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コジキジゲン

降灰。重なる号は藍山、号は梅里

2013-05-09 20:37:27 | 古事記字源
 お袋の入院している病院に訪ねる途中、橋の近くの道路で「キツネ」に遭遇した。はじめは「犬」かと思ったけれど、尻尾も顔も違う「狐」だった。「ゴンキツネ」ではなく「キタキツネ」である・・・最近は「クマ」も街中に出没しているらしいけれど、「生きていく」って、大変。今年は寒さがつづいて、田植えが遅れるそうである。
 「飢饉」・・・ブログを調べてみると
ーー

 天保の大飢饉

 1833年(天保四年)~1835~1837~1869年にかけて「七年間」の飢饉、「甲斐国の百姓一揆」の「天保騒動」、天保八年二月の「大塩平八郎の乱」・・・

 原因は気候の寒冷化・・・

 寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一

 洪水や冷害などの相次ぐ異常気象

 東北地方の飢饉・凶作の前に起きた火山爆発と年

 天明三年

 三月十二日(1783年四月十三日)には岩木山

 七月六日(八月三日)には浅間山が噴火

 天明三年(1783)は、

 秋田藩はもとより、東北に大飢饉

 農書を書き残した

 秋田郡

 七日市村の

 肝いり

 長崎七左衛門の記録・・・

 「幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は・・・」

 江戸時代の三大飢饉・・・享保期、天明期、天保期の飢饉は「三大飢饉」として知られる。

 「享保の飢饉」は、 享保十七年(1732)

 「害虫(ウンカともイナゴともいう)」が原因・・・

ーー

 異常気象の原因

 1783年6月3日

 アイスランドの

 ラキ火山(Lakagígar)が

 巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)

 1783年~1785年

 アイスランドの

 グリムスヴォトン火山(Grímsvötn)噴火

 フランス革命の遠因

 浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性

 ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は

 十年程度続いたと考えられる。

 ・・・しかしながら異常気象による不作は1782年から続いており、

 1783年六月の浅間山とラキの噴火だけでは

 1783年の飢饉の原因を説明できていない。

 大型のエルニーニョが

 1789~1793年に発生し

 世界中の気象に影響を与え、

 天明の飢饉からの

 回復を妨げたとの説もある

 ・・・らしい・・・

 アイスランド南部の

 エイヤフィヤットラヨークトル火山の噴火

 アイスランドの火山爆発は

 フランスでも、気象異変から小麦の不作

 フランス革命(1789年)に影響・・・

 ・・・世界的な異常気象をもたらした

ーー

 1815年

 インドネシアの

 タンボラ山大噴火

 タンボラ山の噴火で北半球は

 1816年6月、米国のコネチカットで氷点下を記録し

 雪や霜。英国やスカンディナビアでは5〜10月まで長雨

ーー

 1783~1784年

 アイスランドのラキ火山の噴火(ラカギガル火山)

 1991年

 フィリピン・ピナツボ火山噴火

 日本は

 1993年冷夏でコメ不足

ーー

 2010年

 イヤフィヤトラヨークトル氷河で、

 三月から四月まで火山の噴火

ーー

 今年は

 2013年である・・・

 

ーーー↓

http://www.i-apple.jp/thesis-pdf/200410edo.pdf

 から抜粋記事の部分です

 結果

1670年~2003年までの「323年間の記録」を調べてみると、中部から東北地方に渡って起こった冷害は「41回」あり、その内「二十七回」は世界の火山爆発の直後に飢饉が起きていることから、火山爆発が関係していると推測される。

 天明三年の飢饉は六月から八月にかけて起こった浅間山の爆発で死者が二万人を越え、関東~東北まで餓死者四十八万人を出すに至った。

ーーー↓

 ・・・ニジュウ・二重・二拾→似重、似を拾う、邇を重ねる、爾を拾う、似る獣、似る住まい・・・尼に従、丹を重ねる、仁を重ねる、児を拾う、荷(ハス=蓮)を重ねる・・・お稲荷・・・キツネ・・・油揚げ・・・豆腐・・・ニガリ=苦り(苦汁)・・・念=20・・・

ーーーーー↓

 枕草子

(二〇段)・・・二十段・弐拾段・20段・・・・念段

 清涼殿の

 うしとらの・・・丑寅(チュウイン)=艮(コン)=牛虎(ギュウコ)

 隅の・・・・・・クマ

 北の・・・・・・喜多(野次喜多)・木田(ボクデン)

 へだて

 なる・・・・・・名留・奈留・鳴る・生る・成る・為る

 御障子には、・・音章二爾葉

 荒海の繪、・・・航海・更改・紅海・黄海・降灰

 生き

 たる・・・・・・足る・樽→木+尊→記紀の尊

 ものどもの

 おそろしげなる、

 手長足長・・・主調、即調、則超→超拳法

 をぞ・・・・・緒措

 書かれたる。

 うへの

 御局の戸、・・・音曲

 押し

 あけたれば、

 常に・・・・・・常(陸)→水戸→講談師の桃林亭東玉が「水戸黄門漫遊記」
        水戸光圀=字は子龍、号は梅里

 目に見ゆるを、

 にく・・・・・・肉(ジク)→字句

 み・・・・・・・視

 など・・・・・・等=ひとしい

 して・・・・・・詞出

 笑ふ・・・・・・和等附・話等附・ワラウ

 ほどに、

ーーー↓

 高欄の・・・・・高覧・香蘭・撹乱・攪乱

         梱らん・交蘭

         考藍→藍山→宇和島藩主

         慶長十九年(1614年)十二月二十八日

         伊達秀宗が徳川秀忠より

         伊予宇和島藩十万石を与えられ、

         慶長二十年(1615年)三月十八日に

         板島丸串城(宇和島城)に入城

ーー↓藍山

  伊達宗城

  生没年1818~1892

  父:山口直勝

  義父:伊達寿光

  義父:伊予宇和島藩七代藩主

     伊達宗紀

  改名

  山口亀三郎、

  伊達亀三郎、

  兵五郎、

  宗城

  知次郎

  号

  南洲

  藍山

  大膳大夫

  侍従

  1844~1858

  伊予宇和島藩

  八代藩主

  1844年

  遠江守

  伊予守

  左少将

  参議

  権中納言

  議定

  外国官知事

  民部卿兼大蔵卿

  大蔵卿専任

  1884~1891

  伯爵

ーーー↓

 ・・・以下の「変換」は読者に任せた・・・御隋に、どうぞ・・

ーーー↓

 もとに、

 青き

 瓶の

 大なる

 据ゑて、

 櫻の

 いみじく・・・意味字句

 おもしろき

 枝の

 五尺・・・・・語釈・語借

 ばかり・・・・葉仮

 なるを、・・・名留

 いと

 多く

 さしたれば、

 高欄のもと・・・高野長英

 まで

 こぼれ

 咲きたるに、

 ひるかつた、

 大納言殿、・・・代名言出ん

 櫻の・・・・・・オホの→大埜

 直衣の少し・・・直意

 なよらかなるに、

 濃き

 紫の指貫、

 白き

 御衣ども、

 うへに

 濃き

 綾の、

 いと

 あざやか

 なるを

 出して

 參り給へり。

 うへの

 こなたに

 おはしませば、

 戸口の前なる

 細き板敷に

 居給ひて、

 ものなど奏し給ふ。

 御簾のうちに、

 女房

 櫻の唐衣ども

 くつろかにぬぎ

 垂れつつ、

 藤山吹など

 いろいろに

 このもしく、

 あまた小半蔀の

 御簾より

 押し出でたるほど、

 晝御座の

 かたに

 御膳まゐる。

 足音高し。

 けはひなど、

 をしをしと

 いふ

 聲聞ゆ。

 うらうらと

 のどかなる日の

 景色

 いとをかしきに、

 終の

 御飯

 もたる

 藏人參りて、

 御膳奏すれば、

 中の戸より

 渡らせ給ふ。

 御供に

 大納言

 參らせ給ひて、

 ありつる花のもとに

 歸り居給へり。

 宮の

 御前の

 御儿帳

 押しやりて、

 長押のもとに

 出でさせ

 給へるなど、

 唯

 何事もなく

 萬にめでたきを、

 さぶらふ人も、

 思ふことなき

 心地するに、

 月も日も

 かはりゆけども

 ひさに

 ふる

 み室の山のといふ

 故事を、

 ゆるるかに

 うち詠み出して

 居給へる、

 いとをかしと覺ゆる。

 げにぞ

 千歳も

 あらまほしげなる

 御ありさまなるや。

 陪膳

 つかうまつる人の、

 男どもなど

 召すほどもなく

 わたらせ給ひぬ。

 「御硯の墨すれ」と

 仰せらるるに、

 目は

 そらにのみにて、

 唯

 おはしますを

 のみ

 見奉れば、

 ほど

 遠き目も

 放ちつべし。

 白き色紙

 おしたたみて、

 「これに

  只今

  覺えん

  故事、

  一つづつ

  書け」と

 仰せらるる。

 外に居給へるに、

 「これはいかに」と申せば、

 「疾く書きて參らせ給へ、

  男は

  ことく

  はへ

  侍ふべきにも

  あらず」とて、

 御硯とりおろして、

 「とくとく

  ただ

  思ひ

  めぐらさで、

  難波津も

  何もふと

  覺えん事を」と

 責めさせ給ふに、

 などさは

 臆せしにか、

 すべて面さへ

 赤みてぞ

 思ひ

 みだるるや。

 春の歌、

 花の心など、

 さいふ

 いふも、

 上臈

 二つ三つ

 書きて、

 これにとあるに、

ーー

 年經れば

 齡は老いぬ

 しかは

 あれど花をし見れは

 物おもひもなし

ーー

 といふことを、

 君をし

 見ればと

 書きなしたるを

 御覽じて、

 「唯

  この

  こころばへどもの、

  ゆかし

  かり

  つるぞ」と仰せらる。

 ついでに、

 「圓融院の

  御時、

  御前にて、

  草紙に

  歌一つ書けと、

  殿上人に

  仰せられけるを、

  いみじう

  書き

  にくく、

  すまひ申す

  人々ありける。

  更に

  手の

  惡しさ

  善さ、

  歌の折に

  あはざらんをも

  知らじと

  仰せられければ、

  わびて

  皆書きける中に、

  ただいまの

  關白殿の、

  三位の

  中將と聞えけるとき、

ーー

  しほの

  みつ

  いづもの

  浦の

  いつもいつも

  君をば

  ふかく

  おもふ

  はやわが

ーー

 といふ

 歌の末を、

 たのむはやわがと

 書き給へり

 けるをなん、

 いまじく

 めでさせ

 給ひける」と仰せらるるも、

 すずろに

 汗あゆる

 心地ぞしける。

 若からん人は、

 さも

 え書くまじき

 事のさま

 にやとぞ

 覺ゆる。

 例いと

 よく書く人も、

 あいなく

 皆つつまれて、

 書き

 けがし

 など

 したるもあり。

 古今の

 草紙を

 御前に置かせ給ひて、

 歌どもの本を

 仰せられて、

 「これが末はいかに」と

 仰せらるるに、

 すべて

 夜晝心に

 かかりて、

 おぼゆるもあり。

 げによく覺えず、

 申し出でられぬことは、

 いかなることぞ。

 宰相の

 君ぞ

 十ばかり。

 それも

 おぼゆるかは。

 まいて

 五つ六つなどは、

 ただ覺えぬよしを

 ぞ啓すべけれど、

 「さやはけ

  惡くく、

  仰事を

  はえなく

  もてなすべき」といひ

 口を

 しがるも

 をかし。

 知ると

 申す人なきをば、

 やがて

 詠みつづけさせ給ふを、

 さてこれは

 皆知りたる

 事ぞかし。

 「など

  かく

  拙くはあるぞ」といひ

 歎く中にも、

 古今

 あまた

 書き寫しなどする人は、

 皆覺えぬ

 べきことぞかし。

 「村上の御時、

  宣耀殿の

  女御と

  聞えけるは、

  小一條の

  左大臣殿の

  御女に

  おはしましければ、

  誰かは知り聞えざらん。

  まだ姫君に

  おはしける時、

  父大臣の

  教へ聞えさせ

  給ひけるは、

  一つには

  御手を習ひ給へ、

  次には

  きんの

  御琴を、

  いかで

  人に

  ひきまさらんと

  おぼせ、

  さて

  古今の

  歌

  二十卷を、

  皆

  うかべさせ給はんを、

  御學問には

  させたまへと

  なん

  聞えさせ給ひけると、

  きこしめし

  おかせ給ひて、

  御物忌なりける日、

  古今を

  かくして、

  持て

  わたらせ給ひて、

  例ならず

  御几帳を

  ひきたてさせ

  給ひければ、

  女御

  あやしと

  おぼしけるに、

  御草紙を

  ひろげさせたまひて、

  その年

  その月、

  何のをり、

  その人の

  詠みたる

  歌はいかにと、

  問ひきこえさせたまふに、

  かうなりと

  心得させ

  たまふも

  をかしきものの、

  ひが

  おぼえもし、

  わすれたるなどもあらば、

  いみじかる

  べき事と、

  わりなく

  思し

  亂れぬべし。

  そのかた

  おぼめかしからぬ人、

  二三人ばかり

  召し出でて、

  碁石して

  數を置かせ給はんとて、

  聞えさせ

  給ひけんほど、

  いかに

  めでたく

  をかしかりけん。

 御前に

 侍ひけん人さへこそ

 羨しけれ。

 せめて

 申させ給ひければ、

 賢しう

 やがて末までなどにはあらねど、

 すべて

 つゆ

 違ふ

 事

 なかりけり。

 いかで

 なほ

 少し

 おぼめかしく、

 僻事見つけてを

 止まんと、

 ねたきまで

 思しける。

 十卷にもなりぬ。

 更に

 不用なりけりとて、

 御草紙に

 夾算して、

 みとの

 ごもりぬるも

 いと

 めでたし

 かし。

 いと

 久しうありて

 起きさせ給へるに、

 なほ

 この事

 左右なくて止まん、

 いと

 わろかるべしとて、

 下の十卷を、

 明日にも

 ならば

 他をもぞ

 見給ひ合するとて、

 今宵

 定めんと、

 おほとなぶら

 近く

 まゐりて、

 夜更くるまで

 なん

 よませ給ひける。

 されど

 終に

 負け聞えさせ給はず

 なりにけり。

 うへ渡らせ給ひて後、

 かかる事

 なんと、

 人々

 殿に申し奉りければ、

 いみじう

 思し

 騒ぎて、

 御誦經など

 數多せさせ

 給ひて、

 そなたに

 向ひて

 なん

 念じ

 暮させ

 給ひけるも、

 すきずきしく

 あはれ

 なる事なり」など

 語り出させ給ふ。

 うへも

 聞しめして、

 めでさせ給ひ、

 「いかで

  さ

  多く

  よませ

  給ひけん、

  われは

  三卷

  四卷

  だにも

  えよみ

  はてじ」と仰せらる。

 「昔は

  えせものも

  皆

  數寄

  をかしう

  こそありけれ。

  このごろ

  かやうなる事

  やは

  聞ゆる」など、

 御前に侍ふ人々、

 うへの

 女房の

 こなた

 ゆるされたるなど

 參りて、

 口々

 いひ出でなどしたる程は、

 誠に

 思ふ事なく

 こそ

 覺ゆれ。

ーーーーー

 ・・・いと、ナガケレバ、変換、面倒くさし・・・



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アマクサ・ノリ→尼(尸+ヒ・七・匕)句差・憲

2013-05-08 22:36:46 | 古事記字源
 「大日本国帝国憲法」・・・?・・・年号数、月数、日数・・・「数字」がイト、をかし・・・
ーーーーー

 明治十八年

 (1885年)

 太政官制を廃止し

 内閣制度が創設

 初代内閣総理大臣

 伊藤博文

ーー

 大日本帝国憲法

 大日本帝國憲法

 明治二十二年

 (1889年)

 二月

 十一日に公布

ーー

 明治二十三年

 (1890年)

 十一月

 二十九日に施行

ーー

 「オスマン帝国憲法」が

 アジア初の近代憲法

 「帝国日本」は

 アジア二番目の近代憲法

ーー

 昭和二十二年

 (1947年)

 五月

 三日の

 日本国憲法施行まで

 一度も改正無し

 昭和二十二年

 (1947年)

 五月二日まで存続

 第七十三条の

 憲法改正手続を経て

 五月

 三日に

 日本国憲法が施行

ーーー

 日本帝国憲法

 第十条

 官制大権は天皇に属する

ーー

 明治二年

 六月

 十七日

 (1869年七月二十五日)

 版籍奉還

ーー

 明治四年

 七月

 十四日

 (1871年8月29日)

 廃藩置県

ーー

 大日本帝国憲法

 第一条

 および

 同第四条

 国家の統治権は天皇が総攬

 大日本帝国憲法

 第二十七条

 臣民の財産権の保障

 第二十二条

 臣民の居住移転の自由の保障

 明治五年

 (1872年)

 徴兵制度・国民皆兵

 第十九条

 人民の等しい公務就任権を規定

 第二十条

 兵役の義務

 明治十七年

 (1884年)

 華族令

 公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵

 憲法三十四条

 華族の貴族院列席特権

 ・・・

ーーー↓

第一章 天皇

第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス

第三條 天皇ハ藭聖ニシテ侵スヘカラス

第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

第五條 天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立法權ヲ行フ

第六條 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス

第七條 天皇ハ帝國議會ヲ召集シ其ノ開會閉會及衆議院ノ解散ヲ命ス

第八條 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ發ス

?此ノ勅令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ效力ヲ失フコトヲ公布スヘシ

第九條 天皇ハ法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸蘄ヲ筯進スル爲ニ必要ナル命令ヲ發シ又ハ發セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス

第十條 天皇ハ行政各部ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ條項ニ依ル

第十一條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

第十二條 天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム

第十三條 天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ諸般ノ條約ヲ締結ス

第十四條 天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス

?戒嚴ノ要件及效力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第十五條 天皇ハ爵位勳章及其ノ他ノ榮典ヲ授與ス

第十六條 天皇ハ大赦特赦減刑及復權ヲ命ス

第十七條 攝政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル

?攝政ハ天皇ノ名ニ於テ大權ヲ行フ

第二章 臣民權利義務

第十八條 日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル

第十九條 日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ應シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得

第二十條 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス

第二十一條 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ納税ノ義務ヲ有ス

第二十二條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ居住及移轉ノ自由ヲ有ス

第二十三條 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問處罰ヲ受クルコトナシ

第二十四條 日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ權ヲ奪ハルヽコトナシ

第二十五條 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ

第二十六條 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ

第二十七條 日本臣民ハ其ノ所有權ヲ侵サルヽコトナシ

?公益ノ爲必要ナル處分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル

第二十八條 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

第二十九條 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス

第三十條 日本臣民ハ相當ノ敬禮ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ從ヒ請願ヲ爲スコトヲ得

第三十一條 本章ニ揚ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ

第三十二條 本章ニ揚ケタル條規ハ陸海軍ノ法令又ハ規律ニ牴觸セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス

第三章 帝國議會

第三十三條 帝國議會ハ貴族院衆議院ノ兩院ヲ以テ成立ス

第三十四條 貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依リ皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス

第三十五條 衆議院ハ選與法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス

第三十六條 何人モ同時ニ兩議院ノ議員タルコトヲ得ス

第三十七條 凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス

第三十八條 兩議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコトヲ得

第三十九條 兩議院ノ一ニ於テ否決シタル法律案ハ同會期中ニ於テ再ヒ提出スルコトヲ得ス

第四十條 兩議院ハ法律又ハ其ノ他ノ事件ニ付各々其ノ意見ヲ政府ニ建議スルコトヲエ但シ其ノ採納ヲ得サルモノハ同會期中ニ於テ再ヒ建議スルコトヲ得ス

第四十一條 帝國議會ハ毎年之ヲ召集ス

第四十ニ條 帝國議會ハ三箇月ヲ以テ會期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ

第四十三條 臨時緊急ノ必要アル場合ニ於テ常會ノ外臨時會ヲ召集スヘシ

?臨時會ノ會期ヲ定ムルハ勅命ニ依ル

第四十四條 帝國議會ハ開會閉會期ノ延長及停會ハ兩院同時ニ之ヲ行フベシ

?衆議院解散ヲ命セラレタトキハ貴族院ハ同時ニ停會セラルヘシ

第四十五條 衆議院解散ヲ命セラレタトキハ勅命ヲ以テ新ニ議員ヲ選擧セシメ解散ノ日ヨリ五箇月以内ニ之ヲ召集スヘシ

第四十六條 兩議院ハ各々其ノ三分ノ一以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ爲スコトヲ得ス

第四十七條 兩議院ノ議事ハ過半數ヲ以テ決ス可否同數ナルトキハ議長ノ決定スル所ニ依ル

第四十八條 兩議院ノ會議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密會ト爲スコトヲ得

第四十九條 兩議院ハ各々天皇ニ上奏スルコトヲ得

第五十條 兩議院ハ臣民ヨリ呈出スル請願書ヲ受クルコトヲ得

第五十一條 兩議院ハ此ノ憲法及議院法ニ掲クルモノ、外内部ノ整理ニ必要ナル諸規則ヲ定ムルコトヲ得

第五十二條 兩議院ノ議員ハ議院ニ於テ發言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ處分セラルヘシ

第五十三條 兩議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内亂外患ニ關ル罪ヲ除ク外會期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ

第五十四條 國務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及發言スルコトヲ得

第四章 國務大臣及樞密顧問

第五十五條 國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス

?凡テ法律勅命其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス

第五十六條 樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス

第五章 司法

第五十七條 司法權ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ

?裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第五十八條 裁判官ハ法律ニ定メタル資格ヲ具フル者ヲ以テ之ニ任ス

?裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ處分ニ由ルノ外其ノ職ヲ免セラルヽコトナシ

?懲戒ノ條規ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第五十九條 裁判ノ對審判決ハ之ヲ公開ス但シ安寧秩序又ハ風俗ヲ害スルノ虞アルトキハ法律ニ依リ又ハ裁判所ノ決議ヲ以テ對審ノ公開ヲ停ムルコトヲ得

第六十條 特別裁判所ノ管轄ニ屬スヘキモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第六十一條 行政官廳ノ違法處分ニ由リ權利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ屬スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス

第六章 會計

第六十ニ條 新ニ租税ヲ課シ及税率ヲ變更スルハ法律ヲ以テ之ヲ定ムヘシ

?但シ報償ニ屬スル行政上ノ手数料及其ノ他ノ収納金ハ前項ノ限ニ在ラス

?國債ヲ起シ及豫算ニ定メタルモノヲ除ク外國庫ノ負擔トナルヘキ契約ヲ為スハ帝國議會ノ協賛ヲ經ヘシ

第六十三條 現行ノ租税ハ更ニ法律ヲ以テ之ヲ改メサル限リハ舊ニ依リ之ヲ徴収ス

第六十四條 國家ノ歳出歳入ハ毎年豫算ヲ以テ帝國議會ノ協賛ヲ經ヘシ

?豫算ノ款項ニ超過シ又ハ豫算ノ外ニ生シタル支出アルトキハ後日帝國議會ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス

第六十五條 豫算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ

第六十六條 皇室經費ハ現在ノ定額ニ依リ毎年國庫ヨリ之ヲ支出シ將來増額ヲ要スル場合ヲ除ク外帝國議會ノ協賛ヲ要セス

第六十七條 憲法上ノ大權ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ屬スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝國議會之ヲ廢除シ又ハ削減スルコトヲ得ス

第六十八條 特別ノ須要ニ因リ政府ハ豫メ年限ヲ定メ繼續費トシテ帝國議會ノ協賛ヲ求ムルコトヲ得

第六十九條 避クヘカラザル豫算ノ不足ヲ補フ爲ニ又ハ豫算ノ外ニ生シタル必要ノ費用ニ充ツル爲ニ豫備費ヲ設クヘシ

第七十條 公共ノ安全ヲ保持スル爲緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝國議會ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ處分ヲ爲スコトヲ得

?前項ノ場合ニ於テハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出シ其ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス

第七十一條 帝國議會ニ於テ豫算ヲ議定セス又ハ豫算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ豫算ヲ施行スヘシ

第七十二條 國家ノ歳出歳入ノ決算ハ會計檢査院之ヲ檢査確定シ政府ハ其ノ檢査報告ト倶ニ之ヲ帝國議會ニ提出スヘシ

?會計檢査院ノ組織及職權ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第七章 補則

第七十三條 將来此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝國議會ノ議ニ付スヘシ

?此ノ場合ニ於テ兩議院ハ各々其ノ總員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多數ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ爲スコトヲ得ス

第七十四條 皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス

?皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス

第七十五條 憲法及皇室典範ハ攝政ヲ置クノ間之ヲ變更スルコトヲ得ス

第七十六條 法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ效力ヲ有ス

?歳出上政府ノ義務ニ係ル現在ノ契約又ハ命令ハ總テ第六十七條ノ例ニ依ル

ーーー↓

 第七十三条 憲法改正

ーーーーー↓

 枕草子

 (一九段)・・・十九段・壱拾九段・壱九段・一九段・足玖段

ーーー↓

 「第十九條」・・・日本臣民ハ

          法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ應シ

          均ク文武官ニ任セラレ

          及

          其ノ

          他ノ

          公務ニ

          就クコトヲ

          得

ーーー↓

 家は

 近衞(このえ)の

 御門(みかど)。

 二條。・・・・皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス

 一條も・・・・第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

 よし。

 染殿の宮。・・・染(氵+九+十+八)殿(尸+共+几+又)

 清和院。・・・・源字の和(話)の印(音・韻)

 菅原の院。・・・還元・漢言の入ん

 冷泉院。・・・・例撰音

 朱雀院。・・・・取惹(ジャク・ニャク・ひく)音

 とうゐん。・・・当音

 小野宮。・・・・章之視也・証埜(木木十一)旧

 紅梅。

 縣の井戸。・・カケの意図・伊都・異図

 東・・・・・・ヒガシ=比掛史

 三條。・・・・天皇ハ藭聖ニシテ侵スヘカラス・纂定(水戸常)

 小六條。・・・第六章 會計・・・会稽

        天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス

 小一條。・・・第一章 天皇・・・転向・転校・天候・天工・添考

ーーーーー

 ・・・ケンポウ、「天草海苔」、イト、ヲカシ・・・

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コジキの生活はケチなのか?

2013-05-07 19:26:45 | 古事記字源
 「吝嗇」がナゼ、「ケチ」と言う意味なんだか・・・「吝」=「文+口」、「嗇」=「十+一+人+人+回」、「十+人+人+一+回」、あるいは「亠+丄(ジョウ)+人+人+回」・・・「薔薇」の「薔」は「丱+十+人+人+一+回」だが、「薇」は「丱+微(彳山几攵)」で「丱」を「省(はぶけ)=(除(のぞけ)」ば「微笑」で「ビショウ・ほほえむ」である。小さい頃に友達の家でカレーライスをご馳走され、食べた後に皿に一粒とカレーがこびり付いていたのを舐めったら「犬のように卑しい真似をするな、ッ」って友達から言われた・・・ボクの伯母は「ご飯一粒でも残さない様に大切に食べてね、ッ。お百姓さんが一所懸命に作ってくれたんだか・・・」であったから心外だった・・・
 ブログで調べると・・・

 「吝(リン・やぶさか・けち)

 「けちくさい(吝臭い)・けちんぼう(吝ん坊)・しわい(吝い)

 「しわい(吝い)」

 金銭などを出し惜しみするさま。 けちだ。しみったれている。「猾(こす)い」・・・

 [音]リン(呉)(漢)

 [訓]やぶさか しわい物惜しみをする。けち。

 「吝嗇(りんしょく)・倹吝・慳吝(けんりん)」

 こせこせして卑しいこと・気持ちのせまいこと

 【吝い】しわい. けちである。 しみったれている。

 【吝か】やぶさか. 物惜しみするようす。けち。

 ためらうさま。思いきりの悪いさま。

 「吝の言い換えや別の言い方」

 許容範囲、柔軟性、あるいは見解の広さが欠けているさま、せせこましい

 狭量・狭い・心の狭い・偏屈・拙陋・けちくさい・褊狭・狭隘・偏窟・偏狭・けち臭い.吝いの同義語

 「吝いの言い換えや別の言い方」

 けち・セコい・みみっちい・しみったれ・がめつい・もの惜しみする・けちん坊

 吝とは、

 〔説文〕に「古文の吝、彣に從ふ」とある古文。

 「交+彡」

 けち、やぶさか、しぶる、惜しむ、恥じる、という意味がある。

 〔説文解字〕には「恨惜するなり」とある。

 吝を声符とする漢字には、悋、麐などがある。

 ・・・とある・・・「ケチ」なワリニは随分とあるな・・・「ケチ」は「意味内容」ではなく、「文+口→文は口(音声、発声)」の「ケ・チ」の音の同音漢字である・・・「ケ=化・仮・懸・卦・気・氣・袈・華・祁・家・毛」の「チ=知・・・」であるカナ・・・

 「わたり=渡(と・ど)=氵(サンズイ)+度(ド)」って、一般的には「はし」がないから「ふね」で「かわ」を「横切」って対岸の川岸にに往くことだよな。舟が無ければ川を「足でコギ渡る」か、深ければ泳ぐしかない。カネがあれば渡し人足の肩車や、蓮台に乗って渡った・・・大井川は川越人足により渡されていて、天竜川では渡船が用いられていたらしい。渡船の運営は、「見附宿」と「浜松宿」との間の宿である「箔歯詩(磐田市)の人々であるそうだ・・・イズレにしても場合によっては「溺死・溺れ死に」である・・・「はし」が無いと不便であるけれど40年前に造られたコンクリートのハシは「老朽化」も激しいな・・・トンネル事故も多いけれど・・・「わたり」の漢字は「亘理・渡利・渉り・亙り・亘り」だけれども・・・「橋」を「歩いてワタル意」も、なのか、どうなのか、いと、おかし・・・

ーーーーー

 枕草子

 (一八段)

 わたり(渡)は・・・話・他・理

ーーー↓

 しかすがの渡。・・・詞(史)化す我の「話・他・理」

ーーー↓

 志香須賀の渡・・・士の心、禾の秘、須(ヒゲ)が加えて改

       維新の士、乃木の秘密、伊藤博文・・・

 律令国家では

 中央と地方を

 結ぶ道路が

 官道として整備され

 約16㎞ごとに旅行者が

 休憩

 宿泊をする

 駅家(うまや)が置かれた

 三河国では

 鳥捕(ととり)・・・鳥取

 山綱(やまつな)・・埜俟つ名

 渡津・・・・・・・・「話・他・理」の「通」

 平安時代

 豊川河口付近の川幅は4㎞程

 志香須賀の渡の

 右岸の船着き場が

 柏木濱(かしわぎのはま)で、

 対岸は

 豊橋市

 牟呂町坂津であった

 三河国(愛知県)

 宝飯郡、

 豊川(古称、飽海川)の

 河口付近にあった渡し場

 「歌枕」

 順集〔983頃〕

 「行き通ふ舟せはあれど

  しかすがの

  わたりは

  あともなく

  ぞ

  ありける」

 豊川の河口の渡しの

 安全を祈るための

 神社が

 兎足神社である・・・ウサギのアシとは・・・イナバの白兎

 「いづか

  たよりて

  渡らしむ

  しかすがの

  たむけの神に

  発つは

  つげまし」 の

 神が

 菟足神社

 祭神は

 穂国造たり・・・「禾(乃木)の恵みの拠句作り」

 菟上足尼命・・・「トガミソクニ」→咎視、タリの似の名

 柏木浜から・・・「か・しわ・ぎ」の「ヒン」

 今の地に移った

 三河国の

 飽海川(豊川)河口近くにあった渡し場

 「歌枕」

 「をしむ

  とも

  なき物

  ゆゑに

  シカスガのと

  聞けば

  ただ

  ならぬ

  かな(拾遺 別)」

 愛知の歌枕

 「なき

  物

  ゆゑに

  しかすがの渡(わたし)と

  聞けば

  ただ

  ならぬ

  かな (巻6 316)」

ーーー↓しかすがの渡・・・「牛車通学」・・・ブログから抜粋

 1902年、それまであった神野小学校がなくなり、そこに通っていた子どもたちは、牟呂小学校へ通っていました。

 1912年には、五号(ごごう・神野新田町の北部)一帯は、吉田方校区になりました。ですが、学校が遠いので、雨の日には学校を休む子も多く、また家の手伝いで欠席する子もいました。校長先生や五号、吉前の人たちは何とかしてこどもたちがきちんと通学できるようにしたいと話し合いました。そうして考え出されたアイデアが牛車通学だったのです。そこで、牛車に乗って通学することとなりました。雨の日には、牛車に屋根をつけてバスのようなものにしたのです。牛車には低学年が乗り、中学年以上は歩いて通学していました。

 牛車通学は、

 1961年、

 吉前五号線のバスが開通するまで続けられました。

ーーー↓

 みつはしの渡。・・・視通葉詞の亘り・三橋の渡り・桟橋の渡り

ーーー↓小寺菊子

 1884~1958

 明治-昭和時代の女性小説家。

 明治十七年

 八月

 七日生まれ

 徳田秋声に師事

 明治四十四年「父の罪」が大阪朝日新聞の懸賞小説に入選

 同年

 青鞜(せいとう)社に

 参加

 女性の苦闘を自然主義的手法でかきつづけた

 大正三年画家の

 小寺健吉と結婚

 昭和三十一年

 十一月

 二十六日死去

 享年七十二歳

 富山県出身

 旧姓は

 尾島

 作品集に

 「百日紅の蔭」、「美しき人生」など

 1883. 8. 7(明治16)~ 1956.11.26(昭和31) 小説家。

 旧姓

 尾島。

 富山県

 富山町生れ

 東京府

 教員養成所卒業

ーーー↓小寺菊子

 念仏の家 - 青空文庫・・・ブログから「参照部分抜粋」・・・

 越中の国水橋といふ小さな漁村

「有磯(ありそ)の海」といふ。

 枕の草紙に、「渡りはしかすがの渡、こりずまの渡、みづはしの渡」とある。その水橋である。

 文治二年正月末、

 源義経主従十七人が山伏の姿となつて奥州へ落去の途次、

 京都堀川を忍び出て、越前に入り、安宅(あだか)の関をすぎ、

 倶利伽羅峠をこえて、

 越中に入り、

 水橋川を渡つた

 鎌倉時代、

 富山城より二十四年おくれて、

 小さな城が築かれ、

 天正六年に

 姉崎和泉守が、

 水橋城で討死(うちじに)してから廃城

 明治十一年

 明治天皇が北国御巡幸(ほつこくごじゆんかう)の際、

 九月三十日

 午前十一時

 五十分、

 鹵簿(ろぼ)粛々として

 東水橋町に御着輦(ごちやくれん)になり、

 慮瀬といふ旧家に御座所を設けた

 行列は

 八百三十五人、

 乗馬は

 百十五頭

 芭蕉の像を祀つて運座の会が開かれたりすることは、

 富山市と変りがなく、

 私の父もその

 水橋の旧家に生れた一粒種の青年であつた。

 土地柄

 売薬を業としてゐたが、

 明治十一年ごろ富山市に移り、

 前田藩の士族で、祖父は町奉行、父は和歌俳諧の先生をして御殿に使へた浅野家の娘(私の母)を嫁に貰つた。悠長な士族の家に育つて、遊芸三昧に日を暮らした私の母は、商家の家風とは何事も合はず、姑に苛られて、年中出るの入るの騒ぎをしてゐたのである。

 酒屋をしてゐる「尾島屋」といふ本家に一泊

 蜃気楼で有名な

 魚津、

 滑川(なめりがは)

 水橋

ーーー↓三橋

 日本三景

 松島の橋

 松島三橋・・・松島朱塗り三橋

 朱塗りの

 三橋とは

 渡月橋 縁切りの橋・修行僧が俗世と縁を切った島・芭蕉の石碑

 福浦橋 出会いの橋・全長252m・福浦島へ渡る橋

 透かし橋 縁結びの橋・瑞巌寺五大堂へ渡る橋

      下が透けて見える?

 五大堂の

 すかし橋・・・透かし橋(縁結びの橋)

 福浦島の

 福浦橋・・・・出会い橋

 雄島の

 渡月橋・・・・別れ橋

 曾良の句

 松島や鶴に身をかれほとゝきす

 信州諏訪之産「曾良」

ーー 

 (篆額)芭蕉翁松島・並序

 抑ことふりにたれと松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭

 西湖を恥す東南より海を入て江の中三里浙江の潮をたゝふ

 島・・の數を盡して欹ものは天を指ふすものは波に匍匐あ

 るは二重にかさなり三重に疊みて左にわかれ右につらなる

 負るあり抱るあり兒孫愛すかことし松の・こまやか

 に枝葉汐風に吹たはめて屈曲をのつからためたるかことし

 其氣色・然として美人の顏を粧ふちはや振・のむか

 し大山すみのなせるわさにや造化の天工いつれの人か筆

 をふるひ詞を盡さむ

 松島や鶴に身をかれほとゝきす

 「曾良」

ーー

 芭蕉翁奧の細道松島の文

 抑ことふりにたれと松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭

 西湖を恥す東南より海を入れ江の中三里浙江の潮を

 たたふ島々の數を盡して欹つものは天をゆひさし伏すものは

 波にはらはふあるは二重にかさなり三重にたたみて左にわかれ

 右につらなる負へるあり抱けるあり兒孫愛するか如松の

 みとりこまやかに枝葉汐風に吹たわめて屈曲をのつから

 ためたるかことし其氣色・然として美人の顏をよそほふ

 ちはやふる・のむかし大山すみのなせるわさにや造化の天工

 いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ

 本城兩足山廿三世無底叟靈應需書

ーー

 はるの夜の爪あかりなり瑞巖寺  古人乙二

 松島やここに寢よとよ花すみれ  曰人

 寢れは水のうちにありけり千松島 大坂催主鼎左

 松島や水無月もはや下りやみ   同江戸一具

ーー 

 吹きわたる千島の松にはるの風  由誓

 松島に□ころの□はなれけり   西馬

 こころややまとめて月の千松島  須賀川多代女

 さし汐に名をさへすこし扇谷   禾月

 松島やほのかに見出す秋の空   宗古

 月こそと思ふに雪の千松島    心阿

 松島やしまにかくれて殘る秋   舎用

 松島や□□□□をなく□□□   如雲

 嘉永四年辛亥彌生望建之

 寒山樵夫三余千常書

 嘉永四年(一八五一)三月十五日

 大年寺廿三世無底筆

 宮城郡松島町松島町内

 臨済宗妙心寺派・龍山瑞巖圓・禪寺

 兩足山=仙台市茂ヶ崎一丁目黄檗宗兩足山大年寺

ーー↓???・・・スベテ、ブログからの抜粋記事デス

 ・・・人物名と「数字」が「いと、おもしろし」なので、添付・・・

 鼎左=藤井氏 別号鳳棲舎・桃の本 師希淵の後を継ぎ

    花屋庵・大黒庵とも号

    備後に生まれ 大坂住

    明治二年(一八六九)没六十八歳

 一具=俗姓高橋氏 福島大円寺住職

    号夢南・十夢・一具庵

    山形楯岡の生まれ

    晩年江戸住

    乙二門

    嘉永六年(一八五三)十一月十七日

    没七十三歳

 由誓=豊嶋氏 

    通称久臧

    坎窩久臧と号

    為誰庵由誓

    成美門

    安政六年(一八五九)没七十一歳

    成美の家井筒屋の番頭

 西馬=上州高崎の人 養家先は左官職

    文政九年(一八二六)当時高崎住の逸淵に入門

    弘化三年(一八四六)江戸に出て

    新橋宗十郎町に惺庵を開く

    安政五年(一八五八)八月十五日没五十一歳

 多代女=晴霞庵 須賀川の生まれ

     雨考に導かれ

     道彦に入門

     道彦没後は乙二に学ぶ

     文化三年三十一歳で夫に死別

     文政六年江戸に出て

     福島大円寺住職で江戸在住の

     一具の許に止宿

     慶応元年(一八六五)八月八日没九十歳

ーーー↓


 こりずまの渡。・・・「懲り、凝り、古里、狐狸」妻のワタシ(私)

ーーー↓

 ・・・いと、をかし・・・

ーーーーー

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御陵・仁徳・・・認説く、みささぎ・・・

2013-05-06 20:09:03 | 古事記字源
こどもの日・・・ですか・・・「ゴゲツゴニチ=語解通語仁知」・・・「コイノボリ=乞い埜簿留」・・・柏餅(かしわもち・ハクヘイ)・・・「柏(かしわ・ハク・ポー)」=木+白・ブナ科の木→「かしわ(柏市にある常磐線・東武野田線の駅→柏駅・プロサッカークラブ→柏レイソル」・・・「餅(もち・ヘイ・ベイ)」=食+并(あわせる・ならぶ・ヒョウ・ヘイ)・・・「柏原」・・・幼稚園(保育園)の女性の先生の「姓」だったけれど・・・初恋のヒト・・・だった・・・
ーーーーー↓

 枕草子

 (一七段)

 山陵(みささぎ)は・・・視作差疑・視差詐欺(詐偽)

    み・さ-さぎ(御ササギ)→誤差詐偽・語作詐欺

                後作差義→悟差作魏

   おほ・さ-ざき(雀)→小+ノ+隹=スズメ

      隹→舊(ふるい・キュウ・グ)鳥=旧鳥

      舊=サ+隹(スイ)+臼(うす)

ーーーーーーーーーーーー

      ↓寿々面→「鈴目」は下部に裂け目。

      ↓すずめ 球の中に小さい玉を入れ

      ↓    振って音を立てる(鳴らす)もの

      ↓鈴の二つ穴「●-●」

      ↓   スズ(鈴)と、

      ↓   リン(禀?・稟?)→亠回示(禾)

      ↓   リン(禀)→音を回して示す

      ↓   リン(稟)→音を回す埜(の)キ(ギ)

      ↓      受ける・ヒン・リン

      ↓   リン=凛=凜→澟

      ↓   リン=廩(蔵)・懍(懼・怖)

      ↓   タク(鐸・サナキ=佐奈伎)、

      ↓   カネ(鐘)

      ↓   は形態が異なる。音を鳴らす

      ↓   錫(スズ)目=「金+易」の目→西

      ↓   西=酉の目→鳥の目

      ↓   錫=「銀+鉛」の合金

   良寛書      

   短冊は万葉仮名にて

   あき悲餘理世無者

     寿々面能者遠東可那

   秋日和  千 羽

     雀  の羽音 かな

          良寛

          宝暦八年十月二日

          1758年11月2日

          ~

          天保二年一月六日

          1831年2月18日

          出雲崎に生まれる

          曹洞宗の僧侶

          俗名

          山本栄蔵・文孝

          号は大愚

ーーー↓

   おほ・さ-ざき(鷦鷯)→焦+鳥・+鳥

     ・さ-ざき(鷦鷯)→隹+灬+鳥・大+日+小+鳥

     かさ-さぎ(鵲)→昔+鳥→廿(++)+日+鳥

     ・・-さぎ(鷺)→路+鳥→足+各+鳥

ーーー↓

 仁徳天皇

 (神功皇后摂政五十七年~仁徳天皇八十七年一月十六日)

 第十六代天皇

 在位・仁徳天皇元年一月三日~八十七年一月十六日)

 西暦394(313?)~西暦427年

 名は

 大雀命(おほさざきのみこと・「古事記」)

 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)

 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)

 聖帝(日本書紀)

 難波天皇(万葉集)

 墳墓

 百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)

 大仙(山)古墳

ーーー

    かささぎの 渡せる橋に

    おく霜の 白きを見れば

    夜ぞ更けにける

    中納言家持(六番)

    鵲はカラス科の鳥

    胸一面が真っ白であとは真っ黒

    カチカチと鳴くので、

    勝烏(かちがらす)、

    烏鵲(うじゃく)、

    喜鵲(きじゃく)の名もある

    --

    菅原道真の歌

    七月七日の七夕の夜「鵲の橋」

    彦星の

    行合を待つ

    かささぎのと

    渡る橋を

    われに

    か

    さなん

    --

    人形浄瑠璃

    近松門左衛門

    「曾根崎心中(道行)」

    梅田の橋を

    かささぎのはしと

    ちぎりていつ迄も我とそなたは女夫(めおと)星

    ---

     「泥棒カササギ・かささぎ(La gazza ladra)」は、

      ロッシーニが

      1817年

      三月ごろ着手し、

      同年

      五月頃に完成

      初演は

      五月三十一日

      ミラノ・スカラ座向けに

      三ヶ月という異例の期間を設けて

      作曲した

      オペラ・セミセリア

      演奏時間は

      約三時間半・・・60×3+30=210

      序曲九分、

      第一幕一時間四十分・・・100分

      第二幕一時間四十分・・・100分

      第一場の

      ニネッタとピッポの

      二重唱

      代官の

      アリア(アレグロ・ハ長調4分の3拍子)

ーーーー↓

    サンリョウ=山稜=尾根

    サンリョウ=纂漁・纂令

    サンリョウ=山領・産量・纂令

    やまのおか=邪馬之台・山都之陸・耶麻之緒掛

    みささぎ=陵墓・古陵・御陵

    

  陵「凌(りょう)」と通用→しのぐ・相手を踏みにじる

     陵駕(りょうが)・陵辱

   天皇陵

   皇室典範

  (昭和二十二年一月十六日

   法律

   第三号

   第二十七条

   天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所

 陵・・・「生而首上圩故因名曰 ㆑丘」

     「圩は平かにして中の少しくくぼみたる義」

 韓愈文・・・「某水某丘、吾童子時、所釣遊、陵也」

 韓 愈(カンユ)

 768年

 (大暦3年)

  ~

 824年

 (長慶4年)

 韓愈は、

 六朝以来の

 文章の主流であった

 四六駢儷文の修辞主義を批判

 秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱(古文復興運動)

 唐宋八大家の第一

 柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称

 3歳のとき父を、

 14歳のとき兄を失って兄嫁の

 鄭氏に養わた

 792年(貞元8年)に進士に及第

 監察御史、中書舎人、吏部侍郎(韓吏部)

 知京兆府事などの官を歴任

 818年(元和13年)

 30年に

 1度の

 ご開帳に供養すれば

 ご利益があるとして

 信仰を集めていた

 鳳翔(陝西省)法門寺の

 仏舎利が、

 長安の宮中に迎えられ、

 供養されることとなった。

 819年(元和14年)

 対して韓愈は、

 『論仏骨表』を

 憲宗に奉って極諌

 崇仏の憲宗の逆鱗に触れ、

 潮州(広東省)刺史に左遷

 820年

 憲宗が死去

 穆宗が即位

 再び召されて

 国子祭酒に任じられた

 後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任

 824年に死去

 礼部尚書を追贈

 「某水某」

 陵は

 「爾雅、釋地」に、大阜を陵といふ、山の 漸次 ぜんじ に低くなりて登り易きものをいふ

 「書、堯」

 丘は四方高く中央下ヒクきをいふ、

 孔子の諱を丘といふ。

 家語「生而首上圩故因名曰㆑丘」とあり、

 「圩は平かにして中の少しくくぼみたる義」

ーー

 「博雅」には、「小陵を丘」

ーー↓

 博雅

 源 博雅(みなもと の ひろまさ)

 延喜18年(918年)

  ~

 天元3年9月28日(980年11月8日)

 醍醐天皇の孫

 兵部卿

 克明親王の長男

 官位は従三位・皇后宮権大夫

 博雅三位(はくがのさんみ)、長秋卿と呼ばれる

 管弦の名手

 小陵を丘といふ

 韓愈文・・・「某水某丘、吾童子時、所㆓釣遊㆒也」

 岡は「說文」に「山脊」

 「崗」は俗字

 阜は

 「爾雅釋地」に、

 「大陸を阜」

 「說文」に、

 「山の石無きもの」

 「釋名」に、

 「土山を阜、高原」

 詩

 「小雅」に

 「如㆑山如㆑阜」

 陵は

 「爾雅、釋地」に、

 「大阜を陵」

 「山の漸次(ぜんじ)に低くなりて登り易きもの」

 「堯典」

 「蕩蕩懷㆑山襄㆑陵」

ーー↓枕草子

 うぐひすの陵(みささぎ)。・・・鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)は、奈良県奈良市雑司町に所在する古墳時代中期の前方後円墳。景勝地である若草山の山頂に所在。

ーー↓

 1733年

 (享保十三年)

 墳丘上に「鶯陵」の顕彰碑が建てられている

 当時は

 仁徳天皇皇后磐之姫命の陵との考えられていたらしい。

 明治

 八木奘三郎によって

 前方後円墳であることが発表

 浜田耕作によって埴輪が採集された

 1936年

 (昭和十一年)に国の史跡に指定

 全長は103メートル、

 前方部幅

 約50メートル

 後円部径

 61メートルの

 二段築成の前方後円墳

 外部に葺石と埴輪をめぐらす

 前方部から

 仿製内行花文鏡が出土

 滑石製斧形石製品

 舟形埴輪、家形埴輪(切妻屋根家屋)が採集

ーー↓枕草子

 柏原の陵。・・・桓武天皇が宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出された改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵 (かしわばらのみささぎ)が営まれた

ーー↓桓武天皇

 天平九年

 (737年)

  ~

 延暦二十五年三月十七日

 (806年4月9日)

 第五十代天皇

 在位

 天応元年四月三日

 (781年4月30日)

 延暦二十五年三月十七日

 (806年4月9日)

 平安宮正寝柏原大輔

 陵所 柏原陵

 御名 山部

 異称 柏原帝

 日本根子皇統弥照尊

 天國押撥御宇柏原天皇

 父親 光仁天皇

 母親 高野新笠

 皇后 藤原乙牟漏

 夫人 藤原旅子

 藤原吉子

 多冶比真宗

 藤原小

ーー↓枕草子

 あめの陵。・・・不明・・・高天原の岩戸・・・だろう・・・

      長安を都とし天津橋を架けた・・・煬帝(ヨウダイ)の御陵・・・「雷塘」=「雨+田+土+唐」・・・である

ーーーー↓煬帝

      隋朝の

      第二代皇帝

      在位

      604年八月二十一日

      ~

      618年四月十一日

      年号 大業

      煬帝は唐王朝による追謚

      王朝 隋

      姓・諱 楊広

      諡号 明皇帝

      煬皇帝

      廟号 世祖

      生年569年

      没年618年4月11日

      父 楊堅(第二子)

      母 独孤伽羅皇后

      皇后 蕭皇后

      陵墓 雷塘

ーーーーーー↓

      煬帝の墓

      江蘇省

      揚州市

      邗江区

      西湖鎮司徒村

      曹荘で出土・・・?

ーーーーーー↓雷塘

      雷塘と同名人物

      阮元の号名

      揚州の人

      乾隆二九年(1764)生

      出身地は儀徴(江蘇省)

      二六歳(1789)

      科挙に合格し進士

      字は伯元

      号は芸臺(ウンダイ)

      雷塘盦主(ライトウアンシュ)

      頤性老人(イセイロウジン)・・・頤=臣(?)+頁

               「姫」の旧字体は「姬」

               「姫」と「姬」→煕→「康熙字典」

               「姫」の音は「シン?」、「姬」の音は「キ」

               「姫=女+臣(目)」で

           旧字体は「姬=女+匚+中?(-口-・顎・あご)」

      頤(イ・おとがい・あご)・・・音貝・下顎・顎

                  ・・・減らず口・お喋り・屁理屈

       熟語は「朶頤(ダイ)・解頤(カイイ)・頷頤(ガンイ)」

          「頤指(イシ)・頤養(イヨウ)」

      姫と姬は「目」と「口顎」が交換されたカンジである・・・

 「昭和二十一年

  11月5日、国語審議会の当用漢字表答申

  旧字の「姬」が収録

  11月16日に内閣告示の当用漢字表

  旧字の「姬」が収録

  昭和二十二年

  9月29日に国語審議会答申当用漢字音訓表

  新字の「姫」に「ひめ」という訓

  新字の「姫」なのに「シン」とヨムとは・・・では、この字「姫」は元々あった「漢字」なのか?・・・旧字の「姬」は「イ・キ」の音ヨミと大修館漢和辞典にあるのだが・・・別字で・・・元々「周民族の姓」であり、「新字の姫」は「つつしむ」意味とあるが「音読み」が記されていない・・・あれば、「姫」の「音」は「シン」・・・?・・・「姬(周国の黄帝の姓)姜(斉国の炎帝の姓)」で、「姬姜(キキョウ)」とは「美女のコト」であるらしい・・・黄帝と炎帝の血縁は美人多いらしいが・・・漢代に「神農」と「炎帝」が同一視され、西晋代には西周以前に漢水流域の農耕部族、「歴山」氏と同一視されるようになった。

 「国語」に、

 炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子

 姜水で生まれた炎帝が姜姓を

 姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗った

 炎帝は

 紀元前2740年ころの・・・弐千七百四拾

               2+7+4+0=13

 古代中国の王で

 120歳まで生きた

 炎帝は神農氏の連盟の跡に

 古代中国を治めたの名前ともなり、

 その首領は「炎帝」と呼ばれた。

 最後の「炎帝」は「黄帝」と連合して

 「華夏(カカ)族」を形成した。

ーーー↓

 湯島聖堂・神農廟(東京都文京区湯島)

 毎年11月23日「神農祭」

 薬祖神社(大阪府堺市戎之町)堺天神菅原神社

 「少彦名命」とともに祀られ

 毎年11月23日「薬祖祭」

 少彦名神社(大阪市中央区)

 「少彦名命」とともに奉られ

 毎年11月二十二日・二十三日「神農祭」

 が行われる。

 「神農・神農皇帝」の名称で

 「的屋」の守護神

 「博徒」の「任侠道」に

 相当するモラルを「神農道」とする・・・らしい・・・

ーーーーーー↓煬帝

     591年

      天台智より菩薩戒と

     「總持」の法名(居士号)を授かり、

      智に対しては「智者」の号を下賜

      楊広の生母の独孤伽羅は

      一夫一婦意識が強い鮮卑出身

      腹心の

      楊素と

      張衡らに

      文帝へ讒言させ

      長男の楊勇を廃させ、皇太子になった

      張衡は八年後に誅殺された

      六百十八年

      江都で煬帝は

      近衛兵を率いた

      宇文化及

      宇文智及兄弟や

      裴虔通らによって、

      末子の

      趙王楊杲(13歳)と共に

      50歳で殺害された

      遣隋使は、煬帝在位中には第2回も含めて計4回派遣

      日本という名称は、

      702年(大宝二年)の

      第八回遣唐使の時に

     「日本側」から、使用されたもの・・・?・・・であるらしい・・・

ーーーーー

 ・・・いと、をかし・・・ミササギと数字・・・陵墓 雷塘=雨+田+十+一+广+聿(彐十→聿はイツ・イチ筆)+口・・・

コメント
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前回の「修正追加追伸」・・・ゴメン・・・コツジキ・・・

2013-05-05 20:06:43 | 古事記字源
 前回の「修正追加追伸」・・・暇だったら、再度、オヨミください・・・明治の「文の明、文の化」、「文明の開化」・・・「文の明」の「カイカ・カイか」→「解・歌意・界・買・貝・魁・会・改・蟹・繪・楷・桧・届・戎・堺・芥・絵・街・介・灰・偕・械・晦・潰・拐・懐・皆・檜・諧・恢・悔・廻・壊・塊・隗・誡・怪・下意・櫂・階・戒・飼い・快・回・下位・海・甲斐・Χ(ギリシャ語のカイ)・蝦夷」化・・・「化異化・化烏賊・掛意仮」・・・「開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇七年~開化天皇六十年四月九日)は、「古事記」、「日本書紀」に記される第九代天皇(在位孝元天皇五十七年十一月十二日~開化天皇六十年四月九日)・稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと)・若倭根子日子大毘々命(古事記)・・・「開化天皇」・・・鳥居のない「調神社」を創建したらしい・・・
ーーー↓ブログ記事を調べてみると・・・

  調神社

  浦和駅の南西約五百米、旧中仙道東側に鎮座。旧県社で御祭神は天照皇大神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祀る。社名を調(つき)神社。地元では「つきのみやさま」と愛称されている。 『調宮縁起』によれば、第十代崇神天皇の勅命により創建

 両脇には狛兎。 調神社(つきじんじゃ) は、埼玉県さいたま市浦和区にある神社。式内社で、旧社格は県 ... また「ツキ」を「月」にかけたことによる月待信仰が古来よりあり、狛犬ならぬコマウサギがいる神社として有名である。

 社名を調(つき)神社と云い、地元では「つきのみや」と愛称されています。鳥居のない神社として有名で、狛犬ではなく兎が置かれているのも全国的に珍しいものです。 <御祭神> 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 豊宇気毘賣神(とようけひめのかみ) ...兎スポット「調神社」

 調神社について. 埼玉県の浦和にある兎好きには有名な神社の一つです。「つきじんじゃ」と読みます。「つきのみや」と云う呼び名で親しまれてもいます。 調神社: 境内入り口を大きな画像で見る · 社殿を大きな画像で見る · 朱印を大きな画像で ...調神社 (さいたま市)

 京浜東北線浦和駅の南700mほどの岸町に鎮座。 調宮(つきのみや)とも称される神社 で、 調(つき)の名称から月待信仰・二十三夜と関連され月の宮、月待の宮、月読大明神とも呼ばれ、 また、月のウサギを愛する神と考

 武蔵国延喜式内社:調神社神社名:調神社(つきじんじゃ) 祭 神:天照皇大神 豊宇気姫命 素戔鳴尊鎮座地:埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25 御朱印:あり由緒書:あり. さいたま市浦和区調神社御朱印 さいたま市浦和区調神社由緒書

 「調神社」とは - 概要 旧社格 県社、式内社 御祭神 天照皇大神、豊宇気姫命、素戔嗚尊 御利益 幸運を授かる、必勝祈願、月待信仰 地元では「つきのみやさま」と愛称されている。 『調宮縁起』によれば、第十代祟神...

 浦和にあります調(つき)神社のご案内です。この神社はウサギづくしの神社でも知られています。

ーーー↓

 開化天皇

 「ヤマトネコ」という称号は

   七代孝霊

   八代孝元

   九代開化

 二十二代清寧

 (「古事記」)

 「持統・文武・元明・元正」天皇の「記紀・続日本紀」の称号に記録されている。

ーーー↓ネコ・猫・音呼・寝拠

   にゃんこ→姑娘(gūniang)→娘娘→niangniang?

   ・・・「姑+娘=若い娘・お嬢さん」が何で「姑=女+古」なんだろう?・・・「女(むすめ)が古くなっていく」・・・あるいは「女(くの一)の十(拾=ひろう)の口(くち or くに)」・・・「姑=女(おんな・音納)+古(ふるい・振意)」だからであろう・・・「那位(Nèi)=部分同義関係、完全同義関係の代名詞で、やつ,奴,彼の方,あの方,あちら,彼方,彼奴,あちら様,彼方様」は、同義として「姑娘・小姐(xiǎojie)」を兼ねるコトバの「漢字音」であるらしいが、「代名詞」の意味内容は状況によるのだろう・・・「那」=那は奈何の合字なり、「なんで・如何(いかん)・どうして」と訳(譯)すらしい・・・

 「鴻雁、那、從北、地來=鴻雁(鴈・かり・ガン)、どうして北から来たのか」・・・初唐の「王勃」の漢詩・・・「那+位」・・・

   蜀中九日

   九月・九日・望卿・臺

   他席・他卿・送客・杯

   人情・已厭・南中・苦

   鴻雁・那從・北地・來   

 王勃

 648年

 (貞觀二十二年)

 ~

 675年

 (上元二年)

 字は子安

 絳州の龍門(山西省河津市)の人

 諸王の

 闘鶏を難じた檄文を作り

 剣南(四川省・劍南道北部)に左遷

 後、罪を犯した官の奴隷を

 匿いきれなくて殺し、父と共に左遷

 王勃は父を訪ねる途中、

 南海を航行する

 船から転落して

 溺死した

 二十七(二十八、二十九)歳?

 「位」は「くらい・イ」で、階級、序列レベルである・・・ボクが考えれば、「那+位」→「冄(冉・ゼン・ネン・垂れヒゲ)+阝+イ+立」で、「髭(ひげ)・髯・鬚」が「邑・村・里・国」の「人部務(にんべん)」に「立つ」である。「那位(ナイ)」は「ヒゲの地方長官の位」である。垂れヒゲは「伊藤博文」だろう・・・

 イザナミ(伊邪那美・伊弉冉・伊弉弥・黄泉津大神・道敷大神)

 イザナギ(伊邪那岐・伊弉諾)

 の「黄泉津(よもつ)大神」の「黄泉」は「よみ」と訓む・・・「道敷大神(ちしきのおおかみ)」の「道敷」は「みちしく・ドウフ」だろう・・・「伊=イ(人)+尹(イン・おさ・ただす→次官・匠・監督)」である。

 大修館漢和辞典では、ページの「-888-中段」にはワラッチャウケレド、「那=冄(ゼン・ネン)+阝(邑・ユウ)=(ダ・ナ・とも・ふゆ・やす・おおい・なに・おいて・あれ・あの・やすらか)」であるらしく、「旦那(だんな)」、「那落=奈落」、「那邊(辺)=奈邊(辺)」、「那波活所(1595~1648)」の「那」で、「那は俗字」であるらしい。「イカス・トコロ」は「那覇(なは)」は「沖縄・琉球」である、ナッ。「ページ(頁)-108-」には「冉(ひげ・髭)」の源字が「冄」とあり、「冄=冉」は「毛の垂れるさま、柔らかな、弱い、ゆく・すすむ・侵す」という意味が記されてある。「冉求(子有)・冉伯牛(耕)・冉雍(仲弓)」は「魯国の出身」で「孔子の門人」の名前である。

 「説文解字」では「冉」の本字は「冄」で「説文・巻九」に「毛の冄冄たるなり」、「玉篇」では「冉」を本字としているらしい・・・

 「字形は何かが垂れるさまの象形。飾り紐、頬髭(髯の初文)などが垂れるさま」である。

 「那」の類字の「挪(ダ・ナ・とっぱらう・ずらす・うつす)→・梛(ダ・ナ・なぎ・マキ科の常緑高木・力柴・竹柏)」→「熊野神社の神木。その葉が切れにくいことから、男女間の縁が切れないように、女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があった」らしい。「梛」は「椰(やし・椰子)」にも類似する・・・「香具師(やし・カグシ→掛具詞)」はサクラか、山師(やまし)、野史(やし)、薬の行商(薬の行商の元祖 弥四郎の名前とする説)、のぶし(野武士)の野師(やし)、贋(ガン)、詐偽(サギ・詐欺)かも・・・薬を売って設けていたのは「本居宣長」だろう・・・「弥四郎」、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵、自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)・・・ナニが「コジキデン」なんだか・・・「宝暦十三年(1763年)五月二十五日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪したカモの真淵に初見した・・・小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した・・・?」・・・何処を「診察」したんだか・・・「たまくしげ」・・・

ーーー↓玉匣(たまくしげ)=枕詞

 箱根の

 みうみ

 けけれ・・・「心」ではナイ→「化蹴・仮例・懸家例」である

 あれや

 二国(ふたくに)

 かけて

 なかに

 たゆたふ

 (金槐集 雑・源実朝)

 「箱根のみうみ」の「みうみ」は「水の芦(あし)の湖」

 「けけれ」は「心」の「上代東国方言」らしいが・・・「解釈の立場」は幕末、明治の「ラン学者」である・・・「ケ・ケ・レ」の同音漢字のスベテである・・・カナ・・・

 たま-くしげ・・・クシゲ=句詞解

 玉櫛笥

 玉匣・・・匣=匚(はこ・ホウ)+甲(キのエ・コウ)

 櫛(くし)などの化粧道具の箱

 「たま」は「接頭語」ではない・・・「ニャンコ」か「浦島太郎の玉(タマ)の手箱」である・・・「タ・マ」の同音異字漢字のスベテである・・・

 「歌語」は「カゴ=化語・掛語・卦語」である・・・

 たま-くしげ

 玉櫛笥・玉匣・・・「枕詞」→「枕草子」

 「くしげ」を開けることから「あく」に、

 「くしげ」には「ふた=蓋=亠」があることから

 「二(ふた)」「二上山」「二見」に、

 「ふた」をして覆うことから「覆ふ」に、

 「(中)身→ナカミ」があることから、

 「三諸(みもろ・みむろ・三室戸(みむろと)」に、

 箱であることから「箱」などにカカル・・・「箱=竹(たけ・チク)+相(あい・ソウ・ショウ→木目→十八目→おハコ)」である・・・

ーーー↓

 ボクは「本居宣長」本人を非難、批判しているワケではない・・・彼を「利用した奴」である・・・

ーーー↓娘娘(niangniang)のツヅキ・・・

 「嬢=女+襄=女+亠+ハ(口口)+甘(廿一)+衣」=「孃(むすめ・ジョウ・ニョウ)=女+襄(ショウ・ジョウ)」も「娘」と異字同義であるらしいが「爺嬢=耶嬢」が「父母」とある。ならば「文字道理」ならば「爺・耶」=「父」で、「嬢」が「母」なのか?・・・日本語の道理ならば、ジジは祖父と孫娘・・・だが、時事、尊攘・・・

ーーー↓襄(のぼる・あがる・たすける・はらう・成す・する)

   六(亠ハ・亠口口)+甘(廿一)+衣・・・「亠+巽」?

  新島襄(Joseph Hardy Neesima)

  天保十四年一月十四日(1843年2月12日)

  ~

  明治二十三年(1890年)一月二十三日)

  本名

  七五三太(しめた)

  改名

  敬幹(けいかん)

  元治元年(1864年)

  「快風丸」に乗って開港地の箱館へ

  箱館潜伏中、ロシア領事館付の司祭

  ニコライ・カサートキンと会う

  カサートキンに

  日本語と

  日本の書物(古事記)などを教える

  七五三太のアメリカ行きに

  カサートキンは

  坂本龍馬の従兄弟である

  沢辺琢磨や

  福士卯之吉と

  共に

  密航を協力

  箱館港から米船ベルリン号で出国

  上海で

  ワイルド・ローヴァー号に乗り換え

  船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれてた

  以後、「譲」のちに「襄」と名乗った

  慶応元年(1865年)

  七月

  ボストン到着

  ワイルド・ローヴァー号の船主

  A.ハーディー夫妻の援助を受け

  フィリップス・アカデミーに入学

  出身校

  アマースト大学

  アンドーヴァー神学校

  同志社英学校設立(同志社大学)

  福澤諭吉等の

  明治

  六大教育家の一人

  「宋襄之仁」

  無益な哀れみをかけること

  愚かな情けのタトエ(例・譬・喩・仮令・諺)

  不必要に情けをかけ自分が痛い目に遭うこと

  「宋襄」は中国春秋時代の宋国の王襄公

  「仁」は情け

 ・・・なるほど、「八重さんの夫の立場」かも・・・

 兎(ト・うさぎ)に角(カク・つの・かど)、「ニャンコ」で・・・「吾(我)輩は猫」でアルカナ・・・「にゃんこ=似病む呼・二夜夢呼」・・・

 夏目漱石の「夢十夜」の「第二夜・こんな夢を見た」である・・・

ーーー↓部分抜粋の添付

 ・・・和尚(おしょう)の・・・襖(ふすま)の画(え)は蕪村(ぶそん)の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近(おちこち)とかいて、寒(さ)むそうな漁夫が笠(かさ)を傾(かたぶ)けて土手の上を通る。

 ・・・床(とこ)には海中文殊(かいちゅうもんじゅ)の軸(じく)が懸(かか)っている隣の広間の床に据(す)えてある置時計が次の刻(とき)を打つまでには、きっと悟って見せる。

 ・・・懸物(かけもの)が見える。行灯が見える。畳(たたみ)が見える。和尚の薬缶頭(やかんあたま)がありありと見える。鰐口(わにぐち)を開(あ)いて嘲笑(あざわら)った声まで聞える。怪(け)しからん坊主だ。

 ・・・ただ好加減(いいかげん)に坐っていたようである。ところへ忽然(こつぜん)隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。

 はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。

 時計が二つ目をチーンと打った」

  ↓ねこ 

ーーー

 孝元天皇の

 第二子

 母は

 欝色雄命の妹

 欝色謎命(うつしこめのみこと)

 皇后

 伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、

 物部氏の祖

 大綜麻杵の女

 もと

 孝元天皇の妃、

 彦太忍信命の母

 第二皇子

 御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと、崇神天皇)

 皇女

 御真津比売命(みまつひめのみこと、観松姫命)

 妃

 丹波竹野媛(たにわのたかのひめ。丹波大県主由碁理の女)

 第一皇子

 彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)

 妃

 姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命。和珥氏の祖・姥津命の妹)

 第三皇子

 彦坐王(ひこいますのみこ。景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父)

 妃

 鸇比売(わしひめ。葛城垂見宿禰の女)

 皇子

 建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ、武豊葉列別命・武歯頬命)

 『帝王編年記』、『本朝皇胤紹運録』など

 中世編纂の史書には、

 以上の后妃のうち

 鸇比売の記録なし

 吉備津彦命の女

 包媛(色媛?)が記録されている

 都

 春日率川宮(かすがのいざかわのみや)

 奈良県奈良市本子守町の率川神社が伝承地

 「古事記」は「春日之伊邪河宮」とされている

 事績の記載が記録されていない

 孝元天皇二十二年正月に立太子

 孝元天皇五十七年十一月に即位

 在位

 六十年で崩御

 「古事記」は

 六十三歳

 「日本書紀」は

 百十五歳

 (百十一歳?)

 陵墓

 春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)

 「古事記」は

 伊邪河之坂上

 奈良県奈良市油阪町の

 念仏寺山古墳(前方後円墳・全長約100m)に比定

ーーーーー 

 明治

 「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」・・・って、散切り頭とは、ちょんまげ(丁髷)を切り洋風の散髪にした男子の髪型のことで、明治に入り西洋人の真似をした髪型のため、文明開化の象徴であった。

 ・・・「纂説理、等を多々意出、視例葉、文名改化の音がスル」・・・

 不平等条約を改正を求めに行った岩倉使節団が、アメリカで「頭にピストルを載せた野蛮人」と云われた・・・

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 「岩倉使節団(いわくらしせつだん)」

 1871年12月23日

 明治四年十一月十二日

   ~

 1873年9月13日

 明治六年まで、

 日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣した大使節団

 岩倉具視を正使

 政府首脳陣や留学生を含む

 総勢

 107名

 岩倉は髷と和服という姿で渡航

 アメリカに留学していた子の

 岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、

 シカゴで断髪。以後は洋装

 目的は

 1872年七月一日(明治五年六月二十六日)

 欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期で

 明治政府は

 不平等条約の改正を図った

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 文明開化

 「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」

  散切物と呼ばれる歌舞伎芸能の新形態発生

 「仮名垣魯文」の

 「安愚楽鍋」にある

 「牛鍋食わぬは開化不進奴」

 1871年(明治四年)八月九日

 明治政府は

 太政官布告を以て丁髷(ちょんまげ)を落とすことを認めた

 「散切り頭のお嬢さん 急ぎ足でどこへ行く さらば末世の手見上げは赤い花柄のかんざしで. 西洋かぶれのお兄さんハットでめかしどこへ行く されど末世の置き土産、和装姿には似合わず」

 「はいからさん」

 「散切頭(ざんぎりあたま)をたたいてみれば文明開化の音がする」

 「散髪脱刀勝ってたるべし」と布告

 ・・・洋行・・・海路・・・海外派遣である・・・「うみ・ウミ」の苦しみである・・・

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 枕草子

(一六段)

 海は

 水うみ。・・・・・ミズウミ→視ずウミ・瑞ウミ・密ウミ

               満ウミ・充ウミ・御津ウミ

               褌(ふんどし・ネ+軍)ウミ

           (産み・生み・膿・宇美・倦み・熟み・績み)

 與謝の海。・・・・京都府北部の宮津湾奥にある阿蘇海(あそかい)

 かはぐちの海。・・埼玉県南東部の市・江戸時代から鋳物(いもの)工業

          川の水が海や湖に流れ込む所。川じり。河口

          河口(かはぐち) 河海の喉口にして両所あり。

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          一は安治川といふ。大川肪・土佐堀・蜆川等の下流なり。

          一は木津川といふ。

 長堀・道頓堀、および西の方諸流ここに帰会す。諸国の廻船ここにつどひて碇石を卸し、これより行李船三枚船を以て五穀雑貨を問屋へ運送す。

 千石二千石の大船水上に町に路を作りたるごとく、桅竿は北斗を指さし上下は欄紋をもって自在し、舳首には船の名・家々の紋付けてその国々をしらせ、風威の順不順・潮時の満干を考へて出帆あり着船あり、両河口共に官家の監船所ありて海舶の出入を改めらる。

 そもそも初春の乗初より晩船の甲乙あるは新艘の船おろしの祝ひまでもみな両河口の賑ひなり。その連船の中を尖頭舟漕ぎつれ漕ぎつれ酒肴麺類野菜の物までも売りありく、その声喧し。

 また、その船に遊女・土妓を乗せて三弦をかしく弾かせ何やら声を発て喚くあり。これを土俗伽遺船といふ。むかしの川末の江口なり。

難波津大湊となれるはこの河口の泊船の連なるにてしらるべし

 川口(かわぐち) 木津川・安治川両流の分岐点に位置したことから川口と呼ばれる。

 元和六年(1620)に幕府の川口御舟手とともに、徳川水軍の東西二大鎮守府になっていた。

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  ブログ記事の

 ”「摂津名所図会」は寛政8年から10年(1796~98)に刊行された摂津国の観光案内書です。”

 からの抜粋添付デス・・・断りも無く、ゴメン・・・

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 伊勢の海。・・・・伊勢湾・伊勢志摩鳥羽、愛知

ーーー↓ウイッキペデアから抜粋デス

 江戸時代から続く伝統を持つ部屋であったが、大正末期には衰退していた。

 尾車部屋分裂の際には、当時の師匠であった柏戸宗五郎が、関脇・三杉磯と彼に従っていた弟子たちを伊勢ノ海部屋に預かっていたが、1929年(昭和4年)に三杉磯が引退して花籠部屋を興したため、本家の伊勢ノ海部屋から所属力士が一気に抜ける事態となってしまった。

 その後、

 1933年(昭和八年)1月場所限りで幕内・雷山を始めとする弟子たちを錦島部屋に預ける形で、伊勢ノ海部屋は消滅した。

 その後、春日山部屋の幕内・藤ノ川が独立を志し、

 1942年(昭和十七年)五月場所から柏戸と改名して、伊勢ノ海親方と共に伊勢ノ海部屋を再興した。しかし、伊勢ノ海親方が1946年8月に亡くなったため、柏戸たちは再び錦島部屋に所属した。柏戸は1949年1月に引退して10代伊勢ノ海として伊勢ノ海部屋を継承し、横綱・柏戸や関脇・藤ノ川といった関取を育て上げた。

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 ・・・うみ、いと、をかし・・・マクラのソウシ、ジテン・・・

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