ナゼ、「クフ」王なんだろう?・・・
なぜ、「アベル」がグループなんだろう?・・・
ナゼ、「五層」なんだろう?・・・
なぜ、「地平線のクフ」なんだろう・・・?
「アペル・アル」は
「アメンヘテプ三世」と、後には彼の息子である
「アクエンアテン王」の、「大臣」・・・
アペル・・・アベル・・・あべる・・・阿部留・・・
ーーー
「于定國」が律令「960巻」を編纂・・・
「于定国(うていこく・?~紀元前40年)
中国の前漢時代の人
父の于公は裁判が公平であった
生きているうちから
祠が作られる
住んでいる里の門を
再建するとき、
于公は
「門は立派な車も通れるように大きくしてほしい。
私は公平な裁判で陰徳をつんでいるから、
子孫が立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言った。
于定国は父より法を学び、父の死後は父と同じ
獄の役人となった。
その後、
廷尉史となり、御史中丞の従事に選ばれて
反乱者の獄を担当した。
能力が高いということで
侍御史、
御史中丞と
昇進した
元平元年(紀元前74年)に
昭帝が死亡し
昌邑王
劉賀が即位したが
劉賀は
淫乱な行いがあり、于定国はそれを諌めた。
劉賀が廃位され
宣帝が即位すると、劉賀を諌めた者は皆抜擢され、
于定国も抜擢されて
光禄大夫、
平尚書事となり、おおいに任用
本始三年
(紀元前71年)に
水衡都尉、
地節元年
(紀元前69年)に廷尉となった。
于定国は師を迎えて
春秋を学び、儒者を重んじるようになった。また裁判における判決は弱者を憐れみ、罪が疑わしい場合は軽い方に従うことを常とし、慎重であった。そこで朝廷では「張釈之が廷尉となると天下に冤罪の民はいなくなった。于定国が廷尉となると民は冤罪を心配することがなくなった」と称えた。
また
于定国は酒飲みであったが、酒を飲んでいる方が込み入った案件をはっきりと裁けるほどであった。
廷尉を
十八年務め、
甘露二年
(紀元前52年)に
杜延年に代わり
御史大夫となった。
翌年には死亡した
黄覇の後任の丞相となり、
列侯(西平侯)に封じられた。
宣帝が死亡し
元帝の代になると旧臣であることから尊重された。また
御史大夫
陳万年は于定国と議論することはなかったが、新たに任命された
貢禹はしばしば
于定国に反対意見を述べた。ほとんどは丞相の方が取り上げられたが、折からの天災やそれによる流民の発生が大臣のせいだという議論が起こると、元帝は丞相や御史大夫を叱責した。
永光元年
(紀元前43年)
日食の発生などを再度叱責された于定国は職を辞した。
永光四年
(紀元前40年)に死亡し、
安侯と諡された。
子の
于永が列侯を継いだ。于永も後に御史大夫となった。
ーーーーー
「枕草子」
(六段)
大進生昌(だいじんなりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿(みこし)は入らせ給ふ。北の門より女房の車ども、陣屋の居ねば入りなんやと思ひて、頭(かしら)つきわろき人も、いたくもつくろはず、寄せて下るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びりょうげ)の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の筵道(えんどう)敷(し)きておるるに、いとにくく、腹だたしけれど、いかがはせん。殿上人、地下なるも、陣に立ちそひ見るもねたし。
御前(おまえ)に參りて、ありつるやう啓すれば、「ここにも人は見るまじくやは。などかはさしもうち解けつる」と笑はせ給ふ。
「されど、それは皆(みな)
目(め)慣れて侍れば、よくしたてて侍らんにしこそ驚く人も侍らめ。さても、かばかりなる家に、車入らぬ門やはあらん。見えば笑はん」などいふ程にしも、「これまゐらせん」とて、御硯(おんすずり)などさしいる。
「いで、いとわろくこそおはしけれ。などてかその門狹く造りて、住み給ひけるぞ」といへば、笑ひて、
「家のほど
身のほどに合せて
侍るなり」と答ふ。
「されど、門の限を、高く造りける人も聞ゆるは」といへば、
「あな
おそろし」と驚きて、
「それは
于定國がことにこそ侍るなれ。古き進士などに侍らずば、承り知るべくも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、
かう
だに
辨(わきま)へられ侍る」と言ふ。
「その御道もかしこからざめり。
筵道
敷きたれば、皆おち入りて騒ぎつるは」と言へば、
「雨の降り侍れば、實にさも侍らん。よしよし、また仰せかくべき事もぞ侍る、罷(まか)り立ち侍らん」とていぬ。
「何事ぞ、生昌が
いみじう
おぢつるは」と問はせ給ふ。
「あらず、車の入らざりつることいひ侍る」と申しておりぬ。
同じ局に住む若き人々などして、
萬(よろづ)の事も知らず、
ねぶたければ皆寢ぬ。東の對の西の廂(ひさし)かけてある北の障子には、かけがねもなかりけるを、それも尋ねず。家主なれば、案内をよく知りてあけてけり。あやしう涸(か)ればみたるものの聲にて、「候(さぶら)はんにはいかが」と數多(あまた)たびいふ聲に、驚きて見れば、儿帳(きちょう)の後に立てたる燈臺の光もあらはなり。障子を五寸ばかりあけて言ふなりけり。いみじうをかし。更にかやうのすきずきしきわざ、ゆめにせぬものの、家におはしましたりとて、無下(むげ)に心にまかするなめりと思ふも、いとをかし。
わが傍(かたわら)なる人を起して、
「かれ見給へ、かかる見えぬものあめるを」といへば、頭をもたげて見やりて、
いみじう笑ふ。
「あれは誰ぞ、顯證(けしゅう)に」といへば、
「あらず、家主人、局主人と定め申すべき事の侍るなり」と言へば、
「門の事をこそ申しつれ、障子開け給へとやは言ふ」
「なほその事申し侍らん、そこに侍はんはいかにいかに」と言へば、
「いと見苦しきこと。更(ことさら)にえおはせじ」とて笑ふめれば、
「若き人々おはしけり」とて、引き立てていぬる後に笑ふこといみじ。
あけぬとならば、唯(ただ)まづ入りねかし。消息をするに、
「よかなり」とは誰かはいはんと、
げにをかしきに、つとめて、御前に參りて啓すれば、「さる事も聞えざりつるを、昨夜のことに愛でて、入りにたりけるなめり。あはれ彼をはしたなく言ひけんこそ、いとほしけれ」と笑はせ給ふ。
ーーー
姫宮の御かたの童女に、裝束せさすべきよし仰せらるるに、「わらはの袙(あこめ)の上襲(うわおそい)は何色に仕う奉るべき」と申すを、又笑ふもことわりなり。
「姫宮の御前のものは、例のやうにては
惡氣(にくげ)に候はん。
ちうせい折敷(おしき)、
ちうせい高杯(たかつき)にてこそよく候はめ」と申すを、
「さてこそは、上襲(うわおそい)著たる童女もまゐりよからめ」と言ふを、
「猶(なお)例の人のやうに、かくないひ笑ひそ、いときすくなるものを、いとほしげに」と制したまふもをかし。
中間なるをりに、「大進ものきこえんとあり」と、人の告ぐるを聞し召して、「又なでふこといひて笑はれんとならん」と仰せらるるもいとをかし。
「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門のことを中納言に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、いかでさるべからんをりに對面して、申しうけたまはらんとなん申されつる」とて、またこともなし。
一夜のことやいはんと、心ときめきしつれど、「今しづかに御局(おつぼね)にさぶらはん」と辭していぬれば、歸り參りたるに、「さて何事ぞ」とのたまはすれば、申しつる事を、さなんとまねび啓して、「わざと消息し、呼び出づべきことにもあらぬを、おのづからしづかに局などにあらんにもいへかし」とて笑へば、「おのが心地に賢しとおもふ人の譽めたるを、嬉しとや思ふとて、告げ知らするならん」とのたまはする御氣色(おんけしき)もいとめでたし。
なぜ、「アベル」がグループなんだろう?・・・
ナゼ、「五層」なんだろう?・・・
なぜ、「地平線のクフ」なんだろう・・・?
「アペル・アル」は
「アメンヘテプ三世」と、後には彼の息子である
「アクエンアテン王」の、「大臣」・・・
アペル・・・アベル・・・あべる・・・阿部留・・・
ーーー
「于定國」が律令「960巻」を編纂・・・
「于定国(うていこく・?~紀元前40年)
中国の前漢時代の人
父の于公は裁判が公平であった
生きているうちから
祠が作られる
住んでいる里の門を
再建するとき、
于公は
「門は立派な車も通れるように大きくしてほしい。
私は公平な裁判で陰徳をつんでいるから、
子孫が立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言った。
于定国は父より法を学び、父の死後は父と同じ
獄の役人となった。
その後、
廷尉史となり、御史中丞の従事に選ばれて
反乱者の獄を担当した。
能力が高いということで
侍御史、
御史中丞と
昇進した
元平元年(紀元前74年)に
昭帝が死亡し
昌邑王
劉賀が即位したが
劉賀は
淫乱な行いがあり、于定国はそれを諌めた。
劉賀が廃位され
宣帝が即位すると、劉賀を諌めた者は皆抜擢され、
于定国も抜擢されて
光禄大夫、
平尚書事となり、おおいに任用
本始三年
(紀元前71年)に
水衡都尉、
地節元年
(紀元前69年)に廷尉となった。
于定国は師を迎えて
春秋を学び、儒者を重んじるようになった。また裁判における判決は弱者を憐れみ、罪が疑わしい場合は軽い方に従うことを常とし、慎重であった。そこで朝廷では「張釈之が廷尉となると天下に冤罪の民はいなくなった。于定国が廷尉となると民は冤罪を心配することがなくなった」と称えた。
また
于定国は酒飲みであったが、酒を飲んでいる方が込み入った案件をはっきりと裁けるほどであった。
廷尉を
十八年務め、
甘露二年
(紀元前52年)に
杜延年に代わり
御史大夫となった。
翌年には死亡した
黄覇の後任の丞相となり、
列侯(西平侯)に封じられた。
宣帝が死亡し
元帝の代になると旧臣であることから尊重された。また
御史大夫
陳万年は于定国と議論することはなかったが、新たに任命された
貢禹はしばしば
于定国に反対意見を述べた。ほとんどは丞相の方が取り上げられたが、折からの天災やそれによる流民の発生が大臣のせいだという議論が起こると、元帝は丞相や御史大夫を叱責した。
永光元年
(紀元前43年)
日食の発生などを再度叱責された于定国は職を辞した。
永光四年
(紀元前40年)に死亡し、
安侯と諡された。
子の
于永が列侯を継いだ。于永も後に御史大夫となった。
ーーーーー
「枕草子」
(六段)
大進生昌(だいじんなりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿(みこし)は入らせ給ふ。北の門より女房の車ども、陣屋の居ねば入りなんやと思ひて、頭(かしら)つきわろき人も、いたくもつくろはず、寄せて下るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びりょうげ)の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の筵道(えんどう)敷(し)きておるるに、いとにくく、腹だたしけれど、いかがはせん。殿上人、地下なるも、陣に立ちそひ見るもねたし。
御前(おまえ)に參りて、ありつるやう啓すれば、「ここにも人は見るまじくやは。などかはさしもうち解けつる」と笑はせ給ふ。
「されど、それは皆(みな)
目(め)慣れて侍れば、よくしたてて侍らんにしこそ驚く人も侍らめ。さても、かばかりなる家に、車入らぬ門やはあらん。見えば笑はん」などいふ程にしも、「これまゐらせん」とて、御硯(おんすずり)などさしいる。
「いで、いとわろくこそおはしけれ。などてかその門狹く造りて、住み給ひけるぞ」といへば、笑ひて、
「家のほど
身のほどに合せて
侍るなり」と答ふ。
「されど、門の限を、高く造りける人も聞ゆるは」といへば、
「あな
おそろし」と驚きて、
「それは
于定國がことにこそ侍るなれ。古き進士などに侍らずば、承り知るべくも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、
かう
だに
辨(わきま)へられ侍る」と言ふ。
「その御道もかしこからざめり。
筵道
敷きたれば、皆おち入りて騒ぎつるは」と言へば、
「雨の降り侍れば、實にさも侍らん。よしよし、また仰せかくべき事もぞ侍る、罷(まか)り立ち侍らん」とていぬ。
「何事ぞ、生昌が
いみじう
おぢつるは」と問はせ給ふ。
「あらず、車の入らざりつることいひ侍る」と申しておりぬ。
同じ局に住む若き人々などして、
萬(よろづ)の事も知らず、
ねぶたければ皆寢ぬ。東の對の西の廂(ひさし)かけてある北の障子には、かけがねもなかりけるを、それも尋ねず。家主なれば、案内をよく知りてあけてけり。あやしう涸(か)ればみたるものの聲にて、「候(さぶら)はんにはいかが」と數多(あまた)たびいふ聲に、驚きて見れば、儿帳(きちょう)の後に立てたる燈臺の光もあらはなり。障子を五寸ばかりあけて言ふなりけり。いみじうをかし。更にかやうのすきずきしきわざ、ゆめにせぬものの、家におはしましたりとて、無下(むげ)に心にまかするなめりと思ふも、いとをかし。
わが傍(かたわら)なる人を起して、
「かれ見給へ、かかる見えぬものあめるを」といへば、頭をもたげて見やりて、
いみじう笑ふ。
「あれは誰ぞ、顯證(けしゅう)に」といへば、
「あらず、家主人、局主人と定め申すべき事の侍るなり」と言へば、
「門の事をこそ申しつれ、障子開け給へとやは言ふ」
「なほその事申し侍らん、そこに侍はんはいかにいかに」と言へば、
「いと見苦しきこと。更(ことさら)にえおはせじ」とて笑ふめれば、
「若き人々おはしけり」とて、引き立てていぬる後に笑ふこといみじ。
あけぬとならば、唯(ただ)まづ入りねかし。消息をするに、
「よかなり」とは誰かはいはんと、
げにをかしきに、つとめて、御前に參りて啓すれば、「さる事も聞えざりつるを、昨夜のことに愛でて、入りにたりけるなめり。あはれ彼をはしたなく言ひけんこそ、いとほしけれ」と笑はせ給ふ。
ーーー
姫宮の御かたの童女に、裝束せさすべきよし仰せらるるに、「わらはの袙(あこめ)の上襲(うわおそい)は何色に仕う奉るべき」と申すを、又笑ふもことわりなり。
「姫宮の御前のものは、例のやうにては
惡氣(にくげ)に候はん。
ちうせい折敷(おしき)、
ちうせい高杯(たかつき)にてこそよく候はめ」と申すを、
「さてこそは、上襲(うわおそい)著たる童女もまゐりよからめ」と言ふを、
「猶(なお)例の人のやうに、かくないひ笑ひそ、いときすくなるものを、いとほしげに」と制したまふもをかし。
中間なるをりに、「大進ものきこえんとあり」と、人の告ぐるを聞し召して、「又なでふこといひて笑はれんとならん」と仰せらるるもいとをかし。
「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門のことを中納言に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、いかでさるべからんをりに對面して、申しうけたまはらんとなん申されつる」とて、またこともなし。
一夜のことやいはんと、心ときめきしつれど、「今しづかに御局(おつぼね)にさぶらはん」と辭していぬれば、歸り參りたるに、「さて何事ぞ」とのたまはすれば、申しつる事を、さなんとまねび啓して、「わざと消息し、呼び出づべきことにもあらぬを、おのづからしづかに局などにあらんにもいへかし」とて笑へば、「おのが心地に賢しとおもふ人の譽めたるを、嬉しとや思ふとて、告げ知らするならん」とのたまはする御氣色(おんけしき)もいとめでたし。