にされたりした
最後に彼等は
サリティス
という名の王を1人、指名した
彼は
メンフィスに拠って
上下エジプトに貢納を課し
最重要地点には
守備隊を常駐させた」
マネトの
『エジプト史(AIGUPTIAKA)』
↓↑
ヒクソスによる支配から
エジプトを「解放」した
テーベ
(古代エジプト語:ネウト・ルクソール)
政権
(第17、第18王朝)が残した記録には
ヒクソス支配をして
「アジア人の恐怖」と呼ぶ・・・
↓↑
「人みな
アジア人の奴役のために衰え
息いを知らず
余は彼と戦い
彼の腹を引き裂かんとす
それすなわち
エジプトの救出と
アジア人の殲滅を
余の願いとすればなり」
かくて
最高会議に侍る高官たちの応えて曰く
「照覧あれ
アジア人の恐怖は
クサエにまで(及ぶ)」と
彼ら
一様に(異口同音に)応えて
その舌ひきつりぬ・・・」
カーメス王
第3年の日付のテキスト
↓↑
ヒクソス
軍事力でもって
エジプトを征服した
異民族政権であるという見解は
このような
古代エジプト人の記録に加えて
戦車、複合弓などの
「新兵器」の使用
シリア・パレスチナ地方に起源を持つ
習俗、人名などの存在によっている・・・
↓↑
異なるヒクソス観
ヒクソスに関する古代エジプト人の記録は
ヒクソスから
エジプトを「解放」した政権による政治宣伝や
「アジア人」に対する
エジプト人の蔑視、偏見が強く介在し
信憑性に問題がある物が極めて多い
ヒクソスに関する同時代史料は
後世のエジプト人による破壊のために
ほとんど残されていない
数々の文献史料や考古学的発見によって
「アジア人」のエジプト移住が
第1中間期から継続的に行われていた
エジプト内部での
単なる政権交代に過ぎない・・・説
↓↑
ヒクソス(第15王朝)
に仕えたエジプト人官僚の存在が明らかで
ヒクソスが
エジプト文化を特に排斥した形跡はない
逆に
エジプトの伝統を数多く導入し
王名も
エジプト式に
「カルトゥーシュ」・・・僄・乂=かる=軽=珂瑠?
に囲んで表記された
ヒクソスと同時代に
彼らの支配地に生きたエジプト人の多くは
それほど強く
「異民族支配」
を意識することは無かった・・・
古代中国~清王朝までの征服王朝は
中国文化を継承、吸収発展させた・・・
中国の各王朝は殆どが北方外来民族政権・・・?
↓↑
「ヒクソス」を含む
アジア人の移住者達は
シリア・パレスチナ系の神々を
エジプトに持ち込んだ
代表的なものは
北シリア地方の
「嵐の神」
で船乗りの守護神であった
「バアル・ゼフォン」
である。この神が
エジプトの
「嵐の神セト」
と同一視されたため
元来上エジプトの神
「セト神」
が下エジプト東部で強い崇拝を受けた
↓↑
ヒクソスの拠点
「アヴァリス」
・・・「阿部・阿倍・安部・安倍」+「里州」
⇔阿毎王朝
第14王朝時代
セト神が主神
第14王朝の王
「ネヘシ」
に対する修辞の1つ
「フト・ウアレト(アヴァリス)の主
セト神に愛されし者」
という表現がある・・・
↓↑
葬制
シリア・パレスチナの影響
この時期のアジア系の人物の墓では
頭を北に
顔を東に
向けるという伝統的な
エジプトの埋葬法とは異なり
死者の頭を南にして
顔を東に向ける
という埋葬法が取られており
墓には
シリア・パレスチナ風に
ロバが副葬されている・・・
↓↑
「世界史の若い教師」が
「ヒッタイト」
と
「ヒクソス」
を同じ人種と混同し
「鉄器の発明」部族であると
教壇に立ってハナシていた・・・
それを
疑問にした生徒が
「ヒッタイト」と
「ヒクソス」は
違うのではないですかと
先生に質問していたが・・・
回答は曖昧だった・・・
もちろん
ボクには
「カタカナの音声や
民族の名前の相異や
問題提起の
鉄器使用の重大さ」
すら・・・
ドウでもイイコトだったが・・・
多分
「科学、化学、生物学、医学、物理学・・・」
「考古学」も
あの時代も
「ヒッタイト」
と
「ヒクソス」
の歴史は確定できない不明な点が
今現在よりも多かったカモ・・・
共通文字は「ヒ」で
発音も「ひ・ヒ」だが・・・
ツヅク文字の「比較」をカンジレば
「ッタイト」
・・・つた=蘿(蔦・樢・津多・便・傳・伝)
いと=糸(怡土・以登・委奴・意図
伊都・縷・維人
・・・維新の人?
「クソス」
・・・くそす=句蘇素・玖姐主
糞爲・・・?
世界史や日本史を
選択している受験生・・・
ドウ・・・するんだか・・・?
↓↑
ユーチュブで
「ヒッタイト」を観た
序でに
PCの検索・・・
「ウイッキペデア」の記事を視覚と音声で・・・
イヤァ~・・・
「上海ナントカ機構」・・・
何を協力するのか?・・・
エゴイスト集団・・・の「S」と「P」・・・
「独裁権力」を握ったプウチン、キンペイのオマツリ・・・
あの時代の
「領土拡張戦争人間」と同類・・・カモ・・・
「戦争指導者」だけではない・・・
必死で生き残った・・・兵士も従属民も
「勝利の代償」が略奪、強奪、強姦・・・
「敵国国民」に対する「生殺与奪」は「自由」だった?
↓↑
検索で
出てきた「片仮名」を
「漢字表記」したならばドウなるんだか
ーー↓↑ーー
ヒッタイト(hɪtaɪts)・・・筆対訳(譯)?
(英語: Hittites
古代ギリシア語: Χετταίοι・希臘語
ラテン語: Hetthaei)・・・拉丁語・羅甸語
紀元前1600年頃
アナトリア・・・穴(あな・孔)
鳥(とり・取・酉・採り)
蛙(ア・亞・丫)
の北中部
ハットゥシャ・・・法堂者・八頭借?
を中心とした王国を樹立
アナトリア人の王国
レバント北部・・・例番訳(譯・頭)
上部メソポタミア(希臘語: Μεσοποταμία
拉丁・羅甸語: Mesopotamia
複数の河の間
チグリス川
ユーフラテス川
の間の 沖積平野・イラクの一部
女蘇保民亜
の一部を領有
「シュッピルリウマ1世」
シュッ=出・卆・卒・帥
ピル =肥留・蛭・蒜・昼
リ =里・理
ウマ =馬・午・宇摩・旨
の下で
紀元前14世紀半に絶頂
↓↑
紀元前15世紀~紀元前13世紀
「ヒッタイト」・・・アッシリアから見て
西(酉=とり=鳥・鶏・禽)の
地域を指す地名
と呼ばれる
「ハットゥシャ」の王国
エジプト新王国・・・埃及
アッシリア帝国・・・亜西里亜・亜祭里亜・Assyria
ミタンニ帝国・・・・観譚似(爾・邇)?
と競合
中アッシリア帝国が
ヒッタイト王国の多くを併合
残りの部分は
フリュギア人・・・附躘義亞?
よって略奪
紀元前1180年以降
青銅器時代後期の崩壊時
いくつかの独立した
「シロ・ヒッタイト」・・・新ヒッタイト王国
「シロ・ヒッタイト
(Syro-Hittite)王国」
シロ=斯羅・新羅=辰韓
国家に分裂
いくつかは
新アッシリア王国に屈服する前に
紀元前8世紀まで存続
↓↑
ヒッタイト語
インド・ヨーロッパ語族
アナトリア語派の一
ルーアン語・・・留卯行(安・杏・案)?
とともに
歴史的に記録されている最古の
インド・ヨーロッパ語
その話者によって
「nešili=ネサ」・・・音差・根差・禰査?
の言語
ヒッタイト人は自分たちの国を
「ハットゥシャ王国
(アッカド語 ハッティ)」
・・・発停・髪剃・剃髪?
と呼んでいた
紀元前2千年紀の初めまで
この地域に住んでいた
「ハッティ」人に由来
しかし
「ハッティ」人の言語であるハッティ語は
ヒッタイト語とは無関係の言語
「ヒッタイト人」という名称は
19世紀の考古学が最初に
聖書のヒッタイト人であると識別したもの
↓↑
「ハットゥシャ
(トルコ共和国、ボアズカレ)」
・・・母阿事珂例?
のライオンの門・・・・雷音
↓↑
ヒッタイト文明の歴史
楔形文字のテキスト
アッシリア、バビロニア、エジプト
中東の様々な史書で発見され
外交と商業の文通から解読
↓↑
鉄の製錬
青銅器時代後期
アナトリア・・・穴門里蛙(阿・亜)
ヒッタイト人
に起因
後期青銅器時代
初期鉄器時代
の一部として
この地域で
鉄工技術が比較的継続的に普及
青銅器時代の
アナトリアの鉄器は
エジプトなどで発見された鉄器に匹敵
武器となるものはごく少数
採掘、採集し溶かした鉄ではなく
隕石・・・・・音碩?
の鉄を使用
戦車(チャリオット・タンク)の使用
・・・どの部分が鉄
・・・車輪・軸?
↓↑
ヒッタイト王朝
シリア、レバノン、イスラエル
の周りに散らばった小さな王国で
統一された連続性を欠き
子孫は散らばり
バント、トルコ、メソポタミア
などの近代的な民族に統合されていった
↓↑
1920年代
トルコ建国で
ヒッタイト人への関心が高まり
ハレット・チャンベル
タフシン・オズギュチ
などのトルコ人考古学者の注目を集めた
↓↑
ヒッタイト語
20世紀初頭に解読され始め
1902年
ヨルゲン・クヌートソン
(en:Jørgen A. Knudtzon・ノルウェー)
が、ヒッタイト領で発見された粘土板の多くが
アッカド式楔形文字で書かれていることを指摘
「音節文字」で書かれ解読が進んだ
1916年
ベドジフ・フロズニー
(en:Bedřich Hrozný、チェコ)
・・・ボクには「フロズニー」が
「くろすみい」
に聴こえた
黒住・黒澄・黒墨・黒済???
が
この言語は印欧語に属すると結論
さらに解読が進んだ
↓↑
ヒッタイト学
アンカラの
アナトリア文明博物館の設立
ヒッタイト人の美術品や遺物の展示
↓↑
名称
「ハッティ (英: Hatti) 」
旧約聖書の
「ヘテ人(英: Hitti・ヘト人)」
をもとにして
イギリス人
アッシリア学者
「アーチボルド・セイス」
が命名した
↓↑
聖書の
「ヘト人」は
「カナン人」・・・仮名務?
の一派
『エズラ記』9章1節
ユダ王国の指導者たちが
バビロン・・・ 古代名は「神の門」
アッカド語 バビリム
Bab-ilim
聖書では「バベル Babel」
「巴比崙=バビロン」
捕囚から戻っていた時
氏族長たちの報告で
周辺の
異民族の名前として出てくるのを
最後に名前が上がらなくなり
西暦1世紀後半の頃には
ユダヤ人たちから
「名前以外不明の滅んだ民族」
という認識をされていた
(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節)
↓↑
「ヒッタイト人 (Hittites)」
クルガン仮説による
黒海を渡って来た北方系民族説
アナトリア仮説による
アナトリア地域を故郷として拡大
・・・2つの説
↓↑
カマン・カレホユック遺跡
・・・化萬・彼保愉通句?
トルコ共和国
クルシェヒル県
クルシェヒル・・・句留詞重(得)比留?
で鉄滓が発見
ヒッタイト以前の
紀元前18世紀頃
アッシリア商人の植民都市が
アナトリア半島一帯に展開した時代に
鉄があったことが明らかにされ
他国に青銅を輸出、輸入していた
大量の積荷が
海底から発見
↓↑
ヒッタイト古王国
紀元前1680年頃
クズルウルマック・・・句事留沽磨通句?
(赤い河)周辺に
ヒッタイト古王国を建国
メソポタミアなどを征服
ヒッタイト王の称号は
「ラバルナ」・・・等葉留名?
で、古王国の初代王
「ラバルナ1世」
「ラバルナ」の名を継承した
「ハットゥシリ1世」・・・法堂史利?
・・・服部?
「はたおり=機織」の音約
の個人名に由来
ヒッタイトの君主号として定着
ヒッタイト王妃の称号
「タワナアンナ」
・・・垰(多和・乢・嵶)奈(拿)行名?
で、初代の王妃
「タワナアンナ」の名を継承
紀元前1595年頃
「ムルシリ1世」・・・務留詞理?
率いる
ヒッタイト古王国が
「サムス・ディターナ」
・・・纂素・出意多阿名?
率いる
古バビロニアを滅ぼし
メソポタミアに
カッシート王朝を建国
↓↑
ヒッタイト中王国
紀元前1500年頃
ヒッタイト中王国が成立
タフルワイリ
アルワムナ
による王位簒奪が相次ぎ
70年間ほど記録が少ない時代が続いた
↓↑
ヒッタイト新王国
↓↑
ヒッタイト軍の戦車
紀元前1430年頃
ヒッタイト新王国が成立
紀元前1330年頃
シュッピルリウマ1世は
ミタンニを制圧
王の息子達(テレピヌとピヤシリ)
前線司令官
紀元前1285年頃
古代エジプト
と
シリアのカデシュで衝突
(カデシュの戦い)
ラムセス2世の
エジプトを撃退
ラムセス2世は
勝利の記録を戦いの様子と共に
ルクソールなどの神殿に刻んだ
実際には
シリアはヒッタイトが支配を続けた
エジプト
ラムセス王の寺院の壁に
3人乗りの戦車で
ラムセス2世と戦う
ヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)
のレリーフが描かれている
この際
「世界最古の講和条約」締結
「ハットゥシリ3世」
の王妃
「プドゥヘパ(英 Puduhepa)」
作の宗教詩は最古の女性の文芸作
ヒッタイトの宗教
は
フルリ人・・・振る理・・・ルビ振り
の宗教の影響を受け
フルリ文化の色彩強まった
↓↑
紀元前1190年頃
地中海諸地域の諸種族混成集団である
「海の民」によって滅ぼされた
最近の研究で
王国の末期に起こった
3代におよぶ内紛が
食糧難などを招き
王国が滅亡(前1200年カタストロフ)
↓↑
ヒッタイト新王国滅亡後
遺民は
南東アナトリアに移動
紀元前8世紀頃まで
「シロ・ヒッタイト国家
(シリア・ヒッタイト)」の
都市国家群として活動
(紀元前1180年~紀元前700年頃)
・・・「シロ」が「シリア」・・・?
↓↑
歴代君主
古王国以前の支配者
パンバ (紀元前22世紀初頭)
ピトハナ (紀元前18世紀)
ピユシュティ(紀元前17世紀)
アニッタ (紀元前17世紀)
トゥドハリヤ(紀元前17世紀)
PU-シャルマ (紀元前1600年)
古王国
ラバルナ1世 (紀元前1600年頃?)
ハットゥシリ1世(紀元前1586年頃~前1556年頃)
ムルシリ1世 (前1556年頃~前1526年頃)
ハンティリ1世 (前1526年頃~前1496年頃)
ツィダンタ1世 (前1496年頃~前1486年頃)
アンムナ (前1486年頃~前1466年頃)
フッツィヤ1世 (前1466年頃~前1461年頃)
テリピヌ (前1460年頃)
中王国
タフルワイリ
アルワムナ
ハンティリ2世
ツィダンタ2世
フッツィヤ2世
ムワタリ1世
新王国
トゥドハリヤ1世 (前1390年頃?)
(以下の4代の王は
血縁関係や在位年代が不明)
アルヌワンダ1世
トゥドハリヤ2世
ハットゥシリ2世
トゥドハリヤ3世 (前1360年~前1344年)
シュッピルリウマ1世(紀元前1344年~紀元前1322年)
アルヌワンダ2世 (紀元前1322年~紀元前1321年)
ムルシリ2世 (紀元前1321年~紀元前1295年)
ムワタリ2世 (紀元前1295年~紀元前1272年)
ムルシリ3世 (紀元前1272年~紀元前1267年)
ハットゥシリ3世 (紀元前1267年~紀元前1237年)
トゥドハリヤ4世 (紀元前1237年~紀元前1209年)
クルンタ ?
アルヌワンダ3世 (紀元前1209年~紀元前1207年)
シュッピルリウマ2世(紀元前1207年~紀元前1178年)
ーーーーー
ヒクソス(Hyksos)
古代エジプト第2中間期
に登場
シリア・パレスチナ地方に起源を持つ
雑多な人々の集団が
エジプトへ侵攻したもの・・・
↓↑
トリノ王名表
6人のヒクソス王が
108年間在位した
マネトの記録
第15王朝の王も
6人とされ
「ヒクソス・ヒクソス政権」
などはこの第15王朝
↓↑
第15王朝を大ヒクソス
第16王朝を小ヒクソス
と呼ぶ場合もあり
第16王朝については
テーベの
エジプト第13王朝の
後継政権の説
↓↑
「ヒクソス=異国の支配者達」
を意味する古代エジプト語の
「ヘカウ・カスウト」
のギリシア語形に由来・・・希臘語?
↓↑
「ヘカウ・カスウト」
は誤って
「羊飼い・牧人の王達」
などと訳される・・・
↓↑
ヒクソスの起源
未解決の問題で
ヒクソスの権力掌握の史料は
1500年後の
「マネト」・・・真似(儗)徒
による記録のみ
後代の史料は全て酷く歪曲されている・・・
「ヘカウ・カスウト」
外国人の首長
アジア人を指す言葉として使用され
中王国時代に作られ
「ベニ・ハサン」
に残る墳墓に
「異国の首長(ヘカウ・カスウト)
アビシャイ」
が
37人のアジア人を率いて
エジプトへ
産物を運ぶ光景を描いたものがある
「ヘカウ・カスウト」
エジプトを支配する異民族を指す呼称は
支配異民族達が
「ヘカ・カスウト」
の語を尊称として使用してから・・・
↓↑
エジプトを支配した「ヒクソス」が
どのような集団であるのか、詳細不明
エジプト学者
ヴォルフガング・ヘルク
や何人かの学者は
ヒクソスとフルリ人を結びつけた
第2中間期の層から
発見される土器が
北シリアで発見される
「ハブール土器」
「ヌジ土器」
と
フルリ人・・・振る理の人
と関連付けられる土器と
同様の装飾等を論拠としている・・・
エジプト側で発見されている土器は
ハブール土器
ヌジ土器
とも異なるが
同じような装飾を施していることが論拠
↓↑
ヒクソスの人名は
セム語系
言語学的に
ヒクソス
と
フルリ人
を結びつけるのも不可能・・・?
↓↑
ヒクソスとの関係が明白なのは
同時代の
シリア・パレスチナ地方にいた
西セム系の人々
ヒクソスの人名に
西セム語の要素(ヤコブ等)が見られ
ヒクソスの時代と前後して
アナト・・・穴門・長門・・・鳴門?
バアル
とシリア地方の神がエジプトに持ち込まれ
ヒクソスと
「アジア人」の繋がりを想定させる
彼らの物質文化は
「レヴァント」の文化と
エジプトの文化の特徴が混合したもの
神殿の建築や土器、金属加工製品の
形式などは
シリア・パレスチナ地方のそれと類似しているが
同一ではない
ロバの犠牲などの儀式が行われ
このような習慣は
パレスチナ地方でも見られ
ヒクソスは
「アジア系の異民族」などと説明されるが
不明な点が数多くある・・・
↓↑
ヒクソスの活動と
クレタとの関係
「アヴァリス」の遺跡(テル・アル=ダバア遺跡)
クレタ島の
「クノッソス宮殿」に類似した
「牛とび」を描いた壁画の破片が発見され
クノッソスで発見された
第15王朝の王
「キアン」の
「カルトゥーシュ」名を記した
アラバスター製水差しの蓋の存在によって
ヒクソスとクレタ文化圏の間に交渉が明らかとなった
「アヴァリス」
壁画は、単なる模倣ではなく
クレタ文化圏の人々が
エジプトに移住していた・・・
↓↑
ヒクソス
野蛮な侵略者
プトレマイオス朝時代
『アイギュプティカ(エジプト史)』
を著した
「マネト」・・・「真似・儗」+人(徒)?
の記録では
ヒクソス(第15王朝)
による支配を
エジプトを襲った
災厄、異民族支配として描いている
↓↑
「トゥティマイオスの代に
原因は不明であるが
疾風の神が
われわれを打ちのめした。
そして
不意に東方から
正体不明の闖入者が威風堂々と
わが国土に進行して来た。
彼らは
圧倒的な勢力を以て
それを簒奪し
国土の首長たちを征服し
町々を無残に焼き払い
神々の神殿を大地に倒壊した
また
同胞に対する扱いは
ことごとく残忍をきわめ
殺されたり
妻子を奴隷にされたりした
最後に彼等は
サリティス
という名の王を1人、指名した
彼は
メンフィスに拠って
上下エジプトに貢納を課し
最重要地点には
守備隊を常駐させた」
マネトの
『エジプト史(AIGUPTIAKA)』
↓↑
ヒクソスによる支配から
エジプトを「解放」した
テーベ
(古代エジプト語:ネウト・ルクソール)
政権
(第17、第18王朝)が残した記録には
ヒクソス支配をして
「アジア人の恐怖」と呼ぶ・・・
↓↑
「人みな
アジア人の奴役のために衰え
息いを知らず
余は彼と戦い
彼の腹を引き裂かんとす
それすなわち
エジプトの救出と
アジア人の殲滅を
余の願いとすればなり」
かくて
最高会議に侍る高官たちの応えて曰く
「照覧あれ
アジア人の恐怖は
クサエにまで(及ぶ)」と
彼ら
一様に(異口同音に)応えて
その舌ひきつりぬ・・・」
カーメス王
第3年の日付のテキスト
↓↑
ヒクソス
軍事力でもって
エジプトを征服した
異民族政権であるという見解は
このような
古代エジプト人の記録に加えて
戦車、複合弓などの
「新兵器」の使用
シリア・パレスチナ地方に起源を持つ
習俗、人名などの存在によっている・・・
↓↑
異なるヒクソス観
ヒクソスに関する古代エジプト人の記録は
ヒクソスから
エジプトを「解放」した政権による政治宣伝や
「アジア人」に対する
エジプト人の蔑視、偏見が強く介在し
信憑性に問題がある物が極めて多い
ヒクソスに関する同時代史料は
後世のエジプト人による破壊のために
ほとんど残されていない
数々の文献史料や考古学的発見によって
「アジア人」のエジプト移住が
第1中間期から継続的に行われていた
エジプト内部での
単なる政権交代に過ぎない・・・説
↓↑
ヒクソス(第15王朝)
に仕えたエジプト人官僚の存在が明らかで
ヒクソスが
エジプト文化を特に排斥した形跡はない
逆に
エジプトの伝統を数多く導入し
王名も
エジプト式に
「カルトゥーシュ」・・・僄・乂=かる=軽=珂瑠?
に囲んで表記された
ヒクソスと同時代に
彼らの支配地に生きたエジプト人の多くは
それほど強く
「異民族支配」
を意識することは無かった・・・
古代中国~清王朝までの征服王朝は
中国文化を継承、吸収発展させた・・・
中国の各王朝は殆どが北方外来民族政権・・・?
↓↑
「ヒクソス」を含む
アジア人の移住者達は
シリア・パレスチナ系の神々を
エジプトに持ち込んだ
代表的なものは
北シリア地方の
「嵐の神」
で船乗りの守護神であった
「バアル・ゼフォン」
である。この神が
エジプトの
「嵐の神セト」
と同一視されたため
元来上エジプトの神
「セト神」
が下エジプト東部で強い崇拝を受けた
↓↑
ヒクソスの拠点
「アヴァリス」
・・・「阿部・阿倍・安部・安倍」+「里州」
⇔阿毎王朝
第14王朝時代
セト神が主神
第14王朝の王
「ネヘシ」
に対する修辞の1つ
「フト・ウアレト(アヴァリス)の主
セト神に愛されし者」
という表現がある・・・
↓↑
葬制
シリア・パレスチナの影響
この時期のアジア系の人物の墓では
頭を北に
顔を東に
向けるという伝統的な
エジプトの埋葬法とは異なり
死者の頭を南にして
顔を東に向ける
という埋葬法が取られており
墓には
シリア・パレスチナ風に
ロバが副葬されている・・・
↓↑
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