・・・アメがシトシト・・・「米・カリフォルニア州で犬に襲われた子どもが猫(タラちゃん)に救われる」の「動画ニュース」・・・「家族自衛権の行使」は当然だとは思うけれど・・・「集団自衛権」・・・第二次世界大戦で「敵国の捕虜を載せた日本の船」が敵国のアメリカに撃沈された・・・当時のアメリカは「連合国の米国、英国、阿蘭陀の味方の捕虜が乗っていた日本の船」を撃沈した・・・自国の軍隊は「自国民の命」を護らない。「国家」を護るのである。「国家」と「国民」は異なるのだ。「日本(国)憲法下の自衛隊」は「自国民」を護るのだ。自衛隊は「軍隊」ではない。すると「日米安保条約」自体が「軍事同盟」であるならば、「軍事同盟」は「日本国憲法違反」である。日本には「軍隊」が存在しないから「軍事同盟」ではない・・・単なる「安全保障条約(アメリカ軍が一方的に日本を護る約束)」である。現実的にはアメリカ軍は日本の「用心棒=傭兵」である。「用心棒」は「自分自身の利害(カネ)」で動くから「トモダチ」ではない。そして、「二股の裏切り者」で、「雇用関係の契約者」であるが契約の反故は前提の流れ者である。「七人の侍」も「村落農民」との「雇用関係」であった。契約は守ったが、生き残ったのは3人・・・いずれも「武士」と言う「浪人」だが・・・存在は「野党」と同類である・・・
「アメリカ軍」自体も「自国民」を護っているワケではない。「アメリカ階級国家」が雇った「傭兵」である。
もちろん、「大陸中国の軍隊」は「人民解放軍」ではない。「軍事官僚の私兵」である。
ヴェトナム戦争後のハリウッド映画は「アメリカ軍隊」を「愛国心とエゴとの葛藤」、「軍隊組織の軍事官僚の兵卒の私物化」、「軍事情報機関(CIA・NSA)官僚のスパイの私物化」、「アメリカ合衆国政府高官の行政政策の私物化」に対する告発モノがワンサカと作られている。多分に実際の現実を反映しているのだろ・・・
今日(5/18)も昼の2時にはTVで「大いなる陰謀(Lions for Lambs)」を放映していた。2007年のアメリカ映画で「ロバート・レッドフォード監督・製作・主演。トム・クルーズとポーラ・ワグナーが経営に就いて以来最初のユナイテッド・アーティスツ作品」であるらしい・・・「子羊のためのライオン」・・・「子羊は愚鈍な軍事司令官」、「ライオンは勇者な兵卒」であるらしい。ブログ記事には第一次世界大戦で果敢に闘った「ドイツ兵=ライオン」、 安全なところにいてただ指示を出す司令官の犠牲となった「イギリス兵=羊」の例え、ともあった・・・「羊(Lambs)」は「迷える子羊」、「獅子(Lions)」は「王、権力者、指導者、キリスト」でもあるから、微妙である。「子羊」は「家畜=食糧」でもあるから・・・いずれは「喰われる存在」である・・・「子羊(Lambs)」は臆病な動物で従順、神に生贄(燔祭)とされる動物で、「キリスト」は「神の小羊=(the Lamb of God)」ともよばれるから、ここでの「Lions」は「神=God」である。それに渦巻き状の角の「羊(ひつじ・sheep)」は、円錐状の角の「山羊(やぎ・goat)」とは異なる。比べれば「sheep」よりも「goat」の方が主体的で判断力に於いても賢いらしい。元々、山羊類は険しい高山の岩山に生息する動物である。
「goat→God」のスペルと発音があやしい。神と悪魔が重なっている。新約聖書(マタイによる福音書)では、ヤギを悪しきものの象徴。ヤギは悪魔の象徴だが、ギリシャ神話の「パン(バッカス・ディオニュソス=ヤギの下半身とツノをもつ半獣神・牧神、牧羊神・酒の神)」で、「バフォメット(ヤギの頭と下半身、女性の体、カラスまたはコウモリの翼をもつ悪魔)」や、エジプト神話の「山羊神」としての「アモン=Amon, Aamon」、ヨーロッパでの悪魔序列七番の大侯爵で、召喚した者に過去と未来の知識を教え、人同士の不和を招いたり逆に和解させたりできる悪魔であった。イタリア語「アモレ(Amore)」は愛、「アマイモン」の名前はギリシア語の「熱望」に由来・・・恋愛のテクニックには酒とスイート、魔術が必要であるらしい。
西洋では12世紀以降、4から6週の子ヤギの革が、「羊皮紙」の原料として「ヒツジ革」と競合した。写本にされた皮である・・・長崎県西岸や五島列島で昔から飼育されていたものから「シバ山羊」は、「キリシタン」と呼ばれた集落で飼われ、隠れキリシタンの貴重な食料源となっていた・・・尖閣諸島では「ノヤギ」が明治時代に持ち込まれ繁殖、生息している島のアルジである。
・・・それに羊飼いには「イヌ(dog)」も絡んでくる・・・「阿蘇の比神社」、「白山比神社」の「(め・ビ・ミ)」は「口+羊」である。「比売神(ひめ・比売大神)=比(ひめ)神=姫(ひめ)大神」である。聖母マリアは「未艶(ミエン)」で、「未だ艶(なまめか)ならず」であった・・・羊の鳴き声は「メェ~」・・・
で、映画の展開を見る限り、「Lions for Lambs」は「危険に無自覚な奴らの指導者(Lions)」と言うよりも「自己保身的な教授(先生・指導者)の倫理的、心理的な葛藤、迷い」と「ワカモノ(ばかもの・生徒)の選択の迷い」なんだろう・・・「政治家と女ジャーナリスト」、「アフガン攻略の軍事指揮官と兵士」の迷いも含めて・・・
ラム (lamb)=子羊、その肉や毛
ラム (rum)=ラム酒
ラム (rump)=牛の尻肉・ランプ
ラム (ram)=雄羊、白羊宮・突き立てるもの・圧縮するもの
ラム (ram)=軍艦の先端に取り付けられる突進用兵装・衝角
ラム (ram)=超音速飛行用エンジン
ラム (機械)=加工機械・水圧機などの往復運動部
ーーーーー
・・・「集団自衛権」があっても「日本国民の命」が護られるとは限らない・・・「集団自衛権」は「同盟国家」と「敵対国家」との戦争である。だが、個別的自衛権であろうが、集団的自衛権であろうが、戦争では「勝った者」が「生き残る」のではなく、国家間の戦争では「生き残った者」だけが「生き残る」のである。「国民の命?」ではなく、「階級国家の延命?」を護りたい・・・市民社会での「個人の正当防衛」は「相手に殺されないコト」が前提であるが、すでに「殺されて」からでは後の祭りである。仇は「警察」がとってくれるのか、そして「裁判官」か・・・戦争で「殺されない国民」とはダレのコトを云っているんだろう・・・片棒を担がなくても、担いでも「戦争」は「個々人の命」を保障してくれるモノはない。
個々人の「覚悟」だけが「生きるコトの可能性」を保障する。「覚悟」とは自分自身が理不尽な中で「殺すカモ、殺されるカモの存在」であるとの「自覚」である・・・「人間」の歴史は「理不尽な殺す、殺される存在」であるコトからの「解放」を目指してきたのだ。「解放」とは「人間」としての存在を自らの「意識」として「克ち取る・克ち取ってきた」と云う事である・・・その克ち取って来たモノが「日本(国)人の憲法の思想(意識)」というものだ。だが、未だ「ベキもの」である。
コレを「護」って「拡散」させるのさ。だが、「スコラ論議」も「法」も、撃たれてからでは「命の保障」はない。「問答無用の相手」に殺されるカモしれない情況では自分の命、家族、友人の命を保障できるのは先制攻撃、あるいは反撃としての「暴力行使、実力行使」のみである。モチロン、逃げるコトも・・・だが、相手次第である・・・「縄張り拡張、問答無用の外寇・我意寇・害国寇の暴力団組織」が存在し、連続的に、波状的に襲ってくる限り、「日本(国)憲法」を「世界に布武」である・・・「武=戈+止」とは
「戈=ほこ・鉾・鋒・矛)」で(を)、
「止=制止・危険をくい止める・抑制
押止める・押さえる・塞きとめる・阻止
終わらせる・やめる」
・・・未だに「戦国時代」から「お変わりなしの人間意識の根幹」に巣食っているモノは交易であろうが略奪であろうが「とみ・カネ」の渇望と、結果の「不公平分配(私有欲)のコモンセンス」である・・・「権力・暴力」はそれでウゴキ、ウゴメク・・・
危険は蔓延しているのに、何時とは云わないが、ロケットも落ちる、ボタンも押される、引き鉄も曳かれる、刀は鞘から抜かれる、天災は日常茶番・・・危機感は薄れる・・・フネは沈没させられる・・・
ーーー
ブログ記事にある記事を参照
↓
鴨緑丸
客船
捕虜1600人のほか
日本の民間人・軍人1900人輸送中
攻撃を受け損傷
沈没前に多くは下船できたが、
生存捕虜は別の船で
再移動中に再度撃沈された
↓
捕虜輸送船には赤十字の標識はされず、
連合国の潜水艦や航空機に撃沈された
ヒ72船団の
「勝鬨丸」、「楽洋丸」、「りすぼん丸」、
「阿里山丸」、「鴨緑丸」、「江ノ浦丸」、
「順陽丸」
など
「順陽丸」は
捕虜約1400人、労務者約4200人
を移送中に撃沈された
「阿里山丸」では
捕虜1781人が死亡・・・
↓
「阿里山丸」
1944年10月11日
米軍捕虜や民間人を乗せてマニラを出港
パラワン島の西海岸に退避
10月20日
マニラに戻って
日本に帰国する
12隻で構成された
マタ-30船団に編入
駆逐艦「春風」、「呉竹」、「竹」
など5隻に護衛され
10月21日
高雄へ出発
10月23日夕刻
バシー海峡を航行中、
3組の潜水艦群8隻に捕捉
17時30分
「ソードフィシュ」により
「君川丸」
深夜から
10月24日昼間まで
「シ―ドラゴン」に
「黒竜丸」「大天丸」「営口丸」
「ドラム」に
「信貴丸」
「アイスフイッシュ」
「天晨丸」
が撃沈
「スヌーク」に
17時30分
「阿里山丸」に
3本の魚雷が命中
↓
1944年8月27日~9月8日
マニラから日本へ
捕虜1060名を輸送した
「能登丸」は
護送部隊は100名ほど
沈没時
日本軍兵員・乗組員より
捕虜の方が数的優勢・・・
↓
日本の俘虜情報局編の
『俘虜取扱の記録』には
「捕虜輸送中」に沈没された船は
計24隻
「乗船捕虜」
18,182人のうち
10,834人が死亡
↓
「君川丸」
三井船舶
「ソードフィシュ」により撃沈
↓
ーーーーー
「犬に襲われた子どもが猫(タラちゃん)に救われる」だった・・・
映像では太った「オバちゃん」らしい女性が現れるがスグ画面から子供を残して消えてしまったのはナゼだろう。家に設置された映像での撮影らしいが「ワンちゃん」の登場とその
連続撮影アングル
(三輪車の子供→柵越しにの歩道にイヌが登場→イヌが車の右後部から回り込む→車の左後部から現れて子供の足に噛み付く→ネコが現れてイヌにアタック→女性が現れ子供に近づく→ネコがイヌを追う→女性が子供から離れて画面から消える→子供が立ち上がって三輪車から離れて逃げる→ネコが車の前輪の下から現れる)」
が不自然のようにも思える・・・年月日時の表示の時間の数字は「05/13/2014 04;50;51 PM」→「04;51;16 PM」・・・カメラのアングルは異なっている。操作された一台のカメラとも思えるが、一台ではないように見える。時間の連続表示も編集された後の「数字」なのか・・・
・・・兎に角、ニャンコのタラちゃんはエライ・・・ブブの帰りが遅い・・・
ーーーーー
・・・寒い、雨がシトシト。遅咲きの桜が風にゆれ、雨の重みで頭を垂れている・・・むかし、アメリカで「bus boy」をやっていた時、「BUS」を「ブス」って発音して「そォ、プァ~、あんたの英語力って、そんなモノだったの」って云われた。「bus」に「y」が付いたら「busy」は「ブゥシィ」ではない。確かに「貧困なボキャ」である・・・
耳(ィヤァ)での音声(ボイス)は聞き取れなし、目(アィ)での文字(レター・スペル)は発音できない・・・「table」は「タベル」ではないし、国際語であるらしい「英語・米語」の「文字の発音」は無茶苦茶である。だが、如何様に「音読」しても「音の意味の関連」はあるようだ。「table(タベル)」は「食卓」でもあるから・・・
日本語も負けず劣らず、デブ(太る・河馬)→デカ(ダイ・大・刑事)→ブス(毒・トリカブト・ベラドンナ・無粋)→ブタ(豚・蓋・ブタ、ブツ・ほとけ)→タブ(Tabbed・耳・耳朶・多武)→タビィ(tabby・斑ネコ・お喋りで意地悪な老婆)・・・確かに、、「BUS(バス)」も「bath(バス)」も「ブス」ではない。「アグリー」は「アグリー」・・・「agree(アグリー)」は「ugly(アグリー)」を同意するって・・・
「ゆらい・ユライ・由来」はいい加減に「揺らいでいる」んだろう・・・「そうですか」→「ソゥス、ッ=そうです」・・・「そうなんデスか」は「再確認のコトバ」なんだか、「疑問のコトバ」なんだか、「肯定のコトバ」なんだか、「遭難なんです(か)」なんだか、「相南なんデス」なんだか・・・
「由来」の英語は
〈起原〉the origin
〈来歴〉the history
〈出処〉the source
由来する=result (from)・originate (in)
ご先祖様の「骨」の納まっている所は「墓」だが・・・オフクロの「遺骨」と「咽喉仏の遺骨」は未だ家の中に・・・墓地は札幌の教会の敷地に確保しているのだが・・・
「墓」=「grave(グレイヴ)・ tomb(テウーム)・sepulcher(セパルカ)」・・・「タブー=taboo=tabu」、「タブレッテ=tabulate」・・・「トーク=talk」は「タルク」だろう・・・「ティーム=tame=為、慣らす」・・・「ティーム=team」は「グル(a groupa circle)」で「テェぁむ=TEAM」だろが・・・それに、「グル(Guru・サンスクリット語)」は、「指導者・教師・尊敬すべき人物・導師・尊師」、「グル」になっての工場破壊や略奪は「an accomplice・plot together・be in cahoots with・conspire with」・・・「リーダー(a leader)」がいるんだか、いないんだか・・・「act in」、「be in」って、「悪徒」、「鼻咽か鼻韻」だろう・・・
越南(ヴェトナム)の「大陸中国政府」の横暴に怒った人々の「groupaのleader・Guru(グル)」は「漢字」で「日本企業」の看板を「read」し、理解する「リーダー(reader)」がいなかった?・・・多分、トバッチリではなく、「日本企業」、「台湾企業」、「韓国企業」だと解かった上での「襲撃」だったかも。日本企業は「越南(ヴェトナム)の高官」に賄賂を贈って発覚したし、「ベトナム航空のパイロット」は日本から自国へ密輸、密売していたし、それに現在的に日本国内の「ベトナム人」の「犯罪検挙」も増えているらしいニュースも報じられていた・・・かってのヴェトナム戦争での韓国軍の虐殺、レイプにも恨みはあるだろう・・・これ等に対する意図的な恨みもあったんじゃないのか・・・ヴェトナムは唯一、「仏蘭西・亜米利加」に「戦争」で勝利した「社会主義国」である・・・しかも「軍事指導者」は「敗戦日本帝国の軍人、兵士」の影響があった・・・
・・・「元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946~54年)を共に戦った」のだ・・・「フランスによる植民地支配を崩壊させたのは帝国日本」だったが・・・欧米列強と同列の「帝国植民地主義」でのコトである・・・
以下は「ウイッキペデア」を参照、参考、抜粋・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89
↓
1946年4月
「ホー・チ・ミン」の「ベトミン」
独自の軍士官学校を二校設立
一校は北部ソンタイ
教官は日本軍に追われ、ベトミンに合流していた
フランスインドシナ軍の下級将校であった
もう
一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校
教官は元日本軍の士官や下士官であった
残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた
日本軍インドシナ駐屯軍参謀の
井川省少佐はベトナム名「レ・チ・ゴ」
井川参謀の部下の青年将校
中原光信はベトナム名「ヴェト・ミン・ゴック」
第二大隊教官としてベトミンに協力
ほかに
石井卓雄、
谷本喜久男(第一大隊教官)
猪狩和正(第三大隊教官)
加茂徳治(第四大隊教官)
日本敗戦後、
ベトミンに協力した
インドシナ残留日本兵は
766人
・・・「インドシナ残留日本兵」は「大東亜共栄圏」を信じていたのか、どうなのか、「思想」はどうであれ、「世界の植民地の現実」を壊したのは「帝国日本」であった・・・そして、今現在の「大陸中国」を育て上げたのが戦後の「日本政府と日本企業」と「欧米諸国」である・・・「儲けるタメ」にである・・・そして、「戦争事業=破壊と人殺し」は「儲かるのでアル」・・・ダレが・・・今現在、生きているオレや、アンタも含めて「他人の命を消耗させ、盗み」ながら・・・
ーー↓
とにかく、「バベルのバブル」でデキモノの「破裂」である・・・an explosion(爆弾などが)・explode(血管などが)・rupture(水道管などが)・・・A bomb exploded・・・「葉列」は字典、辞書、「歯列」は「尚歯会」・・・
ーーーーー
参考頁を添付
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=&oq=%E3%83%96%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%AA%9E%E5%8E%9F&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADFA_jaJP411JP413&q=%E3%83%96%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%AA%9E%E5%8E%9F&gs_l=hp....0.0.16.2575094...........0._yy4wJSQ1W0ブスの語原 - Google 検索
・・・「大陸中国」のヤッテイルコトは「コロンブス」と一緒・・・「1492年8月3日」、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出航。「10月11日」の日付が変わろうとする「0時」、ピンタ号の水夫が陸地を発見・・・「10月12日」の翌朝、コロンブスはその島に上陸し、そこを「サン・サルバドル島」と名づけた・・・彼がやったコト。「カネを要求しては原住民を虐殺し、奴隷狩り」・・・「1911年」にインデアンは「アメリカインディアン協会」を設立、「全米インディアン・デー」を提唱。「オハイオ州コロンバス」で「第一回決起大会」で「白人社会」に抗議したが・・・排除、逮捕、拘束された・・・当初、コロンブスは、「アラワク」族インディアンから歓待。コロンブス達に水や食料を贈り、「オウム」や「綿の玉」、「槍」などをコロンブス一行の「ガラスのビーズ」や「鷹の鈴」と交換・・・
↓
「1492年8月3日」
「10月11日」
「10月12日」
「1911年」
・・・上の「数字」と
「オウム」=「鵡(鸚鵡)」=「武+鳥」
「綿玉」=「わただま」
「わたつみ(棉積み)」=「海神(わたつみ)」
↓
の「文字」は「古事記」、「日本書記」、「日本歴史」ではナニを意味しているのか・・・以下は例の如く下敷きは「ウイッキペデア」・・・
↓
1492年
↓
干支は
壬子年・・・・みずのえのね
日本の元号
延徳四年
明応元年七月十九日
(~明応十年二月二十九日=文亀元年)
「後土御門」天皇
皇紀2152年
中国
明国の元号
弘治五年
朝鮮
李氏朝鮮
成宗二十三年
檀紀3825年
ベトナム=越南・コーチ(交趾)
後黎朝
洪徳二十三年
↓
・・・取り立てて「日本」では事件がないが、元号は疫病での改元で「延徳四年=明応元年」が重なっている。「延ばす徳、ヨネン」、「明に応じる元の年」、その後の元号(1504年3月16日改元)が「文亀(ブンキ)元年(辛酉年)」で、「後柏原」天皇の即位と「辛酉革命」である・・・「後の柏(かしわ→槲)原」→「柏=木+白」の「原→源」・・・「キは新羅のゲン」・・・清和源氏は「新羅三郎」・・・源義光は、河内源氏の二代目棟梁、「源頼義の三男」。兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服。「新羅三郎」と称した・・・元服の場所がナゼか「新羅明神」なのか・・・祭られているのが先祖であるからだ・・・もちろん、「万葉集」の「白水郎=あま=海女・海士・蜑女・潜女(かつぎめ)」も、「白拍子」の表記も怪しく「那辺(奈辺)で、可笑(をか)しい→可化(変)しい」のである・・・「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた」・・・平安時代末期から鎌倉時代に起こった「主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったモノ」の歌舞の一で、それを演ずる「芸人・巫女・遊女」も指すコトバとブログには記載されているが、「白拍子」としての有名人は、「源義経」の妻妾の「静御前」である。「高木淋光」の「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密・1958年」の小説の
「しずやしず
しずのおだまき
繰り返し
むかしを今に
なすよしもがな
↓
なすよしもカナ
(成吉思汗→吉野に成りし、
水干=静御前=遊女を思う)」
を思い出すけれど、アレが1958年、1960前後頃のボク・・・夢中(霧中)で読んでいた・・・神津恭介・・・構図境界(狂会)・・・
他の「白拍子」には・・・「妓王(祇王)」、「仏御前」・・・
↓
「仏御前(ほとけごぜん)」
永暦元年一月十五日(1160年2月23日)
~
治承四年八月十八日(1180年9月14日)
十四歳、上京
叔父の
白河兵内のもとで白拍子となり、
平清盛の屋敷に詰め寄る
当時は白拍子の
妓王が清盛の寵愛を集めていた
妓王の誘いにより、
清盛の前で即興で
「今様」を詠んだ
↓
「君を
始めて見る
をりは
千代も経ぬべし
姫小松
御前の池なる
亀岡に
鶴こそ
群れ居て
遊ぶめれ」
・・・清盛に門前払いをくらうところを
祇王に取りなしてもらった
建前、
彼女に、声をかけるように清盛にうながしたところ
清盛は妓王を追い出せと命ずる
去り際に妓王が障子に書き残した
一首が、
↓
「萌え
出づるも・・・イヅル模
枯るるも・・・カルル模
同じ
野辺の草・・・里予(マア→アマ)のクサ
いづれか
秋に・・・・・亜紀・安岐・安芸
あはで・・・「阿波・安房・安和・粟・泡・沫」出
果つべき」・「田木→多記・他紀
多伎・多気・瀧」通可(冪)
ベキ=冪(巾)=冪乗(power)
累乗(exponentiation)
ある一つの数同士を繰り返し掛け合わせる操作
あるいはそれによって得られる数
冪然(ベキゼン)=おおいかぶさるさま
ーー↓ーー
1492年・・・スペイン(西班牙)では「8月18日にアントニオ・デ・ネブリハ (en:Antonio de Lebrija)」 が、スペイン語の「初の文法書」の「カスティリア文法(Gramática castellana)」を出版した、とある・・・
「スペイン=イスパニア(西班牙・正式国名はエスタド・エスパーニョール(EstadoEspanol)」。「エスパーニョールの語源はローマ時代の地名ヒスパニア(Hispania)」・・・その「文法書」である・・・誕生人、死亡人は
↓
誕生
4月15日(延徳4年3月19日)
小笠原長棟、
戦国時代の武将、
府中小笠原氏の当主
↓
10月30日には重なって・・・
尼子国久、戦国時代の武将
小田政治、戦国時代の武将、小田氏の第14代当主
肝付兼興、戦国時代の武将、肝付氏の第15代当主
華陽院、松平清康の後妻
相良長隆、戦国時代の武将
朱ガン、明代の官僚
平手政秀、戦国時代の武将
毛利興元、戦国時代の武将
アダム・リース、「ドイツ(独逸)の数学者」
六角氏綱、戦国時代の武将、六角氏の当主
↓
死去
3月13日(明応元年2月15日)
千葉輔胤、
室町時代の武将、千葉氏第21代当主
4月8日
ロレンツォ・デ・メディチ、・・・?
出・目出位地(壱・市・位置)
イタリアの
フィレンツェの・・・
↓ ↓紋章は
↓ ↓「赤いトカゲ(蜥蜴)」のように観える
↓ ↓座標=北緯43度47分0秒
↓ ↓ 東経11度15分0秒
古代ローマ時代、
花の女神フローラの町として
フロレンティア (Florentia) が語源
英語=Florence(フローレンス)
西班牙語=Florencia(フロレンスィア)
独逸語=Florenz(フロレンツ)
↓ 仏蘭西語=Florence(フロランス)
メディチ家の当主・・・・・目出位置
↓
5月27日(明応元年5月2日)
蓮教、室町時代の浄土真宗の僧
6月7日
カジミェシュ4世、リトアニア大公、ポーランド王
6月8日
エリザベス・ウッドヴィル、
イングランド王エドワード4世の王妃
7月5日(延徳4年6月11日)
相馬高胤、
室町時代の武将、相馬氏第12代当主
7月25日
インノケンティウス8世、
第213代ローマ教皇
8月13日(延徳4年7月20日)
庭田朝子、後土御門天皇の典侍
10月12日
ピエロ・デラ・フランチェスカ、
イタリアのルネサンス期の画家
11月1日
ルネ、アランソン公
11月6日
アントワーヌ・ビュノワ、
ブルゴーニュ公国の作曲、作詞家
島津忠廉、
室町時代の武将、豊州家第2代当主
・・・
ーーーーー↓
クリストファー・コロンブス
(英語=Christopher Columbus
伊語=Cristoforo Colombo
羅語=Christophorus Columbus)
1451年頃?~1506年5月20
航海者・コンキスタドール、奴隷商人
イタリアのジェノヴァ出身
↓
サンタ・マリア号(La Santa María)は
当初は
「マリガランテ(娼婦)号」として建造
1492年
コロンブスによる初の大西洋横断航海の
3隻(ニーニャ号とピンタ号)の
帆船のうちの最大の船
1492年12月24日に
ハイチ沖
イスパニョーラ島で座礁、後に解体され、
木材は要塞の資材としてリサイクル・・・?
↓↑
AFP
2014年5月14日
マサチューセッツ州在住で、
海洋考古学調査を専門とする
バリー・クリフォード氏が、
ハイチ沖で沈没している
サンタマリア号と思われる
船の残骸を発見した、と発表
↑
・・・解体された「サンタマリア号」の「リサイクル」されなかった残骸なのか?・・・
ーー↓
MSN産経ニュース
コロンブスの旗艦「サンタマリア号」の残骸か ハイチ沖で発見
2014.5.14 19:52 (歴史・考古学)
カリブ海の島国ハイチ沖で見つかった沈没船の残骸が、1492年に米大陸に到達した探検家コロンブスの旗艦「サンタマリア号」である可能性が出てきた。米国の海洋研究者が13日、発表した。
ロイター通信などによると、米マサチューセッツ州の研究者らが2003年に発見し調べていた。研究者らは、見つかった海域が同号が約500年前に沈んだ場所とコロンブスが説明していた場所と一致すると指摘。地理学、考古学的な証拠などから「サンタマリア号の残骸であることを強く示している」と話した。
サンタマリア号は1492年末にハイチ沖で座礁し放棄されたとされる。
残骸と確認されれば歴史的発見となるが、一部からは「さらなる検証が必要」と慎重な意見も出ている。ロイターによると、ハイチ当局者は否定的な見方を示しているという。(共同)
ーーーーー
・・・「大陸中国」のヤッテイルコトは「コロンブス」と一緒・・・やることは「意図的」であり、「恐喝的」であり、「強奪的」である・・・「集金兵のキョウサントウ」・・・あの「女広報官」は追従者と言うよりも「確信犯の形相」である・・・「確信」が崩れるには「自覚的老化・加齢」の「己の痛みの時間」が必要だ・・・
・・・庭の「サクラ(桜・櫻)の花」は散ったが、何時の間にやらと言った感じで「ナシ(梨)の白い花」が咲きだしていた。今年は黄色いチューリップが庭に目立ち始めている。ブログで調べたら一重遅咲き系の「黄色のチューリップ」だった。
「チューリップの伝説」、
トルコ、ペルシャの伝説では
「ある村にファルハドと言う青年が村長の娘シーリーンと恋をし、村の井戸が枯れ、ファルハドは水を得るために穴を掘った。必死に掘って水が湧き出したが、その間にシーリーンは死んでしまっていた。恋人の死を悲しんでファルハドは崖から飛び降り自殺・・・その体から出た血から真っ赤な花が咲き、チューリップとなった」。
オランダの伝説では
「美しい少女に三人の騎士が求婚した。一人は黄金の王冠、もう一人は剣、最後の一人は財宝を結い納品として求婚したが、少女は悩んだ末に、花の精霊に願い、自分を花の姿に変えてもらった。貰った王冠は花に、剣は葉に、財宝は球根になった。そして、その花はチューリップと名付けられた」・・・
「チューリップ相場」ってのがあった・・・17世紀初頭にオランダで行われたチューリップ取引相場・・・投機的な資金で、珍しい品種のチューリップの球根が高値で取引され、「チューリップ・バブル」で「求根」が高騰し、1637年に球根価格は暴落。破産する人間が大勢出た・・・江戸時代に伝来したらしいけれど、普及は大正期の新潟からであるらしい。
また、同じようなコトを書き込んでいる・・・季節の移り変わりで目で確認するモノは庭の変化だし、人間関係の変化はホトンド無いし、ボケてきているらしいから書き込むことも同じようなコトの繰り返し・・・まぁ、今のところ自己確認、自己満足の世界に浸っているので、認知症で外に出てウロツイてアウトになるよりはマシかも・・・それでも、モモが捜してくれるかも・・・
庭のチュウーリップは「壺(つぼ・壷)」の口を上に向けているような形である・・・ツボの中にはサイコロである。なるほど、「思う壺」とは「座頭市」、「メクラのイチ」さんの博打の「賽(サイ)の目」である・・・チューリップの和名は「ぼたんゆり・みっかぽんず」、日本には「アマナ、ヒロハノアマナ」というチューリップと姿が似ているモノがあるらしい。漢字名では「鬱金香(ウコンコウ・ウッコンコウ)」らしいが、「緋衣草(ヒイソウ=サルビア)・紫丁香花(むらさきはしどい・シチョウコウカ=ライラック)」も併記されていた・・・?・・・画像を見るとチューリップとはカナリ違う・・・
チュウーリップの中生種には「トライアンフ系 (Triumph)」と云う最も品種数が多いモノがあるらしく、「紫のネグリタ」、「赤と黄色のキースネリス」、「白のホワイトドリーム」、「赤いプロミネンス」・・・ムカシ、アメリカで中古の紺青色のTriumphのオープンカーに乗っていたけれど・・・特殊な花色の品種も最近オランダから多く輸入され、茶色っぽい色の「カイロ」、白に紫の絞りの「ズレル」、黒紫に黄覆輪の「ガボタ」などがある・・・「ズレル」って・・・「思う壺の中のサイコロ(骰子・賽子・ダイス)の目の数字は6」・・・「ドツボに填まった」って、博打でスッカラカンになってしまったコト・・・チューリップの花の中のは「なしべ(花蕊・花蘂)=花のしべ・かずい」も六本・・・
・・・「桐壺(きりつぼ)」って「桐=木+同」やじる=「十+八+同」で造った「壺」・・・ボクの「十八番(おはこ)」は「源字(ゲンジ)探索」のモノガタリ人・・・並べてみるかな「源氏物語」・・・
ーーーーー
・・・例の如く、以下の「下敷き」はスベテ「ウイッキペデア」から・・・
↓
「源氏物語(ゲンジものがたり)」
文献の初出は
長保三年(1001年)であるらしい・・・
「紫式部日記」には、
寛弘五年(1008年)に
源氏物語と思われる
物語の冊子作りが行われたとの記述があり、
その頃には源氏物語のそれなりの部分が完成していた・・・
源高明が「光源氏のモデル」であるらしい・・・
↓
原作者は「紫式部」とか、
他の複数の作者によるとの説もアルらしく
推理作家の
「藤本泉」氏の説は
↓
モノガタリは
「現実とは逆に、
常に
藤原氏が敗れ、
源氏が政争や恋愛に
最終的に勝利する話」
になっており、
「藤原氏の一員である紫式部」
が書いたとするのは不自然・・・
「紫式部」の呼び名の元になった
父親(式部大丞の地位)を思わせる
「藤式部丞」なる者が、
「帚木の帖」の雨夜の
「品定め」で最も
愚かな内容の話をする役割を演じており、
紫式部が書いたとするには不自然である・・・
との説であるらしい・・・
↓
原作者の「紫式部」を
一条天皇が
「源氏の物語の作者は
日本紀をよく読んでいる」
という述懐により
「日本紀の御局」と呼ばれた
女性(紫式部)だったらしいが、
「一条天皇」とは・・・
天元三年六月一日(980年7月15日)
~
寛弘八年六月二十二日(1011年7月25日)
第六十六代天皇
在位は
寛和二年六月二十三日(986年8月1日)
~
寛弘八年六月十三日(1011年7月16日)
諱は
懐仁(やすひと)
号は
大宮院
追号は
「一条院」
藤原氏と深い関係
円融天皇の第1皇子
母は
藤原兼家の娘、
詮子
兄弟姉妹は無
花山天皇が内裏を抜け出し出家し
数え年七歳で即位
内覧となって実権を掌握した
藤原道長は
先に
中宮を号していた
定子を皇后宮と号し、
娘の
彰子も皇后に立てて
中宮を号させ
一帝(一条天皇)二后の先例を敷いた
時代は道隆・道長兄弟のもとで
藤原氏の権勢が最盛
皇后定子に仕える
清少納言
中宮彰子に仕える
紫式部・和泉式部
らによって平安女流文学が開花
天皇も文芸に深い関心を示し、
「本朝文粋」などに詩文を残し
音楽も笛を能くした人物・・・
天皇崩御後、
道長・彰子は天皇の
遺品一通の手紙を発見
「三光明ならんと欲し、
重雲を覆ひて大精暗し(愚管抄)」
と書かれ、その意味を
「道長一族の専横によって国は乱れている」
と解釈・・・?
天皇と道長・彰子の関係は良好ではなかった・・・
一条天皇は
五月末頃には病が重くなり
六月十三日に皇太子
居貞親王(三条天皇)に譲位
十九日出家
二十二日に死亡
辞世の句は
「露の身の 草の宿りに
君をおきて 塵を出でぬる
ことをこそ思へ(御堂関白記)」
となっているが
「権記」では
「塵を出でぬることをこそ思へ」が
「塵を出でぬる事ぞ悲しき」となっているらしい・・・
「塵(ちり・ジン)」だが、音の意味か、
それとも
「塵=鹿(王)+土(十一)」か・・・
明治以後、
「一条院」の号は廃止され、「一条天皇」とされた
一条天皇には分かっている限りで
六人の后妃がいた・・・
ヘンリー八世
(1431年6月28日
~
1547年1月28日)も
6人の妃・・・
↓
「源氏物語」の
古写本は題名の記されていないものが多いらしく
「物語全体の標題」が記されているよりも、
それぞれの
各「帖名」のタイトルが記されていることが多く、
現在、
一般に「源氏物語」と呼ばれている「当時の題名」は
不明らしい・・・
「源氏の物語」
「光源氏の物語」
「光る源氏の物語」
「光源氏」
「源氏」
「源氏の君」
などとする系統と。
「紫の物語」
「紫のゆかり」
「紫のゆかりの物語」
などとする系統があるらしい・・・
他にも
「源語(ゲンゴ)」
「紫文(シブン)」
「紫史(シシ)」
などという「漢語風の名称」があるそうだが、
これらは
「江戸時代」のモノらしい・・・
紫式部の「源氏物語」は
通常「五十四帖」とされるが
「雲隠」は題のみで「本文」が伝存しない
「更級日記」は「源氏物語」の巻数を
「五十余巻(よかん)」としているが
「四」ではなく、
「余(あまり)」である
「無名草子・今鏡・源氏一品経・光源氏物語本事」の
資料には「源氏物語」を
「六十巻」と記録
↓
「雲隠」を含む「三十七巻」と
「並び」の「十八巻」
とに分けられていたモノを
「37+18=54=源氏物語」とする
↓
「並びの巻」とは・・・?
巻の「分類・関係」であるらしい・・・
「並び」とは
「源氏物語」のほかに
「うつほ物語」、「浜松中納言物語」などに見られる
「並びの巻」を単に
「並び(ならび)」と呼ぶこともある・・・?
たとえば源氏物語では、
「帚木(ははぎ)」は
「本の巻」であり、
対応する
「空蝉、夕顔」は「並びの巻」とされる
↓
帚木(ははきぎ)
信濃国園原伏屋にある木
遠くから見れば箒を立てたように見えるが
近寄ると見えなくなるという伝説の木
『延喜五年平貞文家歌合』、『古今和歌六帖』
の坂上是則の歌
「園原や伏屋に
生ふる帚木のありとてゆけど
逢はぬ君かな」で広く知られている.
「帚木 (源氏物語)」
五十四帖の巻名の一
「桐壺」に続く
第二帖
光源氏と
空蝉が交わした和歌
「帚木の心をしらで
その原の道に
あやなく
まどひぬるかな」
及び
「数ならぬ伏屋に生ふる
名のうさに
あるにも
あらず
消ゆる帚木」に因む・・・
ーー↓
「桐壺」のように、
「並びの巻」を持たない
「本の巻」はあるが、
「並びの巻」には、
必ず対応する
「本の巻」がある・・・?
↓
だが、「必ず対応」するとされている「内容」は不明であるらしい・・・
「並列」されるモノは
「同じ共通項」か、あるいは
「異なっていても関連項」である。
(A+B)×(A+B)=C=AA+2AB+BB
(A+B)+(A+B)=C=2A+2B
「対応の比較」での「並び」であるなら「同列の比較」であろうが、その比較されるモノは「歴史的事件の同事(類似)性」か、「出来事の同時性」の「並び」であろう・・・「同時性」とは「年月日時」である。「日本史の何々事件」は「西洋史の何々事件」と匹敵、類似し、同様、同列の事件。あるいは「出来事は異なる」が「時間的な同時性」の「同時並列性」である。英語で言えば「シンクロナイズ(synchronize;
synchronise )」である。この「音」で漢字変換したらどうなるか?
あるいは「コトバの本質(リンゴの概念)」を「説明するその内容(果物の分析説明)」。あるいは「日本語=リンゴ」に対応する同意義の「英語訳=アップル」・・・
りんご=リンゴ=林檎
「日並皇子(ひなみしのみこのみこと)」は「何々」と同じに並ぶ・・・「日並皇子=草壁皇子」のことで、「太陽と並ぶ皇子という皇太子の意味」・・・すると「太陽=日=天皇」に「並ぶ=皇太子」なのか・・・それとも、「二人の天皇」が「同等に並ぶ」と言うことなのか・・・「同一人物の異なる名前が並べられる」の意味なのか?
並列、併記すれば、
草壁皇子=草壁皇子尊(日本書記)
=日並知皇子尊・日並知皇子命・日並知皇太子(続日本紀)
=日双斯皇子命(万葉-四十九)
↓
柿本朝臣人麿作歌
日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者來向
↓
草壁皇子が、
馬を副えて(並べて)
御獦(みかり・狩・猟)に師斯を立(発)つ
時が向かい来る
↓
=日並皇子尊(万葉-巻二-百十題詞、167題詞)
石川郎女に贈歌
↓
石川 内命婦(いしかわ の うちみょぶ)
大伴安麻呂の妻
石川 命婦(いしかわ の みょうぶ)とも
「万葉集」には、
同一人物ともいわれる
「石川 郎女」という歌人がいる
「石川 女郎(いしかわ の いらつめ)」
「大名児(おおなこ)」とも書く・・・?
=日並皇子(天平勝宝八歳六月二十一日
東大寺献物帳=国家珍宝帳)
=日並知皇子
=岡宮御宇天皇(天平宝字二(758)歳八月
追尊
=岡宮天皇
=長岡天皇
である・・・草壁皇子→「石川女郎」←大津皇子・・・この3人は「三角関係」であったらしく、「大津皇子」が「石川女郎」を奪(うばった・窃)らしい・・・
大津皇子の「窃(窃盗)」に石川女郎を婚きし時に、
津守連通その事を占ひ露はせるに、
皇子の御作りたまひし歌。
「大船の津守の占に告らむとは
まさしく知りて我が二人寝し(巻2-109)」
・・・?・・・「万葉集の解釈」も、並んでいる「数字」も何か変である・・・「巻2-109」・・・ダレが付けた「番号=ナンバー=NO」なんだか・・・
草壁皇子=大津皇子ではないのか、双璧、双子、双生児・・・大小の「碓(うす・タイ)」は「日本建命(やまとたける)=倭建命=倭日本童男=倭男具那命(やまとをぐな)」と、その兄であった。
ーーー↓
「源氏物語」の
「並びの巻」を含めない
「三十七巻=37=源氏物語」のみという数え方
↓
「三十七巻=37」に
「宇治十帖全体」を「一巻」に数えて
全体を「37+1=38=三十八巻」
とする数え方をされることもあった・・・
「三十八巻」ではなく、「二十八巻」とも、とは?・・・
「法華経二十八品」=「仏体三十七尊」に重ねた?
↓
・・・「二十八(28)」を「三十八(38)」の「数字」と「等しく」するのは無理だろう・・・「六十」は「六十干支」、「二十八」は「宿曜経二十八宿」の数字である「宿曜師」は占い師で「源氏物語」に登場している・・・人物を「占い」で重ね並べた・・・「源氏物語」の「桐壺」の第三章、「若宮七歳」、第三段「高麗人の観相、源姓賜わる」には・・・
↓
そのころ、
高麗人の参れる中に、・・・高麗人(こまうど)=渤海人
かしこき相人ありけるを
聞こし召して、 宮の内に召さむことは、
宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、
この御子を
鴻臚館に遣はしたり。
御後見だちて仕うまつる
右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、
相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。
↓
高麗人(渤海人)
↓
倭相→宿曜師
↓
「宿曜の賢き道の人(宿曜師)」
↓
際ことに賢くて、ただ人にはいとあたらしけれど、
親王となりたまひなば、
世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば、
「宿曜の賢き道の人」に勘へさせたまふにも、
同じさまに申せば、
源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。
↓
「宿木(やどりぎ)」の意味するものも「宿曜経の宿星」であろう・・・モチロン、「帚木(ははぎ)」は彗星の「客星=箒星=ほうきぼし」である。「法規・放棄・蜂起・宝器・法器」がナラブ・・・「並ぶ=楢分(部)=木(十八)+酋(八酉)」とは・・・「占いの命式」?
ーーー↓
「源氏物語」は
写本・版本により多少の違い
約、
300名の登場人物
七十年余りの出来事
八百首弱の和歌
を含む
「竹取物語」や「うつほ物語」などに
接ぐ長編モノガタリで
後続して成立した
「王朝物語」に影響を与え
「狭衣物語」の人物設定や筋立てに多くの類似点
「宇治十帖」の巻数を「宇治一」、「宇治二」というように
それ以外の巻とは別立てで数えている・・・
このころ、「宇治十帖」は
その他の部分とは
分けて取り扱う考え方が存在した・・・?
「源氏物語」全体を
「光源氏を主人公」にしている
「幻」=「雲隠」までの
「光源氏物語」と
それ以降の
「宇治大将物語」=「薫大将物語」の
二つに分け、
「前編」、「後編」
または
「正編」=「本編」、「続編」
と呼ばれていた・・・
分類で
帚木三帖・・・帚木、空蝉、夕顔
の三帖
玉鬘十帖・・・玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、
篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱
の十帖
匂宮三帖・・・匂兵部卿、紅梅、竹河
の三帖
宇治十帖・・・橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、
東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋
の十帖
とされている場合がある・・・他には
「紫上物語」
「明石物語」
「玉鬘物語」
「浮舟物語」
など、特定の主要登場人物が活躍する
部分を分けて物語と呼ぶことがある・・・
ーーーーー
・・・胡瓜の芽は未だ出ず、とまと(赤茄子・西紅柿・唐柿)、蕃茄(バンカ)なら時期は「晩夏」・・・挽歌は原田康子の小説・・・北海道、釧路で、「苫小牧(トマコマイ)」は舞台ではなかった・・・不倫に赤いトマトはそぐわない・・・やっぱ、トマトは「日曜日はダメよ」である・・・芋は「男爵」だが、爵位は「カネ」でもらった・・・
・・・「Crom-well」を「ボク的な日本語」で分析して考えるとどうなるのか?・・・「well」はイイとしてもだが・・・それでも「うぇる」である・・・「植える・餓える・飢える・上流(瑠・琉・婁・屡)・得重留」・・・とにかく、出版社の「写植」などとは今やどうなってイルんだか、漢字も霞んで、コピー・・・キイボードを打ち込んで記録するよりも「下敷き」は「ウイッキペデア」や「他のブログ字典」、時には「他人のブログ記事」からが手っ取り速いので・・・ボクの「ブログ日記の下敷きの文字」はスベカラク「コペピ」です。文字自体の「?」に対する妄想叙述のみがボクのオリジナルに属するモノ・・・誤解なきよう。個々のホトンドの「文字」はそれ自体をクリック検索すれば「原文」を見れるモノです・・・
ーー↓
well
満足に,よく,申し分なく
上手に,うまく.
十分に,よく.
親しく,親密に.
適切に,ふさわしく,都合よく.
裕福に,安楽に.
好意をもって,親切に
善意で,手厚く.
快く,上機嫌で
落ち着いて.
健康で,丈夫で
よいこと
幸福.
驚き・疑いなど
まあ,おや,おやっ!, えっ!, さて.
安心・あきらめ・譲歩など
やれやれ,まあいいや; なるほど.
話をまた続けたり,用件を切り出す時に用いて
さて,ところで; あのう,ちょっと.
↓
井戸=油井(ユセイ)などの井
well
sink [bore] a well 井戸を掘る.
感情・知識などの源,源泉
well of
a well of information 知識の泉.
井戸のような穴
階段の吹き抜け
stairwell.
エレベーターの縦穴.
法廷の弁護士席.
ー
液体が…からわき出る,噴出する
from,out of
わき出る,こみ上げてくる.
Tears welled up in her eyes.
彼女の目に涙がこみ上げてきた.
well over
液体があふれる.
ー
井戸, 鉱泉, 泉
用例
dig / sink a well
印欧語根
wel
回ること、転がることをあらわす
派生して、曲線、取り囲む形をしたものに関係
well
ー
(副詞)
上手に, うまく, よく, 親密に, はっきりと,
健康な,
たぶん, やれやれ,
よろしい, 満足に, 落ち着いて
wel- 望むこと、願うことを表す
well
保護管,ウェル,ウェル(ウェル甲板船),
ため,さく井,井筒,ウエル(井戸,たまり)
well
井筒・揚水井・ウェル・井戸
採油井・井・坑井・タメ・ウェル・井戸
ウェル, 穴, 井戸,
(副詞)
よく, 順調に
well
液体のように、上がってくる
come up, as of a liquid
良い
適等な
満足のできる方法で
高い基準へ
高い確率を示すさま
徹底的に、または完全に
好意的に
適当であるか、適当な範囲
程度に
利益または便利を図る方法で
かなりの範囲または程度まで
技術のある、または好ましい
完全にまたは十分に
建物の階を突き抜けた
開いたシャフト(階段に関しては)
液体を入れるために使われる
くぼみ、容器
豊富な情報源
well
訳語
とりあえず
まぁ
なるほど
えっと
さて
というか
あ、そうそう
well
健康・息災・所・処
首尾好く・快い・好調
善い・好い・良い・宜い
さあ・宜。健在・いやはや
旨く・上手・何うも
達者・優に
堀井戸
さ・まあまあ・碌に
海・井戸・大丈夫
宜しい・無事
Well
宜しく・まあ・そうさ・先ず
調子好く・どれ・扨・な
やれやれ・まあまあ・いやはや
旨く・善く・好く・能く・快く・克く・よく
well
ええと
恙無い・恙ない
「恙」は「憂」→「羊の心」が「憂い」とは?
羊→未・・・羊心=未心
「未艶」とは
「景教(唐時代のキリスト教)の聖母マリア」
の漢字訳である(神直道氏著作の『景教入門』)
宿曜教の「室宿」の「室女」は「聖母マリア」である
暇で興味があるならボクの「小説」へ
↓↑
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/hime27.htm
渡来(トライ)してみる・・・
恙無(つつがない)ならネッ・・・
↓
病気などの災難・わずらい・やまい
つつがない
↓
「歳亦た恙無きや、
民亦た恙無きや、
王亦た恙無きや、と」
斉王、北方の趙の国にいる
威太后の消息を
使者を訪問させた時に
威太后が訊ねたコトバに使者が
訊ねる順序が無礼であると
威太后は使者にたしなめて言った
「穀物の収穫(歳)あっての民、
民あっての王。
本を差し置いて、
末を問うことこそ
間違った質問だろう」と
本末転倒・・・と、云うことだ
↓
「恙は人を嚼(か)む虫なり。
善く人の心を嚼み、
人、毎(つね)に之に患苦す」
という「風俗通義」に由来
↓
「事に触れて、我が身に恙無ある心地するも
〈源氏物語・匂宮〉」
「恙虫(つつがむし)」の略
↓
well
むむ・否・碌に・陸に
吹き抜け・吹抜け
はあ・さあ
確り・聢り・旨く・巧く・上手く
健在・では・ヨロピク・じゃあ・いで
宜しく・良く・善く・能く・好く・克く
井
あのね・先ず・何れ・達者・優に
いざ
良う・善う・能う
井泉
さあて・あのう
偖・扨・扠
さてさて・うーん
関西弁の「あんじょう」
well
掘り井戸・掘井戸
well
元気に・変わりなく・無病の・元気な
好都合に・まめな・故障なく
上手に・巧みに
達者に・達者な・十分に・程よく
well (out)
わき出す・噴出する
well ...
はて, ふん
well...
まあ
ーー
Well (Chinese constellation)
井宿(セイシュク・ちちりぼし)
二十八宿の一
南方朱雀七宿の第1宿
ーー↓ーー
で、「Crom-well」の「うえる」の「クロム・くろむ→句賂務→黒む・玄む」である・・・
↓
cromes
語源
ゲルマン語→クルムの フック、曲がったモノ
名詞
クローム(複数形 cromes)
↓
英国用法、
イーストアングリア
↓
庭作業や農業などに使用する
歯が曲げられたフォーク状の道具
土を掘り、かき集め、
動詞
クローム(cromes、croming、cromed)
アナグラムは
「食べる」意味
ーー↓
オリバー・クロムウェル
(Oliver Cromwell)
1599年4月25日
~
1658年9月3日
T.クロムウェルの末裔(トマスの妹の孫)
↓↑
初世エセックス伯
トマス・クロムウェル
(Thomas Cromwell, 1st Earl of Essex)
1485年
~
1540年7月28日
イングランド王国テューダー朝の政治家
ヘンリー8世の側近
イングランドの宗教改革や「行政革命」を主導
1485年ロンドン郊外の
パトニーで、
ウォルター・クロムウェル
(1463年~1510年)の子として誕生
父親の「ウォルター」は
鍛冶屋・醸造家・旅館業などの職業を転々
↓
「トマス・クロムウエル」は若くして
故郷を離れ、大陸へ渡航、
フランス王国軍の兵士となり、
イタリア戦争に従事
後、
1512年まで
フィレンツェの富豪、銀行家の
フレスコバルディ家に雇われ、
ネーデルラント(オランダ)の
ミデルブルフ織物市場で商事に従事
「T・クロムウェル」は
ラテン語・イタリア語・フランス語に堪能で
ローマ教皇庁の
枢機卿レジナルド・ベインブリッジの
代理人となり、
イングランドに関わる
教皇庁
控訴院の案件に従事・・・
末路は王の寵愛を失い、
宮廷で姪を通じて権力を得た
ノーフォーク公などの政敵に囲まれ、
1540年
クロムウェルは反逆罪で逮捕され処刑
↓
以下、ウイッキペデアから
当時ヘンリー8世は王妃であるキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚問題を協議させるため、後に宗教改革会議と呼ばれることになる議会を招集。
王はキャサリンの侍女であった
アン・ブーリンとの結婚を望んでいたため、キャサリンとの婚姻の無効化を望んでいた。
(カトリック教会では離婚を認めていないため、それまでの結婚そのものを無効とするよう教皇クレメンス7世へ認可を要請した)
王の離婚の意思を支持して王の信頼を得ていったクロムウェルは、やがて宮廷内に入って王の腹心となり、
1532年に
公的な手続きを経ずして閣僚(王室財宝部長官)
1533年に
大蔵大臣
1534年に
国王秘書、控訴院判事
1535年に
総監督代理
↓
王の信頼を得たクロムウェルは、
イングランドの宗教改革において重要な役割を果たす。
クロムウェルの閣僚就任以前の議会では、
ローマ教皇庁の意向も受け、
王の結婚無効化が認められることはなかった。
1532年
クロムウェルは主導権を握り、
教皇庁の収入の源泉であった修道院の財産を遮断
聖職者に対する立法権をイングランド王に移行させた
1533年に
イングランド宗教改革の土台となる
「上告禁止法」
(Statute in Restraint of Appeals)
を起草し、議会を通過させる。
本来この法は
王の婚姻問題のために制定されたものであるが、
クロムウェルによる同法の序文には、
イングランドは「帝国」である
イングランドは教皇庁の管轄に属さないこと
(国王の婚姻の有効問題も教皇庁の認可を必要無し)
などが宣言
イングランドの君主が「皇帝」(Emperor)を名乗ることはあったが、これは単に複数の国々を支配する君主という意味である。
クロムウェルがここで用いた「帝国」は、
イングランドは
イングランド以外の君主に支配されることはない
という宣言であり、
教皇庁から独立した
国民国家(nation-state)となった
教皇庁からの独立に伴い、
クロムウェルは国王に、
イングランド教会の頂点に立つことを進言
1534年
首長令(国王至上法)
イングランド国教会は
ローマ・カトリック教会から離脱し、
国王ヘンリー8世は「信仰の擁護者」
として国教会の長となった
国王の傀儡となった
カンタベリー大司教
トマス・クランマーも
王の婚姻無効を認めた。
一辺境支部のイングランド教会が、
教皇庁から独立した組織
「イングランド国教会」となった
ヘンリー8世に媚びる
クロムウェルとは対称的に、
カトリックとしての立場から
国王に批判的であった
前大法官の
トマス・モアは、失脚
ロンドン塔に投獄され、
1535年7月6日に処刑
ーー↓
修道院の解体
ヘンリー8世とクロムウェルの宗教改革
修道院はイングランド国内にあるにもかかわらず、
国外にある教皇庁の支配下にあり、
経済的にもイングランドの富を集中保有
クロムウェルは
修道院の資産を王室へ移管することで、
王権を強化することを進言
1535年
宗教上の
国王代理(Vicegerent in Spirituals)に
指名されたクロムウェルは、
宗教裁判の管轄権を有し、
カンタベリーとヨークの教会管区を統合
総監督代理(Vicar-general)となった後、
1536年
小修道院の解散法を議会で通過させ
1539年
大修道院の解散法を成立させた。
1540年3月23日
ウォルサム修道院の解散
修道院は軒並み姿を消し
その過酷さに、修道士たちは
クロムウェルを
「修道士の鉄槌」(malleus monachorum)と呼んだ
解散させられた修道院は400以上
それらが所有していた財産は王室経済を潤したが、
ヘンリー8世によって起こされた
フランスやスコットランドとの
戦争の戦費決済に費やされた
クロムウェル主導の下、
ウェールズの統合法が議会を通過
1536年
ウェールズとイングランドが統合
1536年7月9日
クロムウェルは
オーカム男爵として貴族に列せられ、
1539年
侍従長
1540年4月18日
エセックス伯爵
ーー↓↑ーー
ヘンリー8世
キャサリンとの婚姻の無効化後、
アン・ブーリンと再婚
第2王女エリザベスを儲けた後、
侍女の
ジェーン・シーモアに心移り
アン王妃はやがて反逆罪を着せられ、
ロンドン塔で処刑
ヘンリー8世は
ジェーンと3度目の結婚に臨んだ
ヘンリー8世に忠実な
クロムウェルは、
王によるアンの処刑
および
ジェーンとの婚姻を全面的に支持
ーー↓
失脚
1537年
ジェーン王妃の産褥死の後、
王の4度目の再婚相手として
アン・オブ・クレーヴズを推した
隣国との関係悪化を牽制するため、
同盟国を欲したクロムウェルは、
大陸各国の宮廷から新たな王妃の候補を探索
クロムウェルは、
宮廷画家ハンス・ホルバインを
欧州大陸の各国宮廷に派遣し、
妃候補の肖像画を描かせ
クロムウェルは
1539年
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公
ヨハン3世の娘
アンナ(アン)を王に推挙
実際にイングランドへやってきた
アンに謁見した王は、
ホルバインによる
アンの肖像画と実物とのあまりの違いに激怒
1540年1月6日
結婚したが半年しか持たなかった
クロムウェルに抑えられていた
政敵たち
ノーフォーク公・・・・・NO Fork ?→Crom
トマス・ハワードなどが
クロムウェル失脚に動く
1540年6月10日
ノーフォーク公が叛逆罪でクロムウェルを告発
逮捕されてロンドン塔に収監
人権喪失法により私権を剥奪され
7月9日
王と
アン・オブ・クレーヴズは離婚
(婚姻無効化が議会で承認)
7月28日
5番目の妻
キャサリン・ハワード
(妃アン・ブーリンの従妹、
ノーフォーク公の姪)
と結婚
同日、クロムウェルは処刑
処刑後、
クロムウェルの首は
ロンドン橋に架けられた
国王と結婚した
キャサリンは
1年半後に処刑
ヘンリー8世は
6人目の妻
キャサリン・パーと結婚
ーー↓ーー
クロムウェル
王の寵愛で専制的な政治を行ったが、
人文主義者たちの良きパトロンでもあった
イングランドにおける
宗教改革を宣伝するため
印刷物という手段を用い
印刷業者を保護
クロムウェル
自ら出資してイタリアの
神学者
マルシリウスの著書
「平和の擁護者」を翻訳・出版
エラスムス(トマス・モアと親友)
にクロムウェルは
エンゼル金貨20枚、彼を支持する言葉を贈った
クロムウェルの息子、
グレゴリー・クロムウェルの妻は、
ヘンリー8世の
3番目の王妃である
ジェーン・シーモアの妹の
エリザベス・シーモアであった
↓↑
17世紀のピューリタン革命後、
共和制に移行した英国で
護国卿として権力を握った
「オリバー・クロムウェル
(1599年~1658年)」は、
トマスの姉
キャサリン・クロムウェルの
玄孫・・・
ーー↓↑ーーー
それにしても・・・「ヘンリー8世」である・・・
↓
ヘンリー8世(Henry VIII)
1491年6月28日
~
1547年1月28日)
テューダー朝
第二代の
イングランド王
在位
1509年4月22日・戴冠6月24日
~
1547年1月28日)
アイルランド卿・アイルランド王
在位
1541年~1547年
イングランド王
ヘンリー7世の次男
フランス王位への要求も継続
1513年
神聖ローマ皇帝
マクシミリアン1世と連合
4544年
神聖ローマ皇帝
カール5世と連合
フランスを攻撃するが、
膨大な戦費に堪えられず失敗・・・
↓↑
権力をふるいながら、文筆家および作曲家としても活動
「薔薇戦争」の後の危うい平和のもとで
女性君主にテューダー朝をまとめることは無理とし、
男子の世継ぎを渇望
6度結婚し、次第に肥満して健康を害し、
1547年死亡
後継者は息子の
エドワード6世であった・・・
ーー↓↑ーー
問題にしたかったのは「Crom-well」の「Crom」だったのだが・・・如何せん・・・トンダ・・・「黒目が良い」・・・
ーー↓↑ーー
「Crom(クロム)」はスペル、それ自体としては英語には無いようだ・・・あるのは「chrome」
↓
chrome
クロム合金
クロムめっきのもの(製品・仕上げなど)
Crom Cruach
クロウ・クルワッハクロウ・クルワッハ
(Crom Cruach)は
ケルト神話に登場する神
↓
CROM=capacitive read-only memoryの略
容量読取り専用メモリ
CROM=control read-only memoryの略
制御読取り専用メモリ
↓
中国・西安市より東へ35キロメートル
驪山(リザン)の北に秦始皇帝陵
この陵墓より更に東へ1.5キロメートルの所で
1974年
集団農場の井戸掘削りで発見された
兵馬俑(ヘイバヨウ)
発掘数は八千数百体・・・
その
秦始皇帝の兵馬傭坑から出土した剣
青銅製の長剣にクロムメッキ
同時に出土した矛、戟、刀や弩、矢じりにも
クロムメッキ処理
秦でクロムメッキの製造技術記録は無し
西洋で電解法によるクロムメッキは
1937年のドイツ・・・
↓
クロムの化合物の色
塩化クロム(II)=青緑
塩化クロム(III)=赤紫
酸化クロム(III)=淡緑
酸化クロム(VI)=暗赤
クロム(VI)酸カリウム=赤
クロム酸鉛(VI)=黄色
二クロム(VI)酸カリウム=黄橙
↓
chromosome=「染色体」
chromatography=分析手法
(クロマトグラフィー)
↓
クロム
ギリシャ語の「色」を示す言葉「クロマ」が語源
この元素は酸化状態によりさまざまな色を示す
発見は1797年
ボークレン
命名は
フールクロアとアユイ
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