5月21日・・・語解通、二重位置似知・・・「兼好法師」→兼好(兼ねて好く)、法の師→「健康奉仕」・・・建(たける)を交(まじえる)、邦(くに)の史(し)・・・「枕辞典」・・・
「英和対訳袖珍辞書」は
1862年
文久二年に
幕府の「洋書調所」で発行出版・・・
要所を調べる
「叙(述)」は叙(のべ)る
「序(文)」は序(つい)でに
「如(何)」は如(ごと)し
「除(外)」は除(のぞ)く
「助(言)」は助(たす)ける
「(寛)恕」は恕(ゆる)す
↓
「恕(ジョ・ショ・ゆるす)=女+口+心」は「清少納言→斉唱名言・聖書有納言・誓書有名言・清書有納言」の「枕草子」・・・?・・・
ーーー↓
「天文台蛮書和解御用掛」を拡充し、1855年(安政二年)に「洋学所」を開設
開設直後の
安政の大地震で全壊焼失
1856年3月17日
(安政三年二月十一日)
「蕃書調所」と改称
古賀謹一郎を頭取、
箕作阮甫
杉田成卿らを教授として、
安政四年一月に開講
幕臣子弟を対象にしたが
1858年(安政五年)以降は
藩士の入学も認めた
翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当
1862年(文久二年)
学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り
「昌平黌」と同格の幕府官立学校となった
同年6月15日(5月18日)
「洋書調所」と改称
翌
1863年(文久三年八月二十九日)
10月
11日
「開成所」と改称
ーー
昌平坂=昌平坂学問所、
1790年(寛政二年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。「昌平黌」とも
ーー
・・・「英和対訳袖珍辞書・(えいわたいやくしゅうちんじしょ・ A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language」・・・ポケット(補懸通徒?)・・・は、堀達之助が編纂した日本初の本格的刊本英和辞典。953(九百五拾参)ページ。刊行部数は約200(弐百)部・・・
堀を筆頭に「西周、千村五郎、竹原勇四郎、箕作麟祥」などが編纂に参加・・・その形状から「枕辞書」とも呼ばれた・・・辞書を枕に寝たんだろう・・・
「枕草子」は蘭学者の「古事記読解」辞典・・・?カモ・・・
ーーーーー
枕草子
(三〇段)・・・参拾段・三十段・30段・・參足段
「參=ム+ム+ム+∧+彡」を拾う段
ーー
3+0=3=參・・・三横島の∧の彡
「∧」は「山・屋根」であるが、
「∧=論理積記号」であり
安堵←「アンド=and」=と・そして
異聞・遺文←「イヴン=even」
捨てる・棄てる←「ステル= still」
「イエット= yet」等で
さらに・尚且つ・且(かつ)の意味
「P ∧ Q」は
「命題 P」と「命題 Q」 がともに真
ーー
3×0=0=零・・・雨の令
ーー↓枕草子
すぎ・・・椙(まさき)・杉(サン)
にし・・・爾詞・西・爾志・邁志・似史
かたの・・掛他之
こひ・・・故意・請い・乞い・濃い・恋・鯉
しきもの・敷物・織物・四季物・色物・死期者
「士気・指揮・職・識・私記」物
「史記・始期・志紀・磯城・子規」物
枯れ・・・掛例・化例・華例
借れ・刈れ・嗄れ・狩れ・涸れ
彼(he)
たる・・・多留
葵。・・・亜於意→徳川家
雛・・・・比名・鄙・比奈・啚名=惜しむ名
あそびの・阿蘇美野・亜(阿・蛙)措備埜
調度。・・丁度・兆度・帳土・長土(長州土佐)
二藍、・・・児藍(藍城)・爾覧・似乱・爾蘭
葡萄染・・・「武道・無道・分如何・部同」初め
などの・・・等之・名度廼
さいでの、・差異出埜・歳出之
おしへ・・・教え・訓え・押し得
されて、・・作例出・差例出
草紙の・・・「双紙・相思・創始・総史・宗氏」之
中に・・・・名掛似
あり・・・・亜理・蟻・蛙理・鴉理・在・有・Y理
けるを・・・懸留・化留
見つけ
たる。・・・多留
また・・・・・・・・・亦・又・俣・股・復
折から・・・・・・・・下理掛等
あはれ・・・・・・・・亜葉例
なりし・・・・・・・・名理視
人の文、・・・・・・・訊(仁・壬・妊)の文
雨などの・・・・・・・亜目等(名度)之
降りて・・・・・・「振り・付利・不利・不離」氐
徒然(つれづれ)・・・釣(連・吊・攣)れズレ
ーー↓徒然草作者?
鎌倉時代末期(1330年代前半)
吉田兼好=兼好法師
本名、卜部兼好(うらべかねよし)
弘安六年(1283年)頃
~
文和元年/正平七年(1352年)以後
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての
官人・遁世者・歌人・随筆家
治部少輔
卜部兼顕の子
卜部氏の嫡流は後の時代に
吉田家、平野家などに分かれ、
兼好は吉田家の系統で
江戸時代以降は
吉田兼好と通称
ウィキペディア
死没1350年?
ーー↓徒然草
1330年8月~1331年9月頃に
まとめられた随筆
数多くの説があり定説無
序段を含めて
244段
文体は和漢混淆文と、
仮名文字が中心の和文が混在
兼好が
仁和寺がある
双が丘(ならびがおか)に居を構えた
ーーーーーーーー↓
徒然草=兼
徒歩(徒・かち→可知・加地)
つれづれ
↓
通例事例(図例)
ーーー↓枕草子
なる日・・・・・・・・名留比
さがし・・・・・・・・作臥詞・佐賀視
出で・・・・・・・・・意出
たる。・・・・・・・・多留・他留・太留
去年の・・・・・「虚年・拠念・申年」埜(乃)
かは・・・・・・掛葉
ぼり。・・・・・補理
月の・・・・・・解通之
あかき・・・・・亜掛記
夜。・・・・世留
「拠・因・選・縁・依・撚・由」留
ーーーーー
いと、文明、解掛は・・・おかし・・・
「英和対訳袖珍辞書」は
1862年
文久二年に
幕府の「洋書調所」で発行出版・・・
要所を調べる
「叙(述)」は叙(のべ)る
「序(文)」は序(つい)でに
「如(何)」は如(ごと)し
「除(外)」は除(のぞ)く
「助(言)」は助(たす)ける
「(寛)恕」は恕(ゆる)す
↓
「恕(ジョ・ショ・ゆるす)=女+口+心」は「清少納言→斉唱名言・聖書有納言・誓書有名言・清書有納言」の「枕草子」・・・?・・・
ーーー↓
「天文台蛮書和解御用掛」を拡充し、1855年(安政二年)に「洋学所」を開設
開設直後の
安政の大地震で全壊焼失
1856年3月17日
(安政三年二月十一日)
「蕃書調所」と改称
古賀謹一郎を頭取、
箕作阮甫
杉田成卿らを教授として、
安政四年一月に開講
幕臣子弟を対象にしたが
1858年(安政五年)以降は
藩士の入学も認めた
翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当
1862年(文久二年)
学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り
「昌平黌」と同格の幕府官立学校となった
同年6月15日(5月18日)
「洋書調所」と改称
翌
1863年(文久三年八月二十九日)
10月
11日
「開成所」と改称
ーー
昌平坂=昌平坂学問所、
1790年(寛政二年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。「昌平黌」とも
ーー
・・・「英和対訳袖珍辞書・(えいわたいやくしゅうちんじしょ・ A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language」・・・ポケット(補懸通徒?)・・・は、堀達之助が編纂した日本初の本格的刊本英和辞典。953(九百五拾参)ページ。刊行部数は約200(弐百)部・・・
堀を筆頭に「西周、千村五郎、竹原勇四郎、箕作麟祥」などが編纂に参加・・・その形状から「枕辞書」とも呼ばれた・・・辞書を枕に寝たんだろう・・・
「枕草子」は蘭学者の「古事記読解」辞典・・・?カモ・・・
ーーーーー
枕草子
(三〇段)・・・参拾段・三十段・30段・・參足段
「參=ム+ム+ム+∧+彡」を拾う段
ーー
3+0=3=參・・・三横島の∧の彡
「∧」は「山・屋根」であるが、
「∧=論理積記号」であり
安堵←「アンド=and」=と・そして
異聞・遺文←「イヴン=even」
捨てる・棄てる←「ステル= still」
「イエット= yet」等で
さらに・尚且つ・且(かつ)の意味
「P ∧ Q」は
「命題 P」と「命題 Q」 がともに真
ーー
3×0=0=零・・・雨の令
ーー↓枕草子
すぎ・・・椙(まさき)・杉(サン)
にし・・・爾詞・西・爾志・邁志・似史
かたの・・掛他之
こひ・・・故意・請い・乞い・濃い・恋・鯉
しきもの・敷物・織物・四季物・色物・死期者
「士気・指揮・職・識・私記」物
「史記・始期・志紀・磯城・子規」物
枯れ・・・掛例・化例・華例
借れ・刈れ・嗄れ・狩れ・涸れ
彼(he)
たる・・・多留
葵。・・・亜於意→徳川家
雛・・・・比名・鄙・比奈・啚名=惜しむ名
あそびの・阿蘇美野・亜(阿・蛙)措備埜
調度。・・丁度・兆度・帳土・長土(長州土佐)
二藍、・・・児藍(藍城)・爾覧・似乱・爾蘭
葡萄染・・・「武道・無道・分如何・部同」初め
などの・・・等之・名度廼
さいでの、・差異出埜・歳出之
おしへ・・・教え・訓え・押し得
されて、・・作例出・差例出
草紙の・・・「双紙・相思・創始・総史・宗氏」之
中に・・・・名掛似
あり・・・・亜理・蟻・蛙理・鴉理・在・有・Y理
けるを・・・懸留・化留
見つけ
たる。・・・多留
また・・・・・・・・・亦・又・俣・股・復
折から・・・・・・・・下理掛等
あはれ・・・・・・・・亜葉例
なりし・・・・・・・・名理視
人の文、・・・・・・・訊(仁・壬・妊)の文
雨などの・・・・・・・亜目等(名度)之
降りて・・・・・・「振り・付利・不利・不離」氐
徒然(つれづれ)・・・釣(連・吊・攣)れズレ
ーー↓徒然草作者?
鎌倉時代末期(1330年代前半)
吉田兼好=兼好法師
本名、卜部兼好(うらべかねよし)
弘安六年(1283年)頃
~
文和元年/正平七年(1352年)以後
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての
官人・遁世者・歌人・随筆家
治部少輔
卜部兼顕の子
卜部氏の嫡流は後の時代に
吉田家、平野家などに分かれ、
兼好は吉田家の系統で
江戸時代以降は
吉田兼好と通称
ウィキペディア
死没1350年?
ーー↓徒然草
1330年8月~1331年9月頃に
まとめられた随筆
数多くの説があり定説無
序段を含めて
244段
文体は和漢混淆文と、
仮名文字が中心の和文が混在
兼好が
仁和寺がある
双が丘(ならびがおか)に居を構えた
ーーーーーーーー↓
徒然草=兼
徒歩(徒・かち→可知・加地)
つれづれ
↓
通例事例(図例)
ーーー↓枕草子
なる日・・・・・・・・名留比
さがし・・・・・・・・作臥詞・佐賀視
出で・・・・・・・・・意出
たる。・・・・・・・・多留・他留・太留
去年の・・・・・「虚年・拠念・申年」埜(乃)
かは・・・・・・掛葉
ぼり。・・・・・補理
月の・・・・・・解通之
あかき・・・・・亜掛記
夜。・・・・世留
「拠・因・選・縁・依・撚・由」留
ーーーーー
いと、文明、解掛は・・・おかし・・・