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コジキジゲン

アメの比・売利権・・・亜米利加

2013-04-08 09:34:27 | 古事記字源
 雨・・・あめ・・・編め・・・あま・・・天・飴=食+ム+口・・・尼=尸+匕(七・ヒ)・・・修道女・巫女・斎女・斉女・才女・斎藤・・・祭等・歳等差異等・再等・際等・才等・・・賽等=表裏の目は七(なな)・・・「1(壱)+6(陸)」・「2(仁)+5(伍)」・「3(参)+4(肆)」・・・
ーーー

 「生神女」の・・・・・・セイシンジョ・キシンジョ

             イケガミのオンナ

 原語は

 ギリシャ語

 「Θεοτόκος」

 (セオトコス)・・・・・・施音呼素

 これは

 「神」

 (Θεός:セオス)を・・・施牡・施尾州

 産んだ者

 (τόκος:トコス)・・「床・所・常」の州

 「神を産む者」という称号

 男性形

 語尾を

 保つ女性名詞

 である

 教会スラヴ語で

 「Богородица」

 (ボゴロージツァ)・・・・母語賂有字通亜

 「神」

 (Бог:ボーク)を・・・望句・房区・戊有句・母有苦

              暮雨句=くれあめく=呉編句

 生む女・・・有無音名・キジョ=記序・紀如(叙所鋤除助)

 (родица:ロージツァ)と・・・漏字通亜

 翻訳され、

 「生神女」と訳された。

 日本ハリストス正教会では「聖母」という語は用いない。

 「生神女」

 「神の母」

 「永貞童女」・・・英綴同助・洩綴同所→和銅

 (処女のままであった女の意)・・・乙女

 「童女」

 「童貞女」

 「女宰(じょさい)」

 「女王(にょおう)」といった表現が

 祈祷書には用いられ・・・記等書・紀等書・気等書・季等書

 日常的にも

 「生神女マリヤ」と・・・鞠(毬)屋・

            「真理(万理・麻理)耶埜家也」

 呼ばれる。

 理由としては

 大主教聖

 ニコライの・・・・・・・似(爾・仁・丹・荷・尼)古来

 訳を尊重

 「聖なる母」は1人ではない

 「生神女マリヤ」の母

 「アンナ」も聖人であり、・・・按名・安名・案名・庵名

                暗名・闇名・餡名・鞍名

                安和・行納・杏名

 「神の祖母」と

 正教会では呼ばれる

 「イイスス・ハリストス」・・・井伊煤・葉理諏賭州

 (イエス・キリスト)の

 母マリヤの称号

 「Θεοτόκος」

 「神の母」は

 第三

 全地公会議での

 確認事項

 海外正教会でも

 「Θεοτόκος」

 (セオトコス:生神女)

 「the Virgin Mary」・・・ザ・ヴァジン・マリィ

              座・葉亜訊・万理意

 (童女マリヤ)・・・・・・同字与真理也

 「Царица」

 (ツァリーツァ:女王)等と・・・通亜理意通蛙

 呼ばれ

 「Holy Mother」・・・補理意真座亜・堀井間座阿

 (聖母)とは

 呼ばれていない

 マリヤとマリアの違いは転写の違いに由来

 聖書・祈祷書や聖歌では

 「マリヤ」で

 統一

ーー

 アトス山の・・・・・後諏纂

 ヒランダリウ・・・・比良務拿理得

 修道院にある

 生神女マリヤの

 イコン。・・・・・・遺恨・意今・異混

 ダマスコの・・・・・騙す呼→詐欺・詐偽・偽称

 聖イオアンによるイコンの構図で、

 「三本手の生神女」・・・纂本種

 と呼ばれる

 タイプ・・・太附・他意附・他異附・替附

 左下に

 生神女のものではない手が描かれている。

 聖像破壊運動の時代、

 東ローマ帝国皇帝の策略によってイコンを

 描く手を切り落とされた

 聖イオアンであったが、・・・異尾案・委悪行

 生神女の

 庇護により・・・・・・比語・肥後・卑語・鄙語・飛語・蜚語

 手が回復したという

 奇蹟があったと伝えられる。

 この奇蹟に感謝して

 イオアンが手を描き加えたのが

 このイコンの構図の始まりだとされる。

ーーー

 参考原文

生神女 - Wikipedia
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本能寺・・・敦盛・・・

2013-04-06 23:03:12 | 古事記字源
 パストラル・・・ぱすとらる・・・13時50分・・・そうですか・・・「ハナシ」を、「愚痴」を「きいてあげるコト」ですか・・・イキテイルヒトはイキテイルヒトのハナシをキイてあげてください・・・そのハナシの中でタマシイがアソンデイルラシイ・・・ボクにとっては「パス・トラ・ル」の「コジキのトラ」のハナシです・・・「女織田信長」・・・オンナ、オリダ、ノブ、ナガイ・・・22時・・・天海 祐希(あまみ ゆうき・1967年8月8日~)・・・テンカイユウキにはホレタ・・・


[http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/tenmon60/tenmon1.html:title=六十干支・十二支・十干・再考(1)]

ーーーーー???

 パストラル

 (pastoral英・pastorale仏・pastorale伊・パストラーレ)は、

 「形容詞」で

 羊飼いの

 ライフスタイルや牧畜、

 季節や水・食糧の

 入手可能性のために

 広大な

 陸地を家畜と移動すること

ーー

 羊飼いの生活を描いた

 文学・音楽

 「名詞」の

 「パストラル」は

 詩(田園詩、牧歌)

 美術(田園画)

 音楽(田園曲)

 ドラマ(牧歌劇)のこと

 文学の「パストラル」、 

 「名詞・形容詞」の両方としては

 「ブコリック(bucolic)」とも・・・「ぶコりっ句」である・・・?・・・分拠理通句・・・武虎裏通句・・・

 ギリシャ語の「牛飼い」を意味するブーコロス(βουκóλος)に由来する言葉で、

 牧畜の伝統がギリシャ起源・・・であるらしい・・・

 「羊飼い」とは「牧畜家業の人々」であるが、「聖書」では「モーゼ(旧約)」と「キリスト(新約)」のことである。

 で、

 「羊→未(ヒツジ)」の

 「飼い→解(カイ)」とは

 「生神女マリア(正教会)」、

 「ヨアキムとアンナの娘マリア」、

 「童貞マリア」、

 「未艶=マリア(景教)」の

 「歌意」で

 「聖歌のアベ・マリア」・・・

 「ヨセフの妻マリア」、

 キリストの母の名である。

 そして

 「キリストの妻(?)」だったらしい

 「携香女(けいこうじょ)亜使徒」の

  称号を有する

 「マグダラのマリア」

    ↓

 「罪の女」→「娼婦・売春婦・売笑婦」は

 「7月22日(カトリック)」と

 「8月4日(正教会)」が「記念日(聖名祝日)」である。

 「新約聖書中福音書」に

 登場する二人のマリアに加え、もう一人・・・

 「ベタニアのマリア」が記録されている

 「古事記」の

 「ひめ=姫・媛」は

 「比売」と記録されている・・・「比べ売り」である・・・何(なに・カ・?)を「比較して売る」のか・・・「美貌=ビュウティ・beauty」か、「技芸=テクニック・technique」、「excellent=エクセレント」か・・・「sexual technique」・・・

 ・・・誰(who?→何方?→何人?)、何事(what?)、何時(when?)、何処(where?)、何故(why?)・・・如何(how?)・・・一般的には「何人(なんにん)」は人数の数詞呼称である。同じく「何名(なんめい)」とは「人数」を訊ねる「数詞」である。「人」を訊ねるのは「誰(だれ)、何方(どなた)、如何なる者」である・・・混乱するョ、ナ、ッ、ニホンゴ・・・

ーー

 「パストラル」は「酒飲みのパン神(ディオニッシュ)」に関係してくるから・・・「大酒のみのトラ(虎)」の周辺に関係する人々だった・・・?・・・確かに適度に「酔っ払っている時の人々」の「表情・行為・言葉」は現世から解放されたようで、楽しげで、救われているようにも見える・・・過度になれば「眼つき」は鋭く、「行動」は乱暴、「言葉」は支離滅裂で、吼える・・・やがては鼾(いびき)をかいて眠り込んでしまうだろう・・・

 兎に角、「呑み屋」・・・ではダレかが聴いてくれるカモ・・・グチやナヤミ、ヒミツを・・・それに「精神科医」も「坊主・神父・牧師」も・・・カネがいるかも・・・ネッ・・・身内や親友はどうか?・・・孤独感や孤立感は、その殆んどが「身内・親友・愛人」からの「疎外」を感じた時だろう。それに「身動きの出来なくなった病や、不治の病を宣告された時」・・・では、ダレに・・・「同類のモンダイを抱える他人」なら・・・でも、出遭う会うチャンスはあるのか・・・?・・・都会では野良犬は見当たらない・・・野良猫はいるけれど?・・・寄り添ってきて聴いてくれるかどうか・・・メール?・・・なんか、そんな「映画」があったけれど・・・

 この市民社会の枠内で・・・聴いてもらうヒトではなく、聴いてあげるヒトになったら、スグに見つかるカモ・・・

 「拉致誘拐、強制監禁」されたら・・・ソレマデかも・・・でも、イキがナクナルまで、タマシイとイキツヅケル・・・その最期の魂の一瞬は1000年、万年、億年に匹敵する時間かも・・・ 

ーー

 パーンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、

 サテュロスと同じく

 四足獣のような臀部と脚部、

 山羊のような角をもつ(獣人)

 父親はゼウスともヘルメースともいわれ、

 母親はニュムペー

 古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられた

 ギリシア語の「パン」(「全ての」の意)としばしば誤って同一視された結果、

 パーン神は性格と名前が誘惑的なものと思われるようになった。

 原初のパネース

 オルペウス教の

 創世神話に登場する

 原初の

 両性存在の神、プロートゴノス(Πρωτογονος、最初に生まれた者)あるいはパネース(Φανης、顕現する者)と同じものとも考えられた

 この神は原初に

 卵より生まれた

 両性の神で、

 原初神

 エロースの

 別名

 娘ニュクス(夜)とのあいだに初原の神々、

 大地(ガイア)

 天(ウーラノス)を生み出した存在

 (Protogonus/Phanes)

 また「全て」という意味

 アレクサンドリアの神話学者

 ストア派の哲学者たちによって

 「宇宙全ての神」であると解釈された

ーー

 パーンが

 テューポーンに襲われた際に

 上半身が山羊、

 下半身が魚の姿になって逃げた

 山頂にも海底にも世界のあらゆるところに到達できるとされ、

 「全て」を意味する

 接頭語

 Pan(汎)の語源となった

ーー↓

 「汎」=「氵=水」+「凡=亜・亞」

  ↓

 「山羊」が「サンヨウ」で、

 「魚」は「サカナ=作仮名」で、「まな=真名」、「ギョ=禦・御」で「漁=あさる」である・・・

ーー↓

 辞典・事典・字典・時点・次点・自転

  ↓

 凡人、平凡、梵語、旺文

 大修

ーー↓

 言語上の

 誤解は

 ホメーロス風諸神賛歌のなかの

 「パーン賛歌・第19編」から始まったらしい

 『賛歌』の、

 パーンは

 ドリュオプスの娘、あるいは

 ニュムペーと

 ヘルメースの間に生まれ

 山羊の脚、

 頭に

 二本の角を生やす

 パーンの身体を見て恐れた母親は逃げた

 ヘルメースはパーンを

 野兎の皮でくるんで

 神々のもとへ運び、特に喜んだのは

 ディオニューソスだった

 そして「全ての神々を喜ばす」として、

 そこから名前を得たのだという。

 パーンの別名

 ローマ神話ではファウヌス

 インドの牧羊神はプーシャン(Pūṣán)

 パーンが

 アルテミスに猟犬を与え、

 アポローンに予言の秘密を教えた

 ・・・他の自然の精霊と同じく、パーンはオリュンポス十二神よりも古いもの・・・

 パーンはもともと

 アルカディアの神

 アルカディアはギリシア人の居住地であったが、この地のギリシア人はポリスを形成せず、より古い時代の村落共同体的な牧民の生活を送っていたので、オリュンポスの神域がパーンのパトロンになった時、ポリス生活を送る先進地帯のギリシア人は彼らのことを蔑視していた。アルカディアの猟師たちは狩りに失敗した時、パーンの像を鞭打った(テオクリトス vii. 107)。

ーーー

 パーンは人気のない所で、突然、混乱と恐怖をもたらすことから

 「パニック(Panic)・(panikon deima)」の語源

 復興ペイガニズム(Neopaganism)においてパーンは「角を持つ神」の典型として、神の元型の一つだった(→ケルヌンノス)

 パーンとニュムペー

 シューリンクス(Συριγξ、Syrinx)は

 アルテミスの侍女で、アルカディアの野に住む美しいニュムペー(妖精)だった。

 パーンに襲われ、手を触れられた時、彼女は川辺の葦になった。パーンはニュムペーを讃え葦をいくたりか切り取ると楽器を作り「パーンの笛」(パーンパイプ、パーンフルート、つまり古代ギリシア語でシューリンクス、Syrinx)と呼んだ。

 エーコー(Ηχω、Ekho)は歌と踊りの上手なニュムペーであり、全ての男を軽蔑していた。パーンはこれに腹をたて、信者に彼女を殺させた。大地の女神ガイアがエーコーの肉片を受け取り、今もエーコーの声は他の者が話した最後の数語を繰り返している。

 エーコーとはギリシア語で、木霊を意味する。別の伝承では、はじめエーコーとパーンの間にはイアムベー(’Ιαμβη、Iambe)という娘がいた。

 パーンはピテュス(Πιτυς、Pitys)というニュムペーにも惚れた。

 ピテュスは彼から逃げようと

 松の木になった。

 山羊は性的な多産のシンボル

 パーンは処女やダフニスのような羊飼いを誘惑するものと信じられ、ディオニューソスの女性崇拝者であるマイナデスをモノにし、乱痴気騒ぎの中で女を一人残らずものにした。これを達成するため、パーンは時に分身してパーン一族(Panes)となった

パーンとアポローン

 パーンは竪琴の神アポローンと音楽の技を競う

 トモーロス(Tmolus、山の神。オムパレーの夫)が審査員

 パーンは笛を吹き、アポローンが弦を奏でると、トモーロスは一聴、アポローンに軍配を上げたのである。ミダス以外の誰もが同意した。彼は異議を申し立て不公正じゃないかと糾した。

 アポローンはこのような下劣な耳にわずらわされないよう、彼の耳をロバのそれに変えてしまった

 キリスト教文学や絵画に描かれるインキュバス(男性型夢魔)の悪魔風イメージ、サタンの角と割れた蹄のイメージは、大変に性的であるパーンのイメージから取ったものであるらしい

 ギリシアの歴史家プルタルコスが『神託の堕落(;The Obsolescence of Oracles" (『モラリア』5:17))』に書いたことを信じるならば、パーンはギリシアの神々の中で唯一死んだ。ティベリウスの御代にパーンの死というニュースがタムス(Thamus)の元に届いた。彼はパクソイ諸島経由でイタリアに向かう船の船員だったのだが、海上で神託を聞いた。「タムス、そこにおるか? Palodesに着いたなら、忘れず『パーンの大神は死したり』と宣告するのじゃ」と。その知らせは岸辺に不満と悲嘆をもたらした。

 ロバート・グレイヴズは、『ギリシア神話』(The Greek Myths)の中でタムスは明らかに「 Thamus Pan-megas Tethnece」(全てにして偉大なるタンムーズは死したり)を聞き誤ったのであると示唆している。実際、プルタルコスの後一世紀たった頃、地理家のパウサニアースがギリシアを旅した時、パーンを祀る祠や洞、聖なる山を尚もしばしば見た。

 ローマ神話のファウヌス

 ローマ神話で

 パーンに対応するのはFaunus(ファウヌス)

 ファウヌスは

 エウアンドロスがアルカディアから来たとき、

 ラティウム地方(Latium)の王で、

 ピークス王(Pīcus)と

 カネーンス(Canēns)の子だった。

 死後にファートゥウス(Fātuus)神として崇拝された。儀式は神聖な森の中で行われ、現在のティヴォリ(Tivoli)、エトルリア時代以来ティブール(Tibur)、Tiburtine Sibylの座として知られていた地のはずれにその森はあった。ファウヌス自身を象徴する彼の持ち物は狼の毛皮、花や草で作った冠、ゴブレットである。

 ルペルカーリア祭(Lupercālia)と呼ばれ、神殿が建立された日を記念して2月15日に行われた。

 司祭ルペルクスたち(Luperci)は山羊の皮を着、見物人を山羊皮のベルトで打った。

 ファウヌスを讃えるもう一つの祭りがあり、

 ファウナリア(Faunalia)という

 12月5日に行われた

ーーーーー

 「パストラル文学」

 ヘレニズム期

 ギリシアの

 テオクリトスから始まった。

 テオクリトスの

 「牧歌(エイデュリオン)」の数篇は田園地方を舞台とした(コス島)・・・ 

 ・・・テオクリトスは

 ドーリア方言でこれを書いたが、

 使った韻律は、

 ギリシア詩で最も

 有名な形式、

 叙事詩の

 ダクテュロス・ヘクサメトロスだった

 テオクリトスの詩は、

 ギリシアの詩人

 スミュルナのビオン(en:Bion of Smyrna)や

 モスコス(en:Moschus)に模倣された

ーーー

 ローマの詩人

 ウェルギリウスはこの形式の詩を

 「牧歌」でラテン語に適用

 ウェルギリウスは

 政治的なアレゴリー(寓意)の要素を

 パストラル詩に含めた

 イギリスで最初のパストラル詩は

 アレクサンダー・バークレー(en:Alexander Barclay)の

 「田園詩(Eclogues・1515年頃)」で、

 マントゥアヌスの強い影響を受けていた

 イギリスのパストラル詩

 1579年に発表された

 エドマンド・スペンサーの

 「羊飼いの暦(The Shepheardes Calendar)」

 (en:The Shepheardes Calendar)

 この作品には

 一年12ヶ月、12のエクローグで成り立ち、

 方言で書かれ、

 エレジー、

 寓話、

 当時のイングランドの詩の役割に関する論が含まれていた。スペンサーや友人たちも偽名で登場する(スペンサー自身の偽名は「コリン・クラウト」)。スペンサーの『羊飼いの暦』は、マイケル・ドレイトン(en:Michael Drayton)の『Idea, The Shepherd's Garland』やウィリアム・ブラウン(en:William Browne)の『Britannia's Pastorals(ブリタニアの羊飼いたち)』といった模倣を生んだ。

 英語詩で最も有名な

 「パストラル・エレジー(pastoral elegy)」は、

 ジョン・ミルトンがケンブリッジ大学で学友だったエドワード・キング(en:Edward King (British poet))の死に寄せて書いた『リシダス』(1637年、en: Lycidas)である[4]。ミルトンがこの形式を用いたのは、作家という職業を切り開くためと、ミルトンが教会の職権乱用だと思っているものを攻撃する、両方の目的からだった。

 英語詩のパストラル詩は、アレキサンダー・ポープの『牧歌(Pastorals)』(1709年)あたりを最後に、18世紀にいったん死滅した。『Shepherd's Week(羊飼いの1週間)』を書いたジョン・ゲイのようにパロディ化する作家が現れる一方で、ジョンソン博士はその作為性を批判し、ジョージ・クラッブ(en:George Crabbe)はそのリアリズムの欠如を攻撃して、『The Village(村)』(1783年)という自作の詩の中で田舎の生活の真実の情景を叙述しようと試みた。それにもかかわらず、パストラルは生き残った。マシュー・アーノルドが友人の詩人アーサー・ヒュー・クラフ(en:Arthur Hugh Clough)の死に送った挽歌『Thyrsis』(1867年)といった作品がそうだが、ジャンルというよりむしろ雰囲気としてだった。

 パストラル・ロマンス

 イタリアの作家たちはパストラル・ロマンス(英語:pastoral romance、イタリア語:romanzo pastorale)という新しいジャンルを発明した。

 それはパストラル詩と散文で書かれた

 虚構の物語体を混ぜ合わせたものだった

 古典にはこの形式の先例はなかった

 が、この形式のもので最も有名なものは

 ヤコポ・サンナザロ(en:Jacopo Sannazaro)の

 『アルカディア』(1504年)である

 スペインでは

 ホルヘ・デ・モンテマヨール (en:Jorge de Montemayor)の

 『Diana』(1559年)、

 イングランドでは

 フィリップ・シドニーの

 『アーケイディア』(1590年)、

 フランスでは

 オノレ・デュフレ(en:Honoré d'Urfé)の

 『Astrée』(1607年 - 1627年)が書かれた。

 音楽

 テオクリトスの『牧歌』はストロペから成る歌と音楽的な挽歌を含んでいて、ホメーロス同様、羊飼いたちが、典型的な田舎の楽器と考えられる「シュリンクス」つまりパンパイプで演奏した。

 1世紀には、ウェルギリウスの『牧歌』は

 歌う

 道化芝居(ミモス)として上演された。

 パストラル詩への作曲は、最初ポリフォニーの、後にはモノフォニーのマドリガルの中で次第に一般的なものになった。

 パストラル、およびパストラルのパロディは18世紀・19世紀を通して音楽史の中で重要な役割を演じ続けた。

 ジョン・ゲイは

 『ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)』の中でパストラルを風刺したが、ヘンデルの『アチスとガラテア』(en:Acis and Galatea)の台本は誠実なものを書いた。

 ジャン=ジャック・ルソーの

 『村の占い師』(en:Le devin du village)は

 パストラルのルーツを利用し、メタスタージオの『羊飼いの王様』の台本は30回も曲がつけられた。

 有名なものは モーツァルトのものである(en:Il re pastore)。

 ラモーはフランスのパストラル・オペラの著名な主唱者であった。

 ベートーヴェンの『田園交響曲』は、ベートーヴェンが通常よく使う音楽的ダイナミズムを避け、比較的ゆったりしたリズムを選んでいる。描写以上に心の動きに関心があったようで、「絵よりも気分の表現」の作品だと書いている。

 さらにパストラルはグランド・オペラ、とくにマイアーベーアのオペラの中に、特徴として現れた。作曲者たちはしばしば作品の中心で、パストラルのテーマである「オアシス」を発展させようとした。

 ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の中の羊飼いの歌う『alte Weise』や、

 チャイコフスキーの

 『スペードの女王』の中のパストラル・バレエなどである。

 20世紀になってもパストラルは新しい解釈で、とくにバレエ作品で作られ続けた。

 ラヴェルの『ダフニスとクロエ』、

 ニジンスキーが使用したドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、

 ストラヴィンスキーの『春の祭典』『結婚』などである

 美術

 パストラルの風景画はヘレニズム期とローマの壁画に現れた。美術のテーマとして、パストラルへの興味が復興したのは、ルネサンス期のイタリアで、部分的には

 サンナザロの詩『アルカディア』を絵で描いたものにインスパイアされていた。

 ジョルジョーネが描いたとされる『田園の合奏』

 フランスの画家

 クロード・ロラン、ニコラ・プッサン(『Et In Arcadia Ego(我はアルカディアにもある)』)、

 アントワーヌ・ヴァトー(『Fêtes galantes(雅びな宴)』)

ーーーーーー

・・・参考原文は以下

パストラル - Wikipedia

ーー

パーン (ギリシア神話) - Wikipedia

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ようごのようご

2013-04-05 18:04:19 | 古事記字源
 原発3号機の冷却装置が停止した(国会衆院予算委員会・15時)・・・ノンキだナッ!
 ヨウゴのシマツ・・・擁護・・・養護施設・・・雍(ヨウ・ユ・やわらぐ・よろこぶ・ふさぐ・擁=いだく・よく煮た食物・学校・楽曲の名=王の膳部を取り下げる時に演奏する・睦=むつむ・助ける・)・・・ボクの使用している「大修館漢和辞典の941ページ」には・・・

 雍熙・・・和らぎ楽しむ

      康煕辞典

 雍樹・・・小児を抱く

      寄らば大樹の影

 雍州・・・中国古代九州の

      「陝西-甘粛-青海」地方

      合衆国→合州国

 雍防・・・河川の水流を防ぐ

      防衛・防御・妨害

 雍睦・・・和らぎ親しむ

      睦仁→陸奥人

 雍穆・・・和らぐ

    穆(ボク・モク・やわらぐ)=禾+泉+彡

    禾(のぎ)+泉(いずみ)+彡(刷毛あと)

    稲が実って穂を垂れ、

    その実が熟してはじけようとする形

    人の性質を譬えて「穆実」の意としている

    稲の花を表す字が「秀」、

    実って熟すると「穆」、

    実が落ちて残った殻が「禿」

 雍容・・・温和な容貌

      容姿・容量・容積・寛容

 雍和・・・やわらぐ・穏やかで睦まじい

      大和

ーーー

 甕(みか・かめ・オウ・ウ)=雍+瓦(ガ・ゲ・かわら・グラム=g・g)

      g=ジィ=g→瓢箪の形

ーー

 「易経」は、

 「伏羲」が「八卦」をつくり、

 「周」の

 「文王」が

 「卦辞」を作った

 「南宋」の

 「朱熹」が、

 「繋辞上伝」にある

 「太極-両儀-四象-八卦」の

 生成論による

 「乾兌離震巽坎艮坤」の順序を

 伏羲が天地自然に象って卦を

 「伏羲先天八卦」とし、

 「説卦伝」にある

 「父母-長男長女-中男中女-少男少女」の

 生成論による

 「乾坤震巽坎離艮兌」の順序を

 「文王後天八卦」とした

 これにもとづいて配置された図を先天図・後天図という。後天図はもともと説卦伝で配当されていた方位であるため従来からのものであるが、

 「先天図系の諸図」は実際は

 十一世紀の

 北宋の

 「邵雍」の

 著作

 「皇極経世書」が初出

ーーー

 「中国語の雍(雝)」とは

 和やかな

 姓

 雍容

 おうような

 おっとりした

 雍容大方 おっとりしている

 态度雍容 態度がおおらかだ

ーー

 雍 闓(よう がい・?~224年)

 呉に服属していた

 交州の

 士燮を通じて

 呉への帰服を申し出て、捕えていた

 張裔を呉に送った。

 呉の交州刺史であった

 歩隲の取次ぎを受け、

 雍闓は

 孫権から永昌太守に任命

ーー

 秩父宮雍仁親王

(ちちぶのみや やすひとしんのう)

 1902年(明治三十五年)

 六月二十五日

 ~

 1953年(昭和二十八年)

 一月四日)

 二十歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」創立

ーー

 雍 歯(よう し・?~紀元前192年)

 秦末~前漢の武将

 沛の人

 君主が恨みにより偏らずに恩賞を与えることの代名詞となった

ーー

 邵雍(しょう・よう・1011年~1077年)

 北宋時代の儒学者

 字は堯夫

 諡を康節

 范陽(河北省)の出身

 幼いときに父に従い

 共城百泉( 河南省輝県市)に移住

ーー

 山内 豊雍(やまうち とよちか)

 土佐藩の

 第九代藩主

 谷真潮、尾池春水、久徳直利などの人材を用いて藩政改革

 土佐藩二十万石の格式を十万石に切り下げて節約

 問屋制を廃止して

 五人組の強化を行なった

ーー

 稲葉 雍通(いなば てるみち)

 安永五年五月八日(1776年6月23日)

 ~

 弘化四年九月十八日(1847年10月26)

 豊後

 臼杵藩の

 第十一代藩主

 第十代藩主の

 稲葉弘通の次男

 母は側室

 津田氏

 正室は

 有馬頼貴の娘

 子に

 稲葉尊通(長男)

 稲葉幾通(三男)

 稲葉通

ーー

 「雍歯」は、漢の高祖「劉邦」に仕えた武将ながらも一度叛いた事から嫌われ、紆余曲折あって再度味方になったものの、劉邦との仲は良くなかったが、 漢王朝が成立した際に恩賞を巡って諸侯が疑心暗鬼になった為に、劉邦がもっとも嫌った

ーー

 元雍(げん よう・?~528年)

 中国の北魏の皇族

 高陽王

 字は思穆

 献文帝と

 韓貴人の間の子

 485年潁川王に封じられ、

 侍中・征南大将軍

 後に

 中護軍

 鎮北大将軍を領し

 高陽王に改封された

ーー

 「雍」=亠(トウ・ヅ・音の略字)

     +

     幺(ヨウ・ちいさい・おさない)

     +

     隹(スイ・サイ・セ・ふるとり)

 「雍」に関する参考文献は以下のブログのすべて・・・

ーーーーー↓

雍 - Google Search

ーーーーー

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諏訪、大変・・・すわッ、代返・・・

2013-04-03 22:14:50 | 古事記字源
 諏訪・・・
ーーーーー

 「古事記」・・・・・・コジキ

 「先代旧事本紀」・・・センダイクジホンキ

ーーーー↓

 「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)=先代舊事本紀」は、学術的には偽書とされているらしい・・・「旧事紀(くじき)」、「旧事本紀(くじほんぎ)」とも呼称。

 全十巻・・・

 1679年(延宝七年)

 江戸の書店で

 「先代旧事本紀大成経・(七十二巻本)」が発見された。 大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、

 伊雑宮が日神を祀る社

 内宮・外宮は星神・月神を祀るもの

 であるという説を裏づけるものであることがわかり、

 内宮・外宮の神職が

 書の内容の真偽を

 幕府に求めた

 1681年(天和元年)

 幕府は大成経を偽書と断定

 江戸の版元

 「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ

 神道家

 永野采女と

 僧

 潮音道海

 偽作を依頼した

 伊雑宮の神職らを処罰

 以後、由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止

 だが「大成経」は密かに出回った

 「延宝版」、「潮音本」、「七十二巻本」などと呼ばれることがある。

 「鷦鷯(ささき、さざき)伝

  本先代旧事本紀大成経

 (大成経鷦鷯伝・三十一巻本)」

 1670年(寛文十年)刊

 「白河本旧事紀・(伯家伝、三十巻本)」は異本。

 すべて「先代旧事本紀」を基にして

 江戸時代に創作されたと言われている。

 1675年(延宝三年)

 江戸の版元

 「戸嶋惣兵衛」より「聖徳太子五憲法」と称する書物が刊行

 この書物は聖徳太子の憲法は

 「通蒙憲法」

 「政家憲法」

 「儒士憲法」

 「釈氏憲法」

 「神職憲法」の

 五憲法であり、

 「通蒙憲法」が

 「日本書紀の十七条憲法」であるとする

 1679年(延宝七年)

 「先代旧事本紀大成経・巻七十・憲法本紀」は

 1675年(延宝三年)の

 「聖徳太子五憲法」と同じ内容

 「潮音道海(ちょうおんどうかい・1628年~95年)

 黄檗宗の僧

 著書に

 「摧邪輪(さいじゃりん)」

 「坐禅論」

 「霧海南針」

 などがある・・・

ーーーー↓

 センダ=千台・千代・千大・先代・川内・仙台・船台・撰題

 クジ=九字・九時・九次・九児・公事・籤・久慈・句字

 ホンキ=本気・本記・本期・本規・翻記・叛揆・本鬼・本奇

ーー

 「現存古事記」にも「先代旧事本紀大成経・(七十二巻本)」にも、モチロン、「日本書紀」にも記録されているハズなのだが・・・

   ↓

 天照大神の

 「孫」

 邇邇芸命=瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

 の降臨に先立ち、

ーー

 「武」

 甕槌命(たけみかづちのみこと)

 が

 大国主命に

 国譲りを迫った

 大国主命の

 次男である

 建御名方命が

 国譲りに反対し、

 武甕槌命に

 相撲を挑んで負け

 諏訪まで逃げた

 以後

 諏訪から他の土地へ出ないと、

 天津神の命に誓った

 この説話は

 「日本書紀」には記載されていない・・・これは「相撲のコト」なのか?

ーー↓

 日本書紀

 ・・・

 稜威雄走之子

 甕速日、・・・・

 甕速日之子

 熯速日、・・・・派遣

 熯速日之子

 武甕槌。・・・・派遣

 此

 進曰、豈唯

 經津主

 獨爲丈夫、

 而吾

 非丈夫者哉。

 其

 辭氣

 慷慨。

 故以

 卽配

 經津主、・・・・派遣

 令平葦原中國。



 熯速日

 武甕槌

 (經津主)

ー↓

 二、於是、降到

 出雲國

 五十田狹之小汀、

 則

 拔

 十握劒、

 倒植於地、

 踞

 其鋒端、

 而問

 大己貴曰、

 高皇産靈尊、

 欲降

 皇孫、

 君臨此地。

 故先遣

 我二、驅除平定。

 汝意何如。

 當須避不。

 時

 大己貴對曰、

 當問我子、然後將報。

 是時

 其子

 事代主、遊行、

 在於

 出雲國

 三穗(三穗、此云美保→みほ)

 之碕。

 以

 釣魚爲樂。

 或曰、

 遊鳥爲樂。

 故以

 熊野諸手船、

 亦名

 天鴿船。

 載

 使者

 稻背脛

 遣之。

 而致

 高皇産靈尊

 勅於

 事代主、

 且問將報之辭。

 時

 事代主、

 謂使者曰、

 今天有此借問之勅。

 我父宜當奉避。

 吾亦不可違。

 因於

 海中、

 造

 八重蒼柴柴、(此云府璽→ふじ)。

 籬、

 蹈船船、(此云浮那能倍→ふなのば)。

 而避之。

 使者既還報命。

 故大己貴、

 則以

 其子之辭、

 白

 於

 二曰、

 我怙之子、

 既避去矣。

 故

 吾亦當避。

 如

 吾防禦者、

 國內諸、

 必當

 同禦。

 今

 我奉避、

 誰

 復

 敢有

 不順者。

 乃以

 平國時所

 杖之

 廣矛、

 授二曰、

 吾以此

 矛卒

 有治功。

 天孫

 若

 用此矛

 治

 國者、

 必當平安。

 今我當於

 百不足

 之

 八十隅、

 將隱

 去矣。

 隅、(此云矩磨泥→くまで?)。

 言訖遂隱。

 於是、

ーー

 二、

 誅諸不順鬼等、

 一云、

 二

 遂誅

 邪及草木石類、

 皆已平了。

   ↓

 二神は諸不順の鬼神等を誅し、一に云う、二神は邪神及び草木・石の類を遂に誅し、皆すでに平に了(終らせ)た。



 其所

 不服者、

 唯

 星

 香香背男耳。

 故

 加遣

 倭文

 建葉槌命

 者

 則服。

 故

 二

 登天也。

ーー

 倭文、

 (此云斯圖梨俄未→しとりがみ

          かかるはかるなしのガミ)。

          斯=シ・この・これ・かから・さく

          斯道・斯文・斯民・斯須

          斯波←→波斯(ペルシャ)

          俄=ガ・にわかに・たちまち

          俄然・俄頃・俄人(ロシア人)

          俄羅斯=ロシア

 ・・・ナゼ、「倭文=しとり」なんだか?・・・「しつ・おり(織り)」ではないだろう・・・和(倭)文を踏まえるなら「詞取り・史採り」で、「支酉(シユウ)→十二支の九番目」で「鳥取=とりとり」である・・・?・・・

ーー↓ 

 果以復命。

  ↓

 不服は唯(ただ)、「星神、香香背男耳(ほしのかがせおミミ)」→「星神、香香背男のみ(耳)」→であった。

ー↓

 ・・・「耳(ジ・ニ・ジョウ・ニョウ・みみ)」は「助詞のノミ(而已→イ・すでに・のみ)で、限定、断定の字(吾此苟生耳→ワレは、コレ、いやしくも、生きるノミ)」・・・

ー↓

 そこで「倭文神(しとりがみ・やまとのあやのかみ)」である「建葉槌命」を加え遣わして服従させた。そして二神は天に報告に戻った。



 この「一書」では

 「武甕槌神」は

 「經津主神」の従神。

 「稻背脛」も登場

 そして不順わぬ神、

 「星神の香香背男」が登場し、その神は

 「倭文神=建葉槌命」が

 服従させる

 「古事記」とは異なる部分ではアル、かな・・・

ーー↓

 社殿の周りには、

 御柱(おんばしら)と呼ぶ

 四本の

 樅(モミ・もみ)の柱が立てられている

 柱の樹皮は本来は剥がさなかったが、

 1986年頃以降剥がすようになった・・・?ナゼ・・・

 

 一之御柱

 拝殿に向かって右手前

 (前宮・秋宮・春宮の場合。本宮は左手前)

 二之御柱

 向かって左手前(本宮左奥)

 三之御柱

 向かって左奥(本宮右奥)

 四之御柱

 向かって右奥(本宮右手前)

 「前宮・秋宮・春宮」では

 「一之御柱・二之御柱」は

 正面を向いているが、

 「本宮」では

 南方の守屋山の方向を向いている。

 諏訪地方では、大きい神社から小さい祠にいたるまで、これに習ってこの「御柱」を設ける社が多い。

 御柱の由来は明らかでなく

 古来より説があるが、

 神霊降臨の依り代説

 聖地標示説

 社殿建て替え代用説

 があるらしい・・・言葉が先か、建物、柱が先か・・・四本・・・「音葉詞等」・・・

 諏訪大社の御柱は

 寅と申の年に建て替えられ(御柱祭)、

 全国の諏訪神社や関連社でも同様の祭(小宮祭)が行われる。

 「諏方大明神画詞」には平安時代初期の

 桓武天皇年間(781年-806年)に

 御柱祭実施の

 記載があり]、その頃にはすでに御柱が設けられていたとされる・・・?・・・

 神体・宝殿

 旧宝殿

(本宮近くの大国主命社)

 には

 本殿が設けられていない

 本宮は

 拝殿後背林(通称 御山)、

 秋宮は

 イチイの神木、・・・櫟(いちい)=木+楽

 春宮は

 スギの神木・・・・・杉(すぎ=椙は国字)

 を神体

 前宮は古くは上社摂社であった関係で

 本殿を有す

 「本宮・秋宮・春宮」には、

 本殿がない代わりに

 二つの宝殿がある。

 宝殿の一方には

 神輿が納められ、・・・・カミの輿=地図

 寅と申の年の

 御柱祭で

 御柱

 建て

 替えと

 同時に

 もう一方へ遷座し、

 古い宝殿は建て替えられる

 一つの宝殿は

 十二年ごとに建て替えられ、

 神明造に似た古い様式で現在に伝えている。

 寅年から申年の間、神輿は向かって

 右の宝殿に納められる(申年から翌寅年は逆)

 神輿の納められる宝殿は

 「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、

 もう一方は

 「権殿」と呼ばれる

 このように

 宝殿は一般の

 本殿にあたると解され、

 神社に本殿が設けられる

 過渡期の状態と考えられている

 宝殿を含め社殿は華美な

 装飾・塗装はなされず

 全て

 素木造である

 祭祀が始まった時期は不詳

 文献上は

 「日本書紀・持統天皇」

 五年(691年)八月に

 「信濃須波」の神を祀るというのが初見

 平安時代の

 「日本三代実録」には

 「建御名方富命神社」

 「左経記」には

 「須波社」と記載

 「延喜式神名帳」では

 「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載され

 名神大社に列している

 この二座が

 上社・下社を指すとされる

 信濃国の一宮とされた

 古くから軍神として崇敬され、

 坂上田村麻呂が

 蝦夷征伐の際に

 戦勝祈願をしたと伝えられる

 鎌倉時代には

 「諏訪社」の表記

 「上宮」・「上社」の記載もある

 治承四年(1180年)が

 上下社の

 区別が明示されている初見

 他の神社同様、

 当社も

 神仏習合により上社・下社に

 神宮寺が設けられて

 別当寺(神社を管理する寺)となり、

 上社は普賢菩薩

 下社は千手観音が

 本地仏とされた

 戦国時代に

 武田信玄が諏訪へ侵攻し、信玄によって

 永禄八年(1565年)から翌年にかけて

 上社・下社の祭祀の再興が図られた

 信玄からの崇敬は強く、戦時には

 「南無諏訪南宮法性上下大明神」の

 旗印を先頭に

 諏訪法性兜をかぶって出陣した

 江戸幕府

 第三代将軍

 徳川家光によって

 上社に

 朱印1,000石

 下社に

 500石が安堵

 高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)

 会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進された

 明治四年(1871年)

 近代社格制度において

 国幣中社に列し

 「諏訪神社」を正式名称とした

 明治二十九年(1896年)に

 官幣中社、

 大正五年(1916年)に

 官幣大社と昇格

 ・・・ナゼ、「名前」がこんなに・・・そもそも、「名+前」の「前」とは何を意味しているのか?・・・

 神階

 建御名方神



 承和9年(842年)5月14日、

 無位勲八等から従五位下勲八等

 (『続日本後紀』)

   表記は「南方刀美神」



 嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上

 (『日本文徳天皇実録』)

   表記は「御名方富命神」



 仁寿元年(851年)10月27日、従三位

 (『日本文徳天皇実録』)

   表記は「建御名方富命大神」



 貞観元年(859年)1月27日、

  正三位勲八等から従二位勲八等

  (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命神」



 貞観元年(859年)2月11日、正二位勲八等

  (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命神」



 貞観9年(867年)3月11日、従一位勲八等

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命神」



 寛平5年(893年)11月3日、正一位

 (『日本紀略』)

        八坂刀売神



 承和9年(842年)10月2日、無位から従五位下

  (『続日本後紀』)

    表記は「健御名方富命前八坂刀売神」



 嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上

 (『日本文徳天皇実録』)

    表記は「健御名方富命前八坂刀売命神」



 仁寿元年(851年)10月27日、従三位

 (『日本文徳天皇実録』)

    表記は「前八坂刀売命大神」



 貞観元年(859年)1月27日、正三位

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」



 貞観元年(859年)2月11日、従二位

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」



 貞観9年(867年)3月11日、正二位

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命前八坂刀自命神」



 寛平5年(893年)11月3日、従一位

 (『日本紀略』)

 天慶年間(938年-946年)、正一位

 (『諏方大明神画詞』)

ーー

 上社

 大祝(おおほうり)

 諏訪氏(神氏)

 祭神・建御名方神の後裔。古代から代々、上社の大祝を務めた。中世には大祝を中心として武士団化した。

 上諏訪の祭政の権を握っていたが室町時代に兵馬の惣領家・祭祀の大祝家に分かれ、のち惣領家に統一された。

 江戸時代には諏訪藩を治めたが、

 諏訪頼忠の

 四男・

 頼広が大祝家として分かれ、

 藩主家と異なる

 「諏方」の字を用いて書き分けた。

 居館は神殿(ごうどの)(現 前宮)

 のち諏訪市中洲(位置)

 神長官(じんちょうかん)

 古くは神長(かんのおさ)

 守矢氏

 上社五官の1つで筆頭

 建御名方神の諏訪入りに抵抗したとされる

 洩矢神の後裔

 上社の神事全般を掌握

 居館は茅野市宮川(位置)

 禰宜大夫(ねぎだゆう)

 小出氏

 上社五官の1つ。

 祭神の御子・

 八杵命の後裔。

 権祝(ごんのほうり)

 矢島氏

 上社五官の1つ。

 祭神の御子・

 池生神の後裔

 居館は諏訪市中洲神宮寺(位置)

 擬祝(ぎのほうり)(まがいの-とも)

 小出氏

 のち

 伊藤氏

 上社五官の1つ

 

 副祝(そいのほうり)(そえの-・ふく-とも)

 守矢氏

 上社五官の1つ。

 祭神の御子・

 方倉辺命の後裔。

 下社

 大祝:金刺(かなさし)氏のち武居氏

 科野国造の後裔

 中世には大祝を中心として武士団化した。

 室町時代に

 金刺氏は

 上社との争いに敗れ他国へ去り、以後は

 武居祝から大祝が立てられた。

 居館は下諏訪町上馬場のち下諏訪町武居。

 武居祝(たけいほうり)(竹居祝)

 下社五官の1つで筆頭

 禰宜太夫

 下社五官の1つ

 権祝

 下社五官の1つ

 擬祝

 下社五官の1つ

 副祝

 下社五官の1つ

 その他の神職として、

 若宮祝・宮津子祝・

 神楽役検校大夫・天王祝などの祝、

 八乙女。

 荷子などが文献に見られる。

 明治以降は神社本庁から神職が派遣されるようになり、上記の氏族の世襲は廃止。

ーーーーー

 『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は、

 平安時代末期に編まれた

 歌謡集。

 今様歌謡の集成。

 編者は

 後白河法皇。

 治承年間

 (1180年前後)の作。

ーー

 梁(はり)の上に積もっているちり

 梁上のちり

 「梁塵を動かす」の故事から

 すぐれた

 歌声

 また、

 歌謡

 音楽

ーー

 後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、

 書き留めて本にした。また、

 歌謡の歴史などについて、

 別に

 口伝集十巻を残した。

ーーー↓

 書名の「梁塵」は、

 名人の歌で

 「梁(はり・やな・リョウ・ロウ)の

  塵(ごみ・ちり・ジン)」も動いたという・・・?

 故事より、

 すぐれた歌のこと・・・らしい・・・が、この同音のヨミを見たら笑っちゃう・・・?

ーーー↓

 はり・

 やな・

 リョウ・

 ロウ

 

 ごみ・

 ちり・

 ジン・

ーーー↓

 『梁塵秘抄』の名は

 『徒然草』

 第十四段に見える。

 また

 『本朝書籍目録』に

 二十巻と書かれている。

 近代までは

 口伝集巻第十が

 『群書類従』に収められたのみで、

 他の部分は失われたと考えられていた。

 しかし

 1911年

 (明治四十四年)

 佐佐木信綱らによって

 巻第二、

 巻第一と

 口伝集巻第一の断片、

 口伝集の

 巻第十一から

 第十四が発見された。

 そして大正から昭和にかけて、

 佐佐木の校訂による本が

 明治書院と

 岩波書店から刊行された。

 したがって

 『梁塵秘抄』の

 中の歌が一般に知られたのは

 比較的新しいことである。

 『梁塵秘抄』は

 もと

 本編十巻、

 口伝集十巻だったと見られている。

 しかし現存するのはわずかな部分のみである。

 また、

 口伝集の

 巻第十一以降については

 謎がある。

 今様の碑、仏は常にいませども‥‥、永観堂内、京都市東山区

 本編は、

 巻第一の断簡と、

 巻第二しか知られていない。

 歌の数は

 巻第一が

 二十一首、

 巻第二が

 五百四十五首、

 あわせて

 五百六十六首である。

 ただし

 重複があるので、実際の数はもう少し減る。

 巻第一の最初には

 「長唄十首、

  古柳三十四首、

  今様二百六十五首」とあるので、

 完本であれば

 巻第一には

 三百九首が収められていたことになる。

 多くの歌が

 七五調四句や、

 八五調四句、あるいはそのバリエーションの調子を持つ。

 しかし

 五七五七七の調子もあり、

 歌の形態は様々である。

 『梁塵秘抄』と言えば、

 遊びをせんとや生れけむ、

 戯れせんとや生れけん、

 遊ぶ子供の声きけば、

 我が身さえこそ動がるれ。

 舞え舞え蝸牛、

 舞はぬものならば、

 馬の子や

 牛の子に

 蹴させてん、

 踏破せてん、

 真に美しく舞うたらば、

 華の園まで遊ばせん。

 のような

 童心の歌が有名であり、あるいは

 東屋(あづまや)の

 妻とも終(つい)に

 成らざりけるもの故に、

 何とて

 むねを

 合せ初めけむ。

 のように艶っぽいものもある。 しかし、数の多くを占めるのは

 仏は常にいませども、

 現(うつつ)ならぬぞあわれなる、

 人の音せぬ暁に、

 ほのかに夢に見え給ふ。

 のような

 法文歌である。また、神社への道行や、風景を歌ったものも多い。現代人好みの歌はそれほどあるわけではない。

 口伝集は

 各ジャンルの歌に関して書きつづったものだと考えられている。

 現存するのは

 巻第一のほんのわずかと、

 巻第十、それに

 巻第十一から

 第十四のみである。

 巻第十一から

 巻第十四には、実際の歌い方が書かれている。

 しかし歌い方の伝承は絶え、

 現在解読は困難である。

 佐佐木信綱によれば、これらは後白河法皇自らの撰によるものではないという。

 のちに一つにされ

 「口伝集巻第十一」以下の題名を付けられたと考えられている。

 もしこれが

 『梁塵秘抄』に加わるとすれば、

 総数は二十巻以上となり、

 『本朝書籍目録』の

 記述に

 矛盾する。

 現在発行されている古典全集の多くは、

 巻第十一以降を省き、

 口伝集の巻第一と

 巻第十のみを収めている。

 巻第十一以降を見ることができるのは、

 一般的には

 岩波文庫版だけである。

 たしかに

 巻第十一から第十四の

 内容は難解であり、

 全集に収めてもあまり意味がないかも知れない。しかし、解説にさえもこれらに関する記述が一言もなく、岩波文庫版を先に見たものは不自然に感じる。これは巻第十一以降研究の難しさを表しているのかも知れない。

 本編

 巻第一

 二十一首のみ残る。

 巻第二

 五百四十五首残る。

 写本は

 一冊のみ現存する。

 巻第三 から 巻第十

 欠巻

 口伝集

 巻第一

 文庫版にして

 二ページほどしか残っていない。

 神楽・催馬楽・風俗・今様の

 起源について語る。

 口伝集

 巻第二 から 巻第九

 欠巻。

 娑羅林・只の今様・片下・早歌・初積・大曲・足柄・長歌・田歌

 などについて書かれていたらしい。

 口伝集

 巻第十

 撰者、後白河法皇の今様への関わり。いわば“今様バカ一代”としての

 後白河法皇の

 半生記である。

 十代の頃から今様を好み、昼夜問わず歌いまくり、歌の上手がいると聞けば召して聞き、

 歌いすぎで

 三度も喉をつぶしたという。

 その執心にはあきれるのを通り越して感動さえ覚える。まして、政治的には大変な時代であり、しかもその中心にいた後白河法皇その人の事績であると考えると、驚嘆せざるを得ない。

 口伝集 巻第十一 から 巻第十四

 前述の通り、もとは

 別の書であったと考えられている。

 歌い方の

 心得や、

 音律や

 拍子などが記されているようであるが、

 一般人には(おそらくは専門家でも)

 解読は難しい。

 巻十一は、

 『郢曲抄』とも称される。

ーーーー

 ・・・???・・・

 ・・・「出版本屋」は騙しの元締め・・・

ーー

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真記漏

2013-04-02 20:07:20 | 古事記字源
壱千壱百・壱壱〇〇・千百・一一〇〇・壱壱零零・・・撰白・宣曰・・・専比訳・・・
ーー

 4月に

 綿を・・・綿=わた・メン=糸+白+巾

      棉=わた・メン=木+白+巾

 収穫していた

 ことが

 由来で、

ーーー↑

 ・・・「4月」に「綿を収穫」していたとは場所は「何処」だ?・・・日本であるならば、節季は「3月31日→(卯=兎・兔)→4月1日~4、5日まで」の時期で「ワタの種蒔き」なら理解できるが・・・収穫時期ではないだろう・・・インドかアメリカ南部・・・?・・・ブログ記事には・・・

ーー 

 分類-非耐寒性一年草(本来は多年草)

 種まき-春まき(4月中旬~5月)

 植え付け-5月~6月

 開花時期-8月中旬~10月

 収穫期-9月~11月

 花色-黄色、白、ピンク

 発芽温度-20℃~30℃

 直播き-移植を嫌う、多湿を嫌う

 花言葉-偉大・崇高・繊細・有用・優秀

ーー

 日本の「綿花の種」は、

 17世紀に中国、朝鮮からもたらされた高級品

 江戸時代中期に綿花の栽培、流通、生地、織物として拡大した

 明治時代に機械紡績業が発展したが

 海外から安くて良質な綿花が輸入され、国内生産の綿花産業は衰退した

ーーー↓

 「四月一日に綿を抜く」から「わたぬき」となった。

 「IME」では「四月朔日」が表示されるが、この

 「朔」は「はじめ」

 すなわち、・・・・・諏名倭地(知)

 「ついたち」・・・・対多知

 という意味である。

 綿入れの綿を抜いて

 袷(あわせ)にして衣替えをすること。

 また、その

 袷。

 「四月朔日」とも書く

 綿入れから袷に衣替えをすること。また、それが行われる

 陰暦4月1日のこと。

 季節 夏

 

 「わたぬき」

 表地と裏地の間に

 保温のために入れる

 綿を抜いて

 冬装束を

 夏の装束に

 替える作業

ーー 

 3月は「桜の花」と「菜の花」の時期である・・・北海道は、まだ雪の季節である。日本の「本土、本州」の季節ではない・・・

 「菜の花(なのはな・Tenderstem broccoli)」は、「アブラナ(油菜)」または、「セイヨウアブラナ(西洋油菜)」の別名であるらしい・・・「現存コジキ」の「あぶら」は「神代(かみよ・シンダイ)」の「天地初発成す」



 古事記上巻二

 別天神(源字は示+申)五柱~神(源字は示+申)世七代

 天地

 初發之時、

 於

 高天原成神(源字は示+申)名、

 天之御中主神(源字は示+申)。

 (訓高下天云阿麻。)=訓読みで、高の下の「天は阿麻」

 下效此。

 次

 高御產巢日神(源字は示+申)。

 次神(源字は示+申)產巢日&神(源字は示+申)。

 此

 三柱神(源字は示+申)者、

 並

 獨神(源字は示+申)

 成坐而、

 隱身也。

 次

 國稚

 如

 浮

 脂・・・あぶら

 而、

 久羅下那州・・・くらげ・水母・海月→句等解

 多陀用幣流・・・ただよえる・多拿用重留

 之時、・・・・・シジ・詞字・史事・指示・私事・支持・師事

 (流字以上十字以音)。=音読みで

 如

 葦牙因萌騰之物而成神(源字は示+申)名、

 宇摩志阿斯訶備比古遲神(源字は示+申)。

 (此神(源字は示+申)名以音。)=音読みで

 次

 天之常立神(源字は示+申)。



 (訓常云登許、)=訓読みで「常」は「登許」

       ↓

     「常(ジョウ)→譲(高野長英)」は

     「登(渡辺崋山)を許す」

 渡辺 崋山(わたなべ かざん)

 寛政五年九月十六日

 (1793年10月20日)

  ~

 天保十二年十月十一日

 (1841年11月23日)

 画家

 三河国

 田原藩(愛知県田原市東部)藩士

ーー↓

 田原市(たはらし)は、

 愛知県南端

 渥美半島にある市

 渥美半島(あつみはんとう)

 日本の太平洋側で東西方向に伸びている

 愛知県の

 田原市全域・豊橋市南西部の半島部

 南側は太平洋に面し

 海食崖を形成し、現在も波による浸食

 日出の石門から静岡県の潮見坂までは

 片浜十三里という砂浜

 半島の中央部には

 赤石山系南端の

 弓張山脈から伸びる山地を形成

 最高峰は

 大山(標高328m)

 伊良湖岬、

 恋路が浜の

 菜の花は一月が見ごろ

ーー↓

 家老

 通称は

 登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)

 諱は定静(さだやす)

 字は伯登・子安、

 号ははじめ華山で、三十五歳ころに崋山と改め

 号は他にも

 全楽堂

 寓画堂

ーー↓

 (訓立云多知。)=訓読みで「立」は「多←・→知」

     「知立(チリュウ)」

       ↓

     「知多半島=田辺藩」

     愛知県西部、名古屋市の南に突き出した半島

     西は伊勢湾、東は知多湾・三河湾

     南は伊良湖水道を通じて太平洋に面する

   蟹→解+虫→角+刃+牛→かに・カニ・カイ
 カニ→化似→化爾→佳字→掛字←名護埜・なごや・知多・知立・渥美




 ・・・「猿蟹合戦」の「カニ」だが、仇(敵)は「猿=サル=沙流・然る・申」である。「申」とは「神」→「示・ネ」+「申」で、「もうす」である。登場する役者は「さる・かに・うす・はち」・・・江戸時代の「猿蟹合戦絵巻」・・・。古典の絵巻では「さるかに合戦」の作品は例い、らしい・・・さるかに合戦(さるかにがっせん)は、日本の民話の一つ。ずる賢い猿が蟹を騙して殺害し、殺された蟹の子供達が仇を討つ、という話。「因果応報」の・・・ハナシ?・・・ではない、と、ボクは思うが・・・

ーー

 蟹が

 おにぎりを、

 猿と

 柿の種と交換した。

 蟹は「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と柿を育てた。

 猿がやって来て

 柿が取れない

 蟹に代わりに自分が取ってやるといって

 木に登り、猿は食べるが蟹にはやらず、

 青く硬い柿の実を蟹に投げつけ、殺してしまう。

 「猿蟹合戦絵巻」の本編には「臼・蛇・蜂・荒布・包丁」が描かれているらしい・・・ハナシは殺された蟹の子供達が親の敵を討とうと「栗・臼・蜂・牛糞」と共に猿を家に呼び寄せ、

 栗は囲炉裏の中に隠れ、

 蜂は水桶の中に隠れ、

 牛糞は土間に隠れ、

 臼は屋根に隠れ、

 猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると

 栗が体当たりをして猿に火傷をさせ

 猿が水で冷やそうとしたところ

 蜂に刺され、

 家から逃げようとしたら

 牛糞で足を滑べらせ、

 家を出たところを屋根から

 臼が落ちてきて

 猿は潰れて死に・・・

 カニ子供たちは「ハハガニ」の仇(敵)を成し遂げた、

 と言うモノ・・・

 この「サル」とは・・・何者?・・・

 猿田毘古・猿女・猿面冠者・・・猿楽・・・孫悟空・・・

 芥川龍之介も短編小説「猿蟹合戦」を書いている・・・猿を討った後、逮捕され、死刑・・・赤穂浪士のパロディ・・・

ーー↓

 高野 長英(たかの ちょうえい)

 文化元年五月五日

 (1804年6月12日)

  ~

 嘉永三年十月三十日

 (1850年12月3日)

 医者・蘭学者

 通称は悦三郎、

 諱は

 譲(ゆずる→ジョウ)

 号は瑞皐(ずいこう)

 実父は後藤実慶

 養父は叔父・高野玄斎

 江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説く

 1898年(明治三十一年)七月四日

 功績により正四位を追贈

 主著に

 『戊戌夢物語』・・・・(ぼじゅつゆめものがたり)

            1938年(天保九年)十月十五日の

            尚歯会でモリソン号に幕府が撃攘する

            ことの危険を警告

 『わすれがたみ』・・・http://www.youtube.com/watch?v=7oVhopPjTNg&feature=player_embedded

 『三兵答古知機』・・・戦争、戦略・戦術論

 オランダ語文献の

 翻訳作業も多

ー↓

 此二柱神(源字は示+申)

 亦、

 獨神(源字は示+申)・・・・ドクシン=独身・読唇→特進・篤信・得心

       独身=an unmarried person

          〈男〉 a bachelor=バッチラー

                    葉通知等亜

              学士・博士・教授

              学位資格の取得者

              シーボルト

          〈女〉 a spinste

 成坐而、・・セイザジ=星座字(時・事・次・自)

 隱身也。



 菜の花・・・季語は、晩春。

 「アブラナ属」以外の「アブラナ科の植物」には

 「白」や「紫の花」を咲かせるものがある

 ・・・らしい・・・



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