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コジキジゲン

諏訪、大変・・・すわッ、代返・・・

2013-04-03 22:14:50 | 古事記字源
 諏訪・・・
ーーーーー

 「古事記」・・・・・・コジキ

 「先代旧事本紀」・・・センダイクジホンキ

ーーーー↓

 「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)=先代舊事本紀」は、学術的には偽書とされているらしい・・・「旧事紀(くじき)」、「旧事本紀(くじほんぎ)」とも呼称。

 全十巻・・・

 1679年(延宝七年)

 江戸の書店で

 「先代旧事本紀大成経・(七十二巻本)」が発見された。 大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、

 伊雑宮が日神を祀る社

 内宮・外宮は星神・月神を祀るもの

 であるという説を裏づけるものであることがわかり、

 内宮・外宮の神職が

 書の内容の真偽を

 幕府に求めた

 1681年(天和元年)

 幕府は大成経を偽書と断定

 江戸の版元

 「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ

 神道家

 永野采女と

 僧

 潮音道海

 偽作を依頼した

 伊雑宮の神職らを処罰

 以後、由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止

 だが「大成経」は密かに出回った

 「延宝版」、「潮音本」、「七十二巻本」などと呼ばれることがある。

 「鷦鷯(ささき、さざき)伝

  本先代旧事本紀大成経

 (大成経鷦鷯伝・三十一巻本)」

 1670年(寛文十年)刊

 「白河本旧事紀・(伯家伝、三十巻本)」は異本。

 すべて「先代旧事本紀」を基にして

 江戸時代に創作されたと言われている。

 1675年(延宝三年)

 江戸の版元

 「戸嶋惣兵衛」より「聖徳太子五憲法」と称する書物が刊行

 この書物は聖徳太子の憲法は

 「通蒙憲法」

 「政家憲法」

 「儒士憲法」

 「釈氏憲法」

 「神職憲法」の

 五憲法であり、

 「通蒙憲法」が

 「日本書紀の十七条憲法」であるとする

 1679年(延宝七年)

 「先代旧事本紀大成経・巻七十・憲法本紀」は

 1675年(延宝三年)の

 「聖徳太子五憲法」と同じ内容

 「潮音道海(ちょうおんどうかい・1628年~95年)

 黄檗宗の僧

 著書に

 「摧邪輪(さいじゃりん)」

 「坐禅論」

 「霧海南針」

 などがある・・・

ーーーー↓

 センダ=千台・千代・千大・先代・川内・仙台・船台・撰題

 クジ=九字・九時・九次・九児・公事・籤・久慈・句字

 ホンキ=本気・本記・本期・本規・翻記・叛揆・本鬼・本奇

ーー

 「現存古事記」にも「先代旧事本紀大成経・(七十二巻本)」にも、モチロン、「日本書紀」にも記録されているハズなのだが・・・

   ↓

 天照大神の

 「孫」

 邇邇芸命=瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

 の降臨に先立ち、

ーー

 「武」

 甕槌命(たけみかづちのみこと)

 が

 大国主命に

 国譲りを迫った

 大国主命の

 次男である

 建御名方命が

 国譲りに反対し、

 武甕槌命に

 相撲を挑んで負け

 諏訪まで逃げた

 以後

 諏訪から他の土地へ出ないと、

 天津神の命に誓った

 この説話は

 「日本書紀」には記載されていない・・・これは「相撲のコト」なのか?

ーー↓

 日本書紀

 ・・・

 稜威雄走之子

 甕速日、・・・・

 甕速日之子

 熯速日、・・・・派遣

 熯速日之子

 武甕槌。・・・・派遣

 此

 進曰、豈唯

 經津主

 獨爲丈夫、

 而吾

 非丈夫者哉。

 其

 辭氣

 慷慨。

 故以

 卽配

 經津主、・・・・派遣

 令平葦原中國。



 熯速日

 武甕槌

 (經津主)

ー↓

 二、於是、降到

 出雲國

 五十田狹之小汀、

 則

 拔

 十握劒、

 倒植於地、

 踞

 其鋒端、

 而問

 大己貴曰、

 高皇産靈尊、

 欲降

 皇孫、

 君臨此地。

 故先遣

 我二、驅除平定。

 汝意何如。

 當須避不。

 時

 大己貴對曰、

 當問我子、然後將報。

 是時

 其子

 事代主、遊行、

 在於

 出雲國

 三穗(三穗、此云美保→みほ)

 之碕。

 以

 釣魚爲樂。

 或曰、

 遊鳥爲樂。

 故以

 熊野諸手船、

 亦名

 天鴿船。

 載

 使者

 稻背脛

 遣之。

 而致

 高皇産靈尊

 勅於

 事代主、

 且問將報之辭。

 時

 事代主、

 謂使者曰、

 今天有此借問之勅。

 我父宜當奉避。

 吾亦不可違。

 因於

 海中、

 造

 八重蒼柴柴、(此云府璽→ふじ)。

 籬、

 蹈船船、(此云浮那能倍→ふなのば)。

 而避之。

 使者既還報命。

 故大己貴、

 則以

 其子之辭、

 白

 於

 二曰、

 我怙之子、

 既避去矣。

 故

 吾亦當避。

 如

 吾防禦者、

 國內諸、

 必當

 同禦。

 今

 我奉避、

 誰

 復

 敢有

 不順者。

 乃以

 平國時所

 杖之

 廣矛、

 授二曰、

 吾以此

 矛卒

 有治功。

 天孫

 若

 用此矛

 治

 國者、

 必當平安。

 今我當於

 百不足

 之

 八十隅、

 將隱

 去矣。

 隅、(此云矩磨泥→くまで?)。

 言訖遂隱。

 於是、

ーー

 二、

 誅諸不順鬼等、

 一云、

 二

 遂誅

 邪及草木石類、

 皆已平了。

   ↓

 二神は諸不順の鬼神等を誅し、一に云う、二神は邪神及び草木・石の類を遂に誅し、皆すでに平に了(終らせ)た。



 其所

 不服者、

 唯

 星

 香香背男耳。

 故

 加遣

 倭文

 建葉槌命

 者

 則服。

 故

 二

 登天也。

ーー

 倭文、

 (此云斯圖梨俄未→しとりがみ

          かかるはかるなしのガミ)。

          斯=シ・この・これ・かから・さく

          斯道・斯文・斯民・斯須

          斯波←→波斯(ペルシャ)

          俄=ガ・にわかに・たちまち

          俄然・俄頃・俄人(ロシア人)

          俄羅斯=ロシア

 ・・・ナゼ、「倭文=しとり」なんだか?・・・「しつ・おり(織り)」ではないだろう・・・和(倭)文を踏まえるなら「詞取り・史採り」で、「支酉(シユウ)→十二支の九番目」で「鳥取=とりとり」である・・・?・・・

ーー↓ 

 果以復命。

  ↓

 不服は唯(ただ)、「星神、香香背男耳(ほしのかがせおミミ)」→「星神、香香背男のみ(耳)」→であった。

ー↓

 ・・・「耳(ジ・ニ・ジョウ・ニョウ・みみ)」は「助詞のノミ(而已→イ・すでに・のみ)で、限定、断定の字(吾此苟生耳→ワレは、コレ、いやしくも、生きるノミ)」・・・

ー↓

 そこで「倭文神(しとりがみ・やまとのあやのかみ)」である「建葉槌命」を加え遣わして服従させた。そして二神は天に報告に戻った。



 この「一書」では

 「武甕槌神」は

 「經津主神」の従神。

 「稻背脛」も登場

 そして不順わぬ神、

 「星神の香香背男」が登場し、その神は

 「倭文神=建葉槌命」が

 服従させる

 「古事記」とは異なる部分ではアル、かな・・・

ーー↓

 社殿の周りには、

 御柱(おんばしら)と呼ぶ

 四本の

 樅(モミ・もみ)の柱が立てられている

 柱の樹皮は本来は剥がさなかったが、

 1986年頃以降剥がすようになった・・・?ナゼ・・・

 

 一之御柱

 拝殿に向かって右手前

 (前宮・秋宮・春宮の場合。本宮は左手前)

 二之御柱

 向かって左手前(本宮左奥)

 三之御柱

 向かって左奥(本宮右奥)

 四之御柱

 向かって右奥(本宮右手前)

 「前宮・秋宮・春宮」では

 「一之御柱・二之御柱」は

 正面を向いているが、

 「本宮」では

 南方の守屋山の方向を向いている。

 諏訪地方では、大きい神社から小さい祠にいたるまで、これに習ってこの「御柱」を設ける社が多い。

 御柱の由来は明らかでなく

 古来より説があるが、

 神霊降臨の依り代説

 聖地標示説

 社殿建て替え代用説

 があるらしい・・・言葉が先か、建物、柱が先か・・・四本・・・「音葉詞等」・・・

 諏訪大社の御柱は

 寅と申の年に建て替えられ(御柱祭)、

 全国の諏訪神社や関連社でも同様の祭(小宮祭)が行われる。

 「諏方大明神画詞」には平安時代初期の

 桓武天皇年間(781年-806年)に

 御柱祭実施の

 記載があり]、その頃にはすでに御柱が設けられていたとされる・・・?・・・

 神体・宝殿

 旧宝殿

(本宮近くの大国主命社)

 には

 本殿が設けられていない

 本宮は

 拝殿後背林(通称 御山)、

 秋宮は

 イチイの神木、・・・櫟(いちい)=木+楽

 春宮は

 スギの神木・・・・・杉(すぎ=椙は国字)

 を神体

 前宮は古くは上社摂社であった関係で

 本殿を有す

 「本宮・秋宮・春宮」には、

 本殿がない代わりに

 二つの宝殿がある。

 宝殿の一方には

 神輿が納められ、・・・・カミの輿=地図

 寅と申の年の

 御柱祭で

 御柱

 建て

 替えと

 同時に

 もう一方へ遷座し、

 古い宝殿は建て替えられる

 一つの宝殿は

 十二年ごとに建て替えられ、

 神明造に似た古い様式で現在に伝えている。

 寅年から申年の間、神輿は向かって

 右の宝殿に納められる(申年から翌寅年は逆)

 神輿の納められる宝殿は

 「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、

 もう一方は

 「権殿」と呼ばれる

 このように

 宝殿は一般の

 本殿にあたると解され、

 神社に本殿が設けられる

 過渡期の状態と考えられている

 宝殿を含め社殿は華美な

 装飾・塗装はなされず

 全て

 素木造である

 祭祀が始まった時期は不詳

 文献上は

 「日本書紀・持統天皇」

 五年(691年)八月に

 「信濃須波」の神を祀るというのが初見

 平安時代の

 「日本三代実録」には

 「建御名方富命神社」

 「左経記」には

 「須波社」と記載

 「延喜式神名帳」では

 「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載され

 名神大社に列している

 この二座が

 上社・下社を指すとされる

 信濃国の一宮とされた

 古くから軍神として崇敬され、

 坂上田村麻呂が

 蝦夷征伐の際に

 戦勝祈願をしたと伝えられる

 鎌倉時代には

 「諏訪社」の表記

 「上宮」・「上社」の記載もある

 治承四年(1180年)が

 上下社の

 区別が明示されている初見

 他の神社同様、

 当社も

 神仏習合により上社・下社に

 神宮寺が設けられて

 別当寺(神社を管理する寺)となり、

 上社は普賢菩薩

 下社は千手観音が

 本地仏とされた

 戦国時代に

 武田信玄が諏訪へ侵攻し、信玄によって

 永禄八年(1565年)から翌年にかけて

 上社・下社の祭祀の再興が図られた

 信玄からの崇敬は強く、戦時には

 「南無諏訪南宮法性上下大明神」の

 旗印を先頭に

 諏訪法性兜をかぶって出陣した

 江戸幕府

 第三代将軍

 徳川家光によって

 上社に

 朱印1,000石

 下社に

 500石が安堵

 高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)

 会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進された

 明治四年(1871年)

 近代社格制度において

 国幣中社に列し

 「諏訪神社」を正式名称とした

 明治二十九年(1896年)に

 官幣中社、

 大正五年(1916年)に

 官幣大社と昇格

 ・・・ナゼ、「名前」がこんなに・・・そもそも、「名+前」の「前」とは何を意味しているのか?・・・

 神階

 建御名方神



 承和9年(842年)5月14日、

 無位勲八等から従五位下勲八等

 (『続日本後紀』)

   表記は「南方刀美神」



 嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上

 (『日本文徳天皇実録』)

   表記は「御名方富命神」



 仁寿元年(851年)10月27日、従三位

 (『日本文徳天皇実録』)

   表記は「建御名方富命大神」



 貞観元年(859年)1月27日、

  正三位勲八等から従二位勲八等

  (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命神」



 貞観元年(859年)2月11日、正二位勲八等

  (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命神」



 貞観9年(867年)3月11日、従一位勲八等

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命神」



 寛平5年(893年)11月3日、正一位

 (『日本紀略』)

        八坂刀売神



 承和9年(842年)10月2日、無位から従五位下

  (『続日本後紀』)

    表記は「健御名方富命前八坂刀売神」



 嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上

 (『日本文徳天皇実録』)

    表記は「健御名方富命前八坂刀売命神」



 仁寿元年(851年)10月27日、従三位

 (『日本文徳天皇実録』)

    表記は「前八坂刀売命大神」



 貞観元年(859年)1月27日、正三位

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」



 貞観元年(859年)2月11日、従二位

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」



 貞観9年(867年)3月11日、正二位

 (『日本三代実録』)

    表記は「建御名方富命前八坂刀自命神」



 寛平5年(893年)11月3日、従一位

 (『日本紀略』)

 天慶年間(938年-946年)、正一位

 (『諏方大明神画詞』)

ーー

 上社

 大祝(おおほうり)

 諏訪氏(神氏)

 祭神・建御名方神の後裔。古代から代々、上社の大祝を務めた。中世には大祝を中心として武士団化した。

 上諏訪の祭政の権を握っていたが室町時代に兵馬の惣領家・祭祀の大祝家に分かれ、のち惣領家に統一された。

 江戸時代には諏訪藩を治めたが、

 諏訪頼忠の

 四男・

 頼広が大祝家として分かれ、

 藩主家と異なる

 「諏方」の字を用いて書き分けた。

 居館は神殿(ごうどの)(現 前宮)

 のち諏訪市中洲(位置)

 神長官(じんちょうかん)

 古くは神長(かんのおさ)

 守矢氏

 上社五官の1つで筆頭

 建御名方神の諏訪入りに抵抗したとされる

 洩矢神の後裔

 上社の神事全般を掌握

 居館は茅野市宮川(位置)

 禰宜大夫(ねぎだゆう)

 小出氏

 上社五官の1つ。

 祭神の御子・

 八杵命の後裔。

 権祝(ごんのほうり)

 矢島氏

 上社五官の1つ。

 祭神の御子・

 池生神の後裔

 居館は諏訪市中洲神宮寺(位置)

 擬祝(ぎのほうり)(まがいの-とも)

 小出氏

 のち

 伊藤氏

 上社五官の1つ

 

 副祝(そいのほうり)(そえの-・ふく-とも)

 守矢氏

 上社五官の1つ。

 祭神の御子・

 方倉辺命の後裔。

 下社

 大祝:金刺(かなさし)氏のち武居氏

 科野国造の後裔

 中世には大祝を中心として武士団化した。

 室町時代に

 金刺氏は

 上社との争いに敗れ他国へ去り、以後は

 武居祝から大祝が立てられた。

 居館は下諏訪町上馬場のち下諏訪町武居。

 武居祝(たけいほうり)(竹居祝)

 下社五官の1つで筆頭

 禰宜太夫

 下社五官の1つ

 権祝

 下社五官の1つ

 擬祝

 下社五官の1つ

 副祝

 下社五官の1つ

 その他の神職として、

 若宮祝・宮津子祝・

 神楽役検校大夫・天王祝などの祝、

 八乙女。

 荷子などが文献に見られる。

 明治以降は神社本庁から神職が派遣されるようになり、上記の氏族の世襲は廃止。

ーーーーー

 『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は、

 平安時代末期に編まれた

 歌謡集。

 今様歌謡の集成。

 編者は

 後白河法皇。

 治承年間

 (1180年前後)の作。

ーー

 梁(はり)の上に積もっているちり

 梁上のちり

 「梁塵を動かす」の故事から

 すぐれた

 歌声

 また、

 歌謡

 音楽

ーー

 後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、

 書き留めて本にした。また、

 歌謡の歴史などについて、

 別に

 口伝集十巻を残した。

ーーー↓

 書名の「梁塵」は、

 名人の歌で

 「梁(はり・やな・リョウ・ロウ)の

  塵(ごみ・ちり・ジン)」も動いたという・・・?

 故事より、

 すぐれた歌のこと・・・らしい・・・が、この同音のヨミを見たら笑っちゃう・・・?

ーーー↓

 はり・

 やな・

 リョウ・

 ロウ

 

 ごみ・

 ちり・

 ジン・

ーーー↓

 『梁塵秘抄』の名は

 『徒然草』

 第十四段に見える。

 また

 『本朝書籍目録』に

 二十巻と書かれている。

 近代までは

 口伝集巻第十が

 『群書類従』に収められたのみで、

 他の部分は失われたと考えられていた。

 しかし

 1911年

 (明治四十四年)

 佐佐木信綱らによって

 巻第二、

 巻第一と

 口伝集巻第一の断片、

 口伝集の

 巻第十一から

 第十四が発見された。

 そして大正から昭和にかけて、

 佐佐木の校訂による本が

 明治書院と

 岩波書店から刊行された。

 したがって

 『梁塵秘抄』の

 中の歌が一般に知られたのは

 比較的新しいことである。

 『梁塵秘抄』は

 もと

 本編十巻、

 口伝集十巻だったと見られている。

 しかし現存するのはわずかな部分のみである。

 また、

 口伝集の

 巻第十一以降については

 謎がある。

 今様の碑、仏は常にいませども‥‥、永観堂内、京都市東山区

 本編は、

 巻第一の断簡と、

 巻第二しか知られていない。

 歌の数は

 巻第一が

 二十一首、

 巻第二が

 五百四十五首、

 あわせて

 五百六十六首である。

 ただし

 重複があるので、実際の数はもう少し減る。

 巻第一の最初には

 「長唄十首、

  古柳三十四首、

  今様二百六十五首」とあるので、

 完本であれば

 巻第一には

 三百九首が収められていたことになる。

 多くの歌が

 七五調四句や、

 八五調四句、あるいはそのバリエーションの調子を持つ。

 しかし

 五七五七七の調子もあり、

 歌の形態は様々である。

 『梁塵秘抄』と言えば、

 遊びをせんとや生れけむ、

 戯れせんとや生れけん、

 遊ぶ子供の声きけば、

 我が身さえこそ動がるれ。

 舞え舞え蝸牛、

 舞はぬものならば、

 馬の子や

 牛の子に

 蹴させてん、

 踏破せてん、

 真に美しく舞うたらば、

 華の園まで遊ばせん。

 のような

 童心の歌が有名であり、あるいは

 東屋(あづまや)の

 妻とも終(つい)に

 成らざりけるもの故に、

 何とて

 むねを

 合せ初めけむ。

 のように艶っぽいものもある。 しかし、数の多くを占めるのは

 仏は常にいませども、

 現(うつつ)ならぬぞあわれなる、

 人の音せぬ暁に、

 ほのかに夢に見え給ふ。

 のような

 法文歌である。また、神社への道行や、風景を歌ったものも多い。現代人好みの歌はそれほどあるわけではない。

 口伝集は

 各ジャンルの歌に関して書きつづったものだと考えられている。

 現存するのは

 巻第一のほんのわずかと、

 巻第十、それに

 巻第十一から

 第十四のみである。

 巻第十一から

 巻第十四には、実際の歌い方が書かれている。

 しかし歌い方の伝承は絶え、

 現在解読は困難である。

 佐佐木信綱によれば、これらは後白河法皇自らの撰によるものではないという。

 のちに一つにされ

 「口伝集巻第十一」以下の題名を付けられたと考えられている。

 もしこれが

 『梁塵秘抄』に加わるとすれば、

 総数は二十巻以上となり、

 『本朝書籍目録』の

 記述に

 矛盾する。

 現在発行されている古典全集の多くは、

 巻第十一以降を省き、

 口伝集の巻第一と

 巻第十のみを収めている。

 巻第十一以降を見ることができるのは、

 一般的には

 岩波文庫版だけである。

 たしかに

 巻第十一から第十四の

 内容は難解であり、

 全集に収めてもあまり意味がないかも知れない。しかし、解説にさえもこれらに関する記述が一言もなく、岩波文庫版を先に見たものは不自然に感じる。これは巻第十一以降研究の難しさを表しているのかも知れない。

 本編

 巻第一

 二十一首のみ残る。

 巻第二

 五百四十五首残る。

 写本は

 一冊のみ現存する。

 巻第三 から 巻第十

 欠巻

 口伝集

 巻第一

 文庫版にして

 二ページほどしか残っていない。

 神楽・催馬楽・風俗・今様の

 起源について語る。

 口伝集

 巻第二 から 巻第九

 欠巻。

 娑羅林・只の今様・片下・早歌・初積・大曲・足柄・長歌・田歌

 などについて書かれていたらしい。

 口伝集

 巻第十

 撰者、後白河法皇の今様への関わり。いわば“今様バカ一代”としての

 後白河法皇の

 半生記である。

 十代の頃から今様を好み、昼夜問わず歌いまくり、歌の上手がいると聞けば召して聞き、

 歌いすぎで

 三度も喉をつぶしたという。

 その執心にはあきれるのを通り越して感動さえ覚える。まして、政治的には大変な時代であり、しかもその中心にいた後白河法皇その人の事績であると考えると、驚嘆せざるを得ない。

 口伝集 巻第十一 から 巻第十四

 前述の通り、もとは

 別の書であったと考えられている。

 歌い方の

 心得や、

 音律や

 拍子などが記されているようであるが、

 一般人には(おそらくは専門家でも)

 解読は難しい。

 巻十一は、

 『郢曲抄』とも称される。

ーーーー

 ・・・???・・・

 ・・・「出版本屋」は騙しの元締め・・・

ーー

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