スベテは「丸(まる・ガン)」、
すべては「球(たま・キュウ)」、
すべては「卵(たまご・ラン)」、
スベテは「英(はなぶさ・=花房・はな・エイ・ヨウ)」
↓
「はなしべ=花のしべ・かずい・ズイ・ヌイ・蘂=ハナシベ.はな‐しべ=花蕊(蘂)」
↓
「サ+心+心+心+木」→「種子植物の、雄しべと雌しべ・しべ」
↓
噺し部・話し部→御伽部(おとぎ部)・・・
「蘂」、「蕋」は俗字であるらしい・・・
↓
話し部・・・・語り部
数意・・・・・数の意味
隋・・・・・・隋書倭人伝
蘂・・・・・・サ、三心、木→草冠、纂審、記紀
・・・すべては、「ランガク」からハジマル・・・?
ーーー
天初蘂源
宝徳三年(1451年)
~
大永四年五月十四日(1524年)
伊達持宗の子
曹洞宗
越後
耕雲寺の
周剛
宗厳の法をつぐ
明応七年
父がたてた
陸奥
伊達郡(福島県)
輪王寺三世
耕雲寺の住持
享年七十四歳
ーーー
季瓊真蘂
応永八年(1401年)
~
文明一年八月11日(1469年9月16日)
臨済宗の僧
別号に雲沢,松泉
播磨国(兵庫県)の
赤松氏一族
上月氏の出身
法を
叔英宗播に
ーー↓
叔英宗播
?~1441年
室町時代の僧。
臨済(りんざい)宗
太清宗渭(たいせい-そうい)の法をつぐ
将軍足利義持(よしもち)の信任をうけ
相国寺
建仁寺
南禅寺の
住持となる
義堂周信、
絶海中津に学芸を学んだ
嘉吉(かきつ)元年九月十九日死去
播磨(はりま・兵庫)出身
別号
交蘆道人
著作
「五灯会元抄」
編著
「禅林曇華集」
ーー↓
(季瓊真蘂)は
嗣ぐ(一山派)
足利義教の命で
鹿苑院僧録の補佐となり
五山官寺を統轄し
後世
蔭涼職(相国寺内蔭涼軒の軒主職)
1435年
真蘂は「蔭涼軒主」を僭称し
「僧録司」をしのぐ
「蔭涼職」と呼ばれる官職名で権威をふるい
「蔭涼軒」焼失後も存続し
1615年(元和一年)に
「鹿苑僧録司」とともに廃止された
ーー
赤松満祐による
将軍
義教暗殺の
嘉吉の乱(1441)が起こり、
一時職を退く
義政の代に
長禄二年(1458年)年に
復権
政所執事
ーーー↓
嘉吉(かきつ)の乱
ーー↓
1441年~1444年までの年号
後花園天皇の元号
前元号は
永享(えいきょう)
次元号は文安(ぶんあん)
1441年
(永享十三年)二月十七日改元
ーー↓
1441年(嘉吉一年・辛酉年)
播磨国守護の
赤松満祐は、
「結城合戦」の戦勝を祝うとして
将軍義教を自邸に招いて謀殺
領国に逃亡したが幕府追悼軍に敗れ自害した
ーーー↓
季瓊真蘂は
伊勢貞親とともに
斯波氏の・・・・・・織田信長の主家
内紛に介入するなど
応仁の乱(1467年)の一因を作って
文正一年(1466年)失脚
近江国
牛口山に退居
義政の信任厚く
応仁二年(1468)年上洛
相国寺に戻り
同寺内
雲頂院に住し
院内に
雲沢軒
七条柳原に
禅仏寺を開いた
日記として
『季瓊日録』
ーーー
枕草子
(七段)
うへに侍ふ御猫は、かうふり給はりて、命婦のおもととて、いとをかしければ、寵(かしづ)かせ給ふが、端に出でたるを、
乳母の
馬の命婦
「あなまさなや、入り給へ」とよぶに、聞かで、日のさしあたりたるにうち眠りてゐたるを、おどすとて、
「翁丸いづら、
命婦の
おもと食へ」といふに、まことかとて、しれもの走りかかりたれば、おびえ惑ひて、御簾の内に入りぬ。朝餉の間にうへはおはします。御覽じて、いみじう驚かせ給ふ。
猫は御懷に入れさせ給ひて、男ども召せば、藏人忠隆まゐりたるに、
「この翁丸
打ち調じて、
犬島につかはせ。只今」と仰せらるれば、集りて狩りさわぐ。馬の命婦もさいなみて、
「乳母
かへてん、
いと
うしろめたし」と仰せらるれば、かしこまりて、御前にも出でず。犬は狩り出でて、瀧口などして追ひつかはしつ。
「あはれ、
いみじく
ゆるぎ歩きつるものを。
三月三日に、頭の
辨柳の
かづらをせさせ、
桃の花かざしにささせ、
櫻腰にささせなどして、
ありかせ給ひしをり、
かかる
目
見んとは思ひかけけんや」とあはれがる。
「御膳のをりは、必むかひさぶらふに、さうざうしくこそあれ」などいひて、三四日になりぬ。ひるつかた、犬のいみじく泣く聲のすれば、なにぞの犬の、かく久しくなくにかあらんと聞くに、よろづの犬ども走り騒ぎとぶらひに行く。
御厠人なるもの走り來て、
「あな
いみじ、
犬を藏人
二人して打ちたまひ、死ぬべし。流させ給ひけるが歸りまゐりたるとて、調じ給ふ」といふ。心うのことや。翁丸なり。「忠隆實房なん打つ」といへば、制しに遣るほどに、辛うじてなき止みぬ。「死にければ門の外にひき棄てつ」といへば、あはれがりなどする夕つかた、
いみじげに
腫れ、
あさましげなる
犬の
わびしげ
なるが、
わななき
ありけば、
「あはれ丸か、
かかる犬やは
このごろは見ゆる」などいふに、翁丸と呼べど耳にも聞き入れず。
それぞといひ、あらずといひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる、呼べ」とて、下なるを
「まづとみのこと」とて召せば參りたり。「これは翁丸か」と見せ給ふに、「似て侍れども、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また翁丸と呼べば、悦びてまうで來るものを、呼べど寄りこず、あらぬなめり。それは打ち殺して、棄て侍りぬとこそ申しつれ。
さるものどもの
二人して打たんには、生きなんや」と申せば、心うがらせ給ふ。
暗うなりて、物くはせたれど食はねば、あらぬものにいひなして止みぬる。つとめて、
御梳櫛にまゐり、
御手水まゐりて、
御鏡もたせて御覽ずれば、侍ふに、犬の柱のもとについ居たるを、「あはれ昨日、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけんこそ悲しけれ。何の身にかこのたびはなりぬらん。いかにわびしき心地しけん」とうちいふほどに、この寢たる犬ふるひわななきて、涙をただ落しにおとす。いとあさまし。さはこれ翁丸にこそありけれ。よべは隱れ忍びてあるなりけりと、あはれにて、をかしきことかぎりなし。御鏡をもうちおきて、
「さは
翁丸」・・・・おきなまる・オウガン
といふに、
ひれ
伏して
いみじくなく。
御前にもうち笑はせ給ふ。
人々まゐり集りて、右近内侍召して、かくなど仰せらるれば、笑ひののしるを、うへにも聞し召して、渡らせおはしまして、
「あさましう
犬なども
かかる
心あるもの
なりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房たちなども來りまゐり集りて呼ぶにも、今ぞ立ちうごく。なほ顏など腫れためり。「物調ぜさせばや」といへば、「終にいひあらはしつる」など笑はせ給ふに、忠隆聞きて、
臺盤所のかたより、
「まことにや侍らん、かれ見侍らん」といひたれば、
「あなゆゆし、さる者なし」といはすれば、「さりとも終に見つくる折もはべらん、さのみもえかくさせ給はじ」といふなり。さて後畏勘事許されて、もとのやうになりにき。猶あはれがられて、ふるひなき出でたりし程こそ、世に知らずをかしくあはれなりしか。人々にもいはれて泣きなどす。
ーーーーー
すべては「球(たま・キュウ)」、
すべては「卵(たまご・ラン)」、
スベテは「英(はなぶさ・=花房・はな・エイ・ヨウ)」
↓
「はなしべ=花のしべ・かずい・ズイ・ヌイ・蘂=ハナシベ.はな‐しべ=花蕊(蘂)」
↓
「サ+心+心+心+木」→「種子植物の、雄しべと雌しべ・しべ」
↓
噺し部・話し部→御伽部(おとぎ部)・・・
「蘂」、「蕋」は俗字であるらしい・・・
↓
話し部・・・・語り部
数意・・・・・数の意味
隋・・・・・・隋書倭人伝
蘂・・・・・・サ、三心、木→草冠、纂審、記紀
・・・すべては、「ランガク」からハジマル・・・?
ーーー
天初蘂源
宝徳三年(1451年)
~
大永四年五月十四日(1524年)
伊達持宗の子
曹洞宗
越後
耕雲寺の
周剛
宗厳の法をつぐ
明応七年
父がたてた
陸奥
伊達郡(福島県)
輪王寺三世
耕雲寺の住持
享年七十四歳
ーーー
季瓊真蘂
応永八年(1401年)
~
文明一年八月11日(1469年9月16日)
臨済宗の僧
別号に雲沢,松泉
播磨国(兵庫県)の
赤松氏一族
上月氏の出身
法を
叔英宗播に
ーー↓
叔英宗播
?~1441年
室町時代の僧。
臨済(りんざい)宗
太清宗渭(たいせい-そうい)の法をつぐ
将軍足利義持(よしもち)の信任をうけ
相国寺
建仁寺
南禅寺の
住持となる
義堂周信、
絶海中津に学芸を学んだ
嘉吉(かきつ)元年九月十九日死去
播磨(はりま・兵庫)出身
別号
交蘆道人
著作
「五灯会元抄」
編著
「禅林曇華集」
ーー↓
(季瓊真蘂)は
嗣ぐ(一山派)
足利義教の命で
鹿苑院僧録の補佐となり
五山官寺を統轄し
後世
蔭涼職(相国寺内蔭涼軒の軒主職)
1435年
真蘂は「蔭涼軒主」を僭称し
「僧録司」をしのぐ
「蔭涼職」と呼ばれる官職名で権威をふるい
「蔭涼軒」焼失後も存続し
1615年(元和一年)に
「鹿苑僧録司」とともに廃止された
ーー
赤松満祐による
将軍
義教暗殺の
嘉吉の乱(1441)が起こり、
一時職を退く
義政の代に
長禄二年(1458年)年に
復権
政所執事
ーーー↓
嘉吉(かきつ)の乱
ーー↓
1441年~1444年までの年号
後花園天皇の元号
前元号は
永享(えいきょう)
次元号は文安(ぶんあん)
1441年
(永享十三年)二月十七日改元
ーー↓
1441年(嘉吉一年・辛酉年)
播磨国守護の
赤松満祐は、
「結城合戦」の戦勝を祝うとして
将軍義教を自邸に招いて謀殺
領国に逃亡したが幕府追悼軍に敗れ自害した
ーーー↓
季瓊真蘂は
伊勢貞親とともに
斯波氏の・・・・・・織田信長の主家
内紛に介入するなど
応仁の乱(1467年)の一因を作って
文正一年(1466年)失脚
近江国
牛口山に退居
義政の信任厚く
応仁二年(1468)年上洛
相国寺に戻り
同寺内
雲頂院に住し
院内に
雲沢軒
七条柳原に
禅仏寺を開いた
日記として
『季瓊日録』
ーーー
枕草子
(七段)
うへに侍ふ御猫は、かうふり給はりて、命婦のおもととて、いとをかしければ、寵(かしづ)かせ給ふが、端に出でたるを、
乳母の
馬の命婦
「あなまさなや、入り給へ」とよぶに、聞かで、日のさしあたりたるにうち眠りてゐたるを、おどすとて、
「翁丸いづら、
命婦の
おもと食へ」といふに、まことかとて、しれもの走りかかりたれば、おびえ惑ひて、御簾の内に入りぬ。朝餉の間にうへはおはします。御覽じて、いみじう驚かせ給ふ。
猫は御懷に入れさせ給ひて、男ども召せば、藏人忠隆まゐりたるに、
「この翁丸
打ち調じて、
犬島につかはせ。只今」と仰せらるれば、集りて狩りさわぐ。馬の命婦もさいなみて、
「乳母
かへてん、
いと
うしろめたし」と仰せらるれば、かしこまりて、御前にも出でず。犬は狩り出でて、瀧口などして追ひつかはしつ。
「あはれ、
いみじく
ゆるぎ歩きつるものを。
三月三日に、頭の
辨柳の
かづらをせさせ、
桃の花かざしにささせ、
櫻腰にささせなどして、
ありかせ給ひしをり、
かかる
目
見んとは思ひかけけんや」とあはれがる。
「御膳のをりは、必むかひさぶらふに、さうざうしくこそあれ」などいひて、三四日になりぬ。ひるつかた、犬のいみじく泣く聲のすれば、なにぞの犬の、かく久しくなくにかあらんと聞くに、よろづの犬ども走り騒ぎとぶらひに行く。
御厠人なるもの走り來て、
「あな
いみじ、
犬を藏人
二人して打ちたまひ、死ぬべし。流させ給ひけるが歸りまゐりたるとて、調じ給ふ」といふ。心うのことや。翁丸なり。「忠隆實房なん打つ」といへば、制しに遣るほどに、辛うじてなき止みぬ。「死にければ門の外にひき棄てつ」といへば、あはれがりなどする夕つかた、
いみじげに
腫れ、
あさましげなる
犬の
わびしげ
なるが、
わななき
ありけば、
「あはれ丸か、
かかる犬やは
このごろは見ゆる」などいふに、翁丸と呼べど耳にも聞き入れず。
それぞといひ、あらずといひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる、呼べ」とて、下なるを
「まづとみのこと」とて召せば參りたり。「これは翁丸か」と見せ給ふに、「似て侍れども、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また翁丸と呼べば、悦びてまうで來るものを、呼べど寄りこず、あらぬなめり。それは打ち殺して、棄て侍りぬとこそ申しつれ。
さるものどもの
二人して打たんには、生きなんや」と申せば、心うがらせ給ふ。
暗うなりて、物くはせたれど食はねば、あらぬものにいひなして止みぬる。つとめて、
御梳櫛にまゐり、
御手水まゐりて、
御鏡もたせて御覽ずれば、侍ふに、犬の柱のもとについ居たるを、「あはれ昨日、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけんこそ悲しけれ。何の身にかこのたびはなりぬらん。いかにわびしき心地しけん」とうちいふほどに、この寢たる犬ふるひわななきて、涙をただ落しにおとす。いとあさまし。さはこれ翁丸にこそありけれ。よべは隱れ忍びてあるなりけりと、あはれにて、をかしきことかぎりなし。御鏡をもうちおきて、
「さは
翁丸」・・・・おきなまる・オウガン
といふに、
ひれ
伏して
いみじくなく。
御前にもうち笑はせ給ふ。
人々まゐり集りて、右近内侍召して、かくなど仰せらるれば、笑ひののしるを、うへにも聞し召して、渡らせおはしまして、
「あさましう
犬なども
かかる
心あるもの
なりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房たちなども來りまゐり集りて呼ぶにも、今ぞ立ちうごく。なほ顏など腫れためり。「物調ぜさせばや」といへば、「終にいひあらはしつる」など笑はせ給ふに、忠隆聞きて、
臺盤所のかたより、
「まことにや侍らん、かれ見侍らん」といひたれば、
「あなゆゆし、さる者なし」といはすれば、「さりとも終に見つくる折もはべらん、さのみもえかくさせ給はじ」といふなり。さて後畏勘事許されて、もとのやうになりにき。猶あはれがられて、ふるひなき出でたりし程こそ、世に知らずをかしくあはれなりしか。人々にもいはれて泣きなどす。
ーーーーー