櫻の蕾(つぼみ)、水仙の蕾、チューリップの蕾、黄色の花の蕾・・・黄色の花弁4枚なのだが名前が判らない。「山吹の花」と思ったが「花弁が五枚」で、「花弁が四枚」の「黄色花」とは異なる・・・ブログで調べてみたら、どうやらを「レンギョウ・レンギョウウツギ」と言う名前らしい。名前の由来は、漢名の「連翹」の音読みだそうだが、「中国名では黄寿丹で、日本で誤って呼んだ連翹とはトモエ草、オトギリ草のコトである」とあった。その「連翹」だが「雉(きじ)が尾羽を広げて飛ぶ様子」らしい。尾張の本居宣長の「古事記伝」のキジ(生地・記事・木地)だろう・・・「翹」とは「昆虫類のハネ」だろうと思ったが漢字は「翅」である・・・
「トンボ(蜻蛉、とんぼ、英語=dragonfly・ damselfly・分類上は蜻蛉目、トンボ目、Odonata)という分類群」=「秋津(安芸津)」=「蜻蛉」=カゲロウ=「蜉蝣」の「翅」とは、節足動物門・昆虫綱・カゲロウ目(蜉蝣目)のEphemeropteraに属する昆虫の総称。昆虫類で最初に「翅」を獲得したらしい・・・幼虫はすべて「水生」・・・トンボ(秋津島・安芸津島・安芸対馬)の「揣摩・縞・志摩・死魔」の幼虫は「ヤゴ(隋王朝の帰化人、陽侯氏)」だろう・・・とにかく「蜻蛉・蜉蝣」は「不完全変態」で、「幼虫→亜成虫→成虫」の「半変態」で、成虫は「長い尾」を有し、寿命が短い。学名はギリシャ語の原義は「epi = on, hemera = day (その日一日)であり、カゲロウの寿命の短さに由来する・・・たった一日ぽっきりの命・・・ナニを言いたいのか?「蜻蛉日記」・・・
「翹」の漢字名を有する「翹岐」は「百済の王族で義慈王の甥、又は子と謂われている人物」であり、「皇極天皇元年(642)に義慈王の母の死亡と同時に島流し(流刑)となったが、同年、来日し「大使として参内」し、「蘇我蝦夷」の邸宅に招かれた人物である・・・「戴として纂名(納)意」だろう・・・「戴(タイ)」は「いただく・頭の上にのせる」・・・「戴冠式・不倶戴天・うやうやしく上にささげて持つ・推戴・頂戴・奉戴」である・・・「タイ・トル」は「ナンだん」だか?・・・ねッ・・・
兎に角、ハナバナの「蕾み」が弾(はじ)けて花が咲き出した・・・
以前にも同じようなことを書き込んだが、
「咼(カ・カイ・ワ・くぼむ・うずまき・渦巻く)」
「冎(カ・わける・さく・えぐる・骨肉分離の刑罰)=剮の源字→咼の上は頭蓋骨、下は四肢の胴体の骨」・・・
「咼(カ・カイ・よこしま・くちがゆがむ・ゆがむ)」・・・?
「かたつむり」の殻の形、巻貝、アンモナイト・・・
蝸牛(カギュウ)
鍋(なべ)
堝(カ・るつぼ=坩堝)・・・鋳鉄炉
萵(ワ)・・・・チシャの葉. キク科の野菜
窩(カ・ワ・むろ)・・・あな・あなぐら
くぼみ・凹
腋窩(エキカ・エキワ)
眼窩(ガンカ・ガンワ)
蜂窩(ホウカ)
窩主(ケイズ)
陥凹の場所(側頭下窩・犬歯窩・腋窩・卵円窩)
中心窩(fovea, fovea centralis)は
目の網膜の黄斑部の中心に位置する。
中心窩は、高精細な中心視野での視覚機能に寄与
渦(カ・うづ)
禍(カ・わざわい)
過(カ・すぎる)
猧(ワ・ちん)
撾(タ・うつ)
媧(カ)
檛(タ・テ・つえ)
マイマイ・・・
啚(ヒ・ト・おしむ・はかる)・圖(ズ・ト・はかる)=図・・・
「咼(カ・カイ・ワ・よこしま)」の訓は「口が歪(ゆが)む・ゆがむ」ではなく、「口をツボム=つぼむ・莟む・窄む・蕾む」結果の「窪んだ部分」だろう・・・「笑窪」・・・「咼」は「つぼんだ形」の「容器」である。なぜ「よこしま・ヨコシマ・横嶋・邪」なんだか?・・・それは「窪んだ形の地形」からの他のコトバの示唆、連鎖である。「落窪物語」・・・落とし穴かも・・・そして、蕾の芽の如く「螺旋形」に重ねられた花弁の「ツボマリの形」と「溝に見える重なり」である。「鳴門海峡の渦潮、渦巻き」で、「竜巻(トルレード)、台風(タイフーン・ハリケーン)の目」である。「メ螺旋(ねじ)」の螺旋のクボミの線条である。オス螺旋を捩じ込まれた穴(孔)と、その溝アトである・・・「坩堝(るつぼ)=十+一+甘+十+一+咼(冎+口)」・・・鉄を鎔かす「熔高炉」である・・・
ボクは「二七、八歳」の時期に二年間ほど愛知県の東海市にある「新日鉄」の溶鉱炉が凛々しく起立していた現場で仕事をした経験があるが・・・あの頃一緒に働いてくれた皆に感謝・・・コークス工場・・・台風のレンチャンだった・・・そして、「ヒデ」と・・・溶鉱炉の天辺まで登ったョ、ナッ・・・ボクも含めて全然危険な場所だなんて思っても、自覚もしていなかったのかな・・・?・・・
ーー↓
日本における最初の近代高炉
釜石市の
大橋高炉
大島高任が設計・操業
安政四年(1857年)
十一月
二十六日
火入れ、
十二月一日初
出銑
大島は
オランダ人
ヒューゲニンの著作を
「鉄熕鋳鑑」として翻訳し
"hoog oven" を「高炉」と翻訳
ーー↓
「反射炉の設置」は天保年間の長崎の高島秋帆、江川坦庵の「蘭書」研究の結果である。
嘉永六年(1853)のペリー来航
江川坦庵に対して、反射炉の建造を許可
建造予定地は下田港に近い
賀茂郡本郷村(下田市高馬)
嘉永六年十二月
基礎工事開始
安政元年三月末
ペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入
反射炉建設地を移転
韮山代官所に近い
田方郡中村(現伊豆の国市中)に決定
反射炉は、
連双式(溶解炉を二つ備える)の2基
直角に配置
四つの溶解炉を同時に稼働可能な設計
安政二年正月
坦庵が病死
後継の
江川英敏は、
蘭学を導入し反射炉建造も行っていた
佐賀藩に応援を求め技師の派遣を要請
佐賀藩は、
杉谷雍助ら
十一名を
韮山(にらやま)に派遣
安政四年(1857)
十一月
反射炉は着工から
三年半の歳月をかけて完成
目的は大砲の製造
元治元年(1864)に使用が中止
大砲は台場の備砲として用いられた
・・・らしい・・・鍋も製造したのだろうか・・・
幕府の近代産業化の出頭指揮者は
「小栗上野介」であった・・・
ーーー↓
小栗忠順
文政十年六月二十三日(1827年7月16日)
~
慶応四年閏四月六日(1868年5月27日)
改名 剛太郎、忠順
別名 又一
戒名 陽寿院殿法岳浄性大居士
墓所 東善寺 雑司ヶ谷霊園 普門院
官位
安政六年(1859年)
従五位下
豊後守に叙任
文久三年(1863年)
上野介に遷任、以後
小栗上野介
江戸幕府要職
西の丸書院番→使番→目付→外国奉行→寄合席→小姓組番頭→勘定奉行→南町奉行→歩兵奉行→講武所御用取扱→寄合席→陸軍奉行並→勤仕並寄合→軍艦奉行→寄合→海軍奉行並→陸軍奉行並→勤仕並寄合
主君 徳川家慶→家定→家茂→慶喜
氏族 三河小栗氏
父 小栗忠高
母 小栗くに子(小栗忠清の娘)
正室 建部政醇の娘・道子
子 国子(小栗貞雄妻)
養子 鉞子、忠道
ーー↓
鍋(なべ)・・・菜を煮る瓮(へ)
播磨の方言。尻。転じて女根の義。
女の陰部のこと
尻のことを「かま(釜)」、前尻を「なべ」
ーーーーー↓
枕草子
(二七段)・・・弐拾七段・二十七段・弐七段・念漆段
2+7=9=九=玖
2×7=14=十四=壱拾四=壱足肆
ふみ
ことば
なめき
人こそ、
いと
ど
にくけれ。
世を
なのめに
書き
なしたる、
詞の
にくきこそ。
さる・・・・・申・猿・沙流・去る・然る・作留
まじき・・・・真字記(漢字の記録)・交字記・混字記
馬路記
人の・・・・・訊埜
もとに、・・・本爾
あまり・・・・海部理・海士里・亜真理
かし・・・・・瑕疵・菓子・歌詞・下肢・掛詞・可視
こまり
たるも、・・・多留模
實に
わろき事ぞ。
されど
我
えたらんは
理、
人のもと
なる
さへ
にくく
こそあれ。
大かた
さし
向ひても、
なめきは、
など
かく
言ふらんと
かたはら
いたし。
まして
よき人
などを
さ
申す者は、
さる
はを
こにて
いとにくし。
男
しうなど
わろくいふ、
いとわろし。
わが
使ふものなど、
おはする、
のたまふ
など
いひたる、
いと
にくし。
ここ
もとに
侍る
といふ
文字を
あらせばやと
聞くこと
こそ
多かめれ。
「愛敬なくと、
詞しなめき」
などいへば、
いはるる人も
聞く人も笑ふ。
かく
覺ゆればにや、
「あまり
嘲哢する」など
いはるるまで
ある人も、
わろきなるべし。
殿上人
宰相などを、
ただ
なのる名を、
聊
つつましげ
ならず
いふは、
いと
かたは
なるを、
げに
よくさいはず、
女房の
局なる人をさへ、
あのおもと
君などいへば、
めづらかに
嬉しと
思ひて、
譽むる事ぞ
いみじき。
殿上人公達を、
御前より
外にては
官をいふ。
また
御前にて
物をいふとも、
きこしめさんには、
などてかは、
まろがなど
いはん。
さいは
ざらん
にくし。
かく
いはんに、
わろかる
べき事かは。
ーーーーー
・・・「コジキ」への批判であったとしても「セイショウナゴン」の「イト」とは、いとど、おかし、あやし・・・明治、文明の開花のサクラ仮名・・・
「トンボ(蜻蛉、とんぼ、英語=dragonfly・ damselfly・分類上は蜻蛉目、トンボ目、Odonata)という分類群」=「秋津(安芸津)」=「蜻蛉」=カゲロウ=「蜉蝣」の「翅」とは、節足動物門・昆虫綱・カゲロウ目(蜉蝣目)のEphemeropteraに属する昆虫の総称。昆虫類で最初に「翅」を獲得したらしい・・・幼虫はすべて「水生」・・・トンボ(秋津島・安芸津島・安芸対馬)の「揣摩・縞・志摩・死魔」の幼虫は「ヤゴ(隋王朝の帰化人、陽侯氏)」だろう・・・とにかく「蜻蛉・蜉蝣」は「不完全変態」で、「幼虫→亜成虫→成虫」の「半変態」で、成虫は「長い尾」を有し、寿命が短い。学名はギリシャ語の原義は「epi = on, hemera = day (その日一日)であり、カゲロウの寿命の短さに由来する・・・たった一日ぽっきりの命・・・ナニを言いたいのか?「蜻蛉日記」・・・
「翹」の漢字名を有する「翹岐」は「百済の王族で義慈王の甥、又は子と謂われている人物」であり、「皇極天皇元年(642)に義慈王の母の死亡と同時に島流し(流刑)となったが、同年、来日し「大使として参内」し、「蘇我蝦夷」の邸宅に招かれた人物である・・・「戴として纂名(納)意」だろう・・・「戴(タイ)」は「いただく・頭の上にのせる」・・・「戴冠式・不倶戴天・うやうやしく上にささげて持つ・推戴・頂戴・奉戴」である・・・「タイ・トル」は「ナンだん」だか?・・・ねッ・・・
兎に角、ハナバナの「蕾み」が弾(はじ)けて花が咲き出した・・・
以前にも同じようなことを書き込んだが、
「咼(カ・カイ・ワ・くぼむ・うずまき・渦巻く)」
「冎(カ・わける・さく・えぐる・骨肉分離の刑罰)=剮の源字→咼の上は頭蓋骨、下は四肢の胴体の骨」・・・
「咼(カ・カイ・よこしま・くちがゆがむ・ゆがむ)」・・・?
「かたつむり」の殻の形、巻貝、アンモナイト・・・
蝸牛(カギュウ)
鍋(なべ)
堝(カ・るつぼ=坩堝)・・・鋳鉄炉
萵(ワ)・・・・チシャの葉. キク科の野菜
窩(カ・ワ・むろ)・・・あな・あなぐら
くぼみ・凹
腋窩(エキカ・エキワ)
眼窩(ガンカ・ガンワ)
蜂窩(ホウカ)
窩主(ケイズ)
陥凹の場所(側頭下窩・犬歯窩・腋窩・卵円窩)
中心窩(fovea, fovea centralis)は
目の網膜の黄斑部の中心に位置する。
中心窩は、高精細な中心視野での視覚機能に寄与
渦(カ・うづ)
禍(カ・わざわい)
過(カ・すぎる)
猧(ワ・ちん)
撾(タ・うつ)
媧(カ)
檛(タ・テ・つえ)
マイマイ・・・
啚(ヒ・ト・おしむ・はかる)・圖(ズ・ト・はかる)=図・・・
「咼(カ・カイ・ワ・よこしま)」の訓は「口が歪(ゆが)む・ゆがむ」ではなく、「口をツボム=つぼむ・莟む・窄む・蕾む」結果の「窪んだ部分」だろう・・・「笑窪」・・・「咼」は「つぼんだ形」の「容器」である。なぜ「よこしま・ヨコシマ・横嶋・邪」なんだか?・・・それは「窪んだ形の地形」からの他のコトバの示唆、連鎖である。「落窪物語」・・・落とし穴かも・・・そして、蕾の芽の如く「螺旋形」に重ねられた花弁の「ツボマリの形」と「溝に見える重なり」である。「鳴門海峡の渦潮、渦巻き」で、「竜巻(トルレード)、台風(タイフーン・ハリケーン)の目」である。「メ螺旋(ねじ)」の螺旋のクボミの線条である。オス螺旋を捩じ込まれた穴(孔)と、その溝アトである・・・「坩堝(るつぼ)=十+一+甘+十+一+咼(冎+口)」・・・鉄を鎔かす「熔高炉」である・・・
ボクは「二七、八歳」の時期に二年間ほど愛知県の東海市にある「新日鉄」の溶鉱炉が凛々しく起立していた現場で仕事をした経験があるが・・・あの頃一緒に働いてくれた皆に感謝・・・コークス工場・・・台風のレンチャンだった・・・そして、「ヒデ」と・・・溶鉱炉の天辺まで登ったョ、ナッ・・・ボクも含めて全然危険な場所だなんて思っても、自覚もしていなかったのかな・・・?・・・
ーー↓
日本における最初の近代高炉
釜石市の
大橋高炉
大島高任が設計・操業
安政四年(1857年)
十一月
二十六日
火入れ、
十二月一日初
出銑
大島は
オランダ人
ヒューゲニンの著作を
「鉄熕鋳鑑」として翻訳し
"hoog oven" を「高炉」と翻訳
ーー↓
「反射炉の設置」は天保年間の長崎の高島秋帆、江川坦庵の「蘭書」研究の結果である。
嘉永六年(1853)のペリー来航
江川坦庵に対して、反射炉の建造を許可
建造予定地は下田港に近い
賀茂郡本郷村(下田市高馬)
嘉永六年十二月
基礎工事開始
安政元年三月末
ペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入
反射炉建設地を移転
韮山代官所に近い
田方郡中村(現伊豆の国市中)に決定
反射炉は、
連双式(溶解炉を二つ備える)の2基
直角に配置
四つの溶解炉を同時に稼働可能な設計
安政二年正月
坦庵が病死
後継の
江川英敏は、
蘭学を導入し反射炉建造も行っていた
佐賀藩に応援を求め技師の派遣を要請
佐賀藩は、
杉谷雍助ら
十一名を
韮山(にらやま)に派遣
安政四年(1857)
十一月
反射炉は着工から
三年半の歳月をかけて完成
目的は大砲の製造
元治元年(1864)に使用が中止
大砲は台場の備砲として用いられた
・・・らしい・・・鍋も製造したのだろうか・・・
幕府の近代産業化の出頭指揮者は
「小栗上野介」であった・・・
ーーー↓
小栗忠順
文政十年六月二十三日(1827年7月16日)
~
慶応四年閏四月六日(1868年5月27日)
改名 剛太郎、忠順
別名 又一
戒名 陽寿院殿法岳浄性大居士
墓所 東善寺 雑司ヶ谷霊園 普門院
官位
安政六年(1859年)
従五位下
豊後守に叙任
文久三年(1863年)
上野介に遷任、以後
小栗上野介
江戸幕府要職
西の丸書院番→使番→目付→外国奉行→寄合席→小姓組番頭→勘定奉行→南町奉行→歩兵奉行→講武所御用取扱→寄合席→陸軍奉行並→勤仕並寄合→軍艦奉行→寄合→海軍奉行並→陸軍奉行並→勤仕並寄合
主君 徳川家慶→家定→家茂→慶喜
氏族 三河小栗氏
父 小栗忠高
母 小栗くに子(小栗忠清の娘)
正室 建部政醇の娘・道子
子 国子(小栗貞雄妻)
養子 鉞子、忠道
ーー↓
鍋(なべ)・・・菜を煮る瓮(へ)
播磨の方言。尻。転じて女根の義。
女の陰部のこと
尻のことを「かま(釜)」、前尻を「なべ」
ーーーーー↓
枕草子
(二七段)・・・弐拾七段・二十七段・弐七段・念漆段
2+7=9=九=玖
2×7=14=十四=壱拾四=壱足肆
ふみ
ことば
なめき
人こそ、
いと
ど
にくけれ。
世を
なのめに
書き
なしたる、
詞の
にくきこそ。
さる・・・・・申・猿・沙流・去る・然る・作留
まじき・・・・真字記(漢字の記録)・交字記・混字記
馬路記
人の・・・・・訊埜
もとに、・・・本爾
あまり・・・・海部理・海士里・亜真理
かし・・・・・瑕疵・菓子・歌詞・下肢・掛詞・可視
こまり
たるも、・・・多留模
實に
わろき事ぞ。
されど
我
えたらんは
理、
人のもと
なる
さへ
にくく
こそあれ。
大かた
さし
向ひても、
なめきは、
など
かく
言ふらんと
かたはら
いたし。
まして
よき人
などを
さ
申す者は、
さる
はを
こにて
いとにくし。
男
しうなど
わろくいふ、
いとわろし。
わが
使ふものなど、
おはする、
のたまふ
など
いひたる、
いと
にくし。
ここ
もとに
侍る
といふ
文字を
あらせばやと
聞くこと
こそ
多かめれ。
「愛敬なくと、
詞しなめき」
などいへば、
いはるる人も
聞く人も笑ふ。
かく
覺ゆればにや、
「あまり
嘲哢する」など
いはるるまで
ある人も、
わろきなるべし。
殿上人
宰相などを、
ただ
なのる名を、
聊
つつましげ
ならず
いふは、
いと
かたは
なるを、
げに
よくさいはず、
女房の
局なる人をさへ、
あのおもと
君などいへば、
めづらかに
嬉しと
思ひて、
譽むる事ぞ
いみじき。
殿上人公達を、
御前より
外にては
官をいふ。
また
御前にて
物をいふとも、
きこしめさんには、
などてかは、
まろがなど
いはん。
さいは
ざらん
にくし。
かく
いはんに、
わろかる
べき事かは。
ーーーーー
・・・「コジキ」への批判であったとしても「セイショウナゴン」の「イト」とは、いとど、おかし、あやし・・・明治、文明の開花のサクラ仮名・・・