・・・「ETV特集/NHKジュニアスペシャル・2014.05.11」の「青谷上寺地遺跡」を見たけれど・・・弥生時代の農具や漁具、装飾品、祭祀(用品)、貝塚などが出土。殺傷痕のある人骨、大陸との交易を示す中国の貨幣、脳組織が残った頭骨、古代人の脳の出土・・・1万2,000点を超える木製品。現代の人間国宝である木工の技を究めた3人が弥生時代に造られた木製品を、その時代の出土したノミや斧などの大工用具を複製し、その鉄製の槍鉋を使用して復元・・・弥生時代、鍛冶職人の鉄器用具と木工細工職人の技がなければ出来なかった「木工製品」・・・ソレを木製の「高槻、箱、コップ」として復元・・・
ーー
そもそも「弥生式時代」とは・・・旧来の説から随分とずれてきたらしいのだ・・・ウイッキペデアによれば、
2003年、
国立歴史民俗博物館の研究グループの
「炭素同位対比」を使った
年代測定法を活用した区分になっているらしい・・・
早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、
前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、
中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、
後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、
古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる
と、あったが・・・
↓
中国の三国時代の呉と
倭国が公的に交渉を行った
文献は全くないが、?
↓ ↓
↓ 230年
黄龍二年
将軍の衛温・諸葛直らに
兵1万を率いさせ、
夷州および
亶州(台湾、沖縄、日本?)
の探索
亶州には辿り着けず、
夷州の数千人を得るが
兵の大部分を失う
↓ 231年
↓ 衛温・諸葛直らを処刑する
遺物としては
呉の年号を記す
画文帯神獣鏡が
二面存在する
山梨県西八代郡市川三郷町大塚の
鳥居原塚古墳出土の
赤烏(セキウ)元年(238年)の紀年銘
兵庫県宝塚市
安倉古墳(あくらこふん)出土の
赤烏七年(244年)の紀年銘
↓↑
赤烏(セキウ・あかがらす)は、
呉の大帝孫権の治世に行われた元号
238年~251年の期間
・・・「赤烏(セキウ・あかがらす)=赤いカラス」は「日の丸」だろう・・・そして、明治四十四年(1911)9月に結成された「青鞜社」の機関誌「青鞜・創刊号」の「平塚らいてう」の「元始、女性は太陽であった」である。「古事記」の「伊邪那岐の左目」から生まれた「天照大御神」である。「青鞜」は1916年(大正五年)2月が終刊である。
ウイッキペデアによる「赤い鳥」の情報なら、1918年7月1日創刊、1936年8月廃刊の、「鈴木三重吉」が創刊した「童話と童謡」の児童雑誌である。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明し、表紙絵は清水良雄が描き、後、菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した、とある・・・ボクのオフクロが子供の頃に愛読した雑誌である・・・
ーーー
「考古学」の「証拠」は発掘された「場所」と「物自体」である。
「歴史学」の「証拠」は記録された「文字自体」と「文字字体」である。
・・・おおよその「証拠(?)=文字(?)」を提示した。その「確定」は無いが、ボクは妄想に駆られて現存の「古事記・日本書記」に「白手袋」を投げ続けてきた・・・
そして、スベテではないが、「清」と云う漢字で、他の漢字のゴミを祓って来た・・・「清水寺・清和源氏・清少納言・平清盛・清国・清教徒」の「精進・精励・精霊・清書」、「清兵衛と瓢箪(1913年・大正二年・読売新聞掲載)」である・・・日本語訳の当て字、「清教徒(ピューリタン・Puritan)」と云う「漢字」の重なりである。「ピューリタン」は「イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)」のグループで「市民(ブルジョア)革命?」の担い手となった・・・清教徒・・・清潔、潔白などを表す「Purity」に由来し、「Puritan=厳格な人・潔癖な人」で、「バカ正直」と「ムチ」は「氷炭」である・・・
・・・「純粋な・純朴な・純白な」・・・「純金な心」って?・・・守銭奴・・・形容詞・・・「純水=pure water=蒸留水」・・・「濾過装置=deionizer(デイオナイザァ)・demineralizer(デミネラィザァ)?」・・・「順推の古」は「推古天皇」だろう・・・
純粋な
mere・pure・semplice・absolute・genuine・plain
purity・innocent
純粋な=chaste(道徳的に)
clear(色が)
genuine(家柄などの血統が)
perfect
ーー↓ーー
ウイッキペデア
↓
国王と議会の対立
マグナ・カルタの理念
エドワード・コーク卿ほか
裁判官たちによって
憲法原理「法の支配」としてまとめられた
清教徒革命の際には、革命の理由として
マグナ・カルタが使われ
アメリカ合衆国建国の理由にも
マグナ・カルタが使われている。
↓
16世紀から17世紀に
イングランド国教会の中に
カルヴァンの影響を受けた改革派の
ピューリタンが勢力を持つようになった。
その中には
国教会から分離せずに
教会内部を改革しようとする者
(長老派)と、
国教会から分離しようとする者
(分離派=他の教派との相互聖餐を拒否)、
↓
会衆派
バプテスト教会
クエーカー
平等派
(信仰の自由と民主主義を唱える市民・兵士)
第五王国派
真正水平派
↓
その中間に位置する者
(独立派)がいた
↓
分離派の中には祖国での弾圧を逃れ、
1620年
メイフラワー号に乗り
アメリカに移住した者もいる
(ピルグリム・ファーザーズ)
↓
ピルグリムファーザーズ (Pilgrim Fathers)
アメリカに渡った
102名の
イギリスのピューリタン(清教徒)
「Pilgrims」は「巡礼始祖」の意
絶対王制下のイギリスから
メーフラワー(Mayflower)号で
↓
メイフラワー号出帆
1620年9月16日
(ユリウス暦9月6日)
66日間の航海を経て、
11月21日
(11月11日)
マサチューセッツ州東端、
バーンスタブル郡の
「腕の形をした半島」、
ケープコッド先端の
「釣り針(プロビンスタウン港)」に
錨(イカリ)をおろした
↓
総勢102人のピューリタン
マサチューセッツ州
プリマスに上陸
ニューイングランド
プリマス植民地を開拓
↓
メーフラワー(Mayflower)とは
5月の時期に咲く「種々の花」
セイヨウサンザシ・アネモネなど。
↓
1642年~
清教徒革命(ピューリタン革命、議会と国王派の内乱)では、
平等派が
オリバー・クロムウェルの
ニューモデル軍の母体になった
ーー↓ーー
オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)
1599年4月25日~1658年9月3日)
イングランドの政治家、軍人
イングランド共和国初代護国卿
鉄騎隊を指揮して
エッジヒルの戦いや
マーストン・ムーアの戦いで活躍し、
ニューモデル軍(新模範軍)の副司令官
ネイズビーの戦いで
国王チャールズ1世を
スコットランドに追い、
議会派を勝利に導き、
護国卿時代に
独裁体制をしいた
内乱の終結後議会は軍の解散を求めるが、
クロムウェルは議会派の中でも
国王との妥協を赦さない独立派に属し、
妥協を求める長老派と対立しており、
長老派を追放した後
クロムウェルは独立派議員による議会を主導
1648年に再び決起した
チャールズ1世を処刑
1649年5月
イングランド共和国(コモンウェルス)を
成立させた。
共和国の指導者となったクロムウェルは、
急進的な平等派(水平派)を弾圧、
中産市民の権益を擁護する姿勢を取り
重商主義に基づいた政策を示し、
同時に
貴族や教会から
没収した土地の再分配を行った。
1651年の「クロムウェル航海法」とよばれる
航海条例の制定には、
クロムウェル自身は関わっていないが
議会を通過し
オランダの中継貿易を制限
1652年
第一次英蘭戦争(英蘭戦争)
↓
護国卿
王党派による反革命の可能性もあったため、
中産階級はクロムウェルの事実上の独裁を支持
1653年に議会を解散させて
終身護国卿(護民官)
1654年にオランダと講和
(ウェストミンスター条約)、
スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと通商条約
スペインに対する攻撃を開始し(英西戦争)
1655年
ジャマイカを占領
フランスと和親通商条約
1657年
フランスと同盟条約
1658年
フランス・スペイン戦争(西仏戦争)
砂丘の戦いで英仏連合軍がスペインに勝利、
ダンケルクを占領
↓
成文憲法である
「統治章典(マグナ・カルタ)」に基づき
1654年に招集した第一議会を
1655年1月には解散
全国を11軍区に分けて
軍政長官を派遣
軍事的独裁
1656年9月17日
第二議会
国王の就任を二度拒否して
護国卿の地位のまま統治
1657年
ユダヤ人の追放解除
1290年7月18日の
エドワード1世による追放布告以来
350年ぶりにユダヤ人が帰還
1658年
クロムウェル、マラリアで死亡
跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルも引退
「護国卿政」は終わった
ーーーーー
・・・決闘(duel)・・・二人の人間が事前に決められた同一の条件のもと、生命を賭して戦う、果たし合い・・・相手の足元めがけて白手袋を投げる・・・顔を白手袋で叩(はたき)、相手が手袋を拾い上げれば受諾・・・「Snot Spot(鼻水の場所)」を拭う手袋・・・?・・・「須佐之男(素戔嗚)」は「伊邪那岐」の「鼻」から生まれたが・・・父親は「花粉症」で「洟(はな)たれ」だった・・・
「マグナ・カルタ」は「ラニーミード」で「1215年6月15日に制定」・・・大憲章・・・「憲法」があっても・・・護られるか、どうか・・・は別である。
・・・「チズ」・・・?・・・「徳川吉宗の日本地図原図発見」ですか・・・「吉宗」が庶民のタメに何かしたと思うなよ、ナッ・・・「TVドラマの彼」とは違うんだ・・・それでも、歴史的な史料としての「日本地図原図」があったとは・・・だが「国家」として危機意識があった・・・とは到底思えない・・・私的な趣味的としての「オタカラ=骨董品」・・・信長も秀吉も「世界地図」を見て「世界」を考えていたらしいが・・・
ーー
1725年
干支は「乙巳」年
日本
享保十年
皇紀2385年
中国
清国
雍正三年
朝鮮
李氏朝鮮
英祖元年
↓
誕生
1月14日(享保9年12月1日)
木内石亭、本草学者(~1808年)
6月5日(享保10年4月25日)
前田宗辰、第6代加賀藩主(~1747年)
6月21日(享保10年5月11日)
伊達村候、第5代宇和島藩主(~1794年)
10月15日(享保10年9月10日)
毛利重就、第7代長州藩主(~1789年)
月日不詳、鈴木春信、浮世絵師(~1770年)
月日不詳、山県大弐、儒学者(~1767年)
死去
1月6日(享保9年11月22日)
近松門左衛門、
歌舞伎・人形浄瑠璃の劇作家(1653年~)
2月8日 ピョートル1世、
ロシア帝国のツァーリ(1671年~)
5月24日 ジョナサン・ワイルド、
泥棒の元締・盗品故買師(1683年~)
6月29日(享保10年5月19日)
新井白石、江戸幕府の将軍侍講・儒学者(1657年~)
ーー↓ーー
徳川吉宗の日本地図原図発見、
1725年作成か
読売新聞5月9日(金)17時37分
広島県立歴史博物館(福山市)は9日、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が命じて作らせた日本地図「享保日本図」のもととなる測量原図(縦152センチ、横336センチ)が見つかったと発表した。
これまで原図の存在は確認されておらず、同博物館は「地図作製技術の発展を知るうえで貴重な資料」としている。
同博物館が寄託を受けた個人コレクションの整理中に見つかった。北海道南部から種子島までが記載され、1725年頃の作製とみられる。江戸幕府は6回、日本地図を作っており、享保日本図は5回目のもので、伊能忠敬が全国測量して作製した地図に先立つ。
当時の日本地図は各藩に提出させた地図をつなぎ合わせており、海を隔てた四国や島の位置などが不正確だった。享保日本図は、富士山など基準点を定め、複数の地点から距離を測る「望視交会法(ぼうしこうかいほう)」を用い、結果に基づいて各地の地図をつないだため、より正確になっている。余白には、原図を入手した平戸藩主・松浦静山のものとみられる「徳川吉宗が命じて作らせた貴重な地図」という内容の書き込みもある。
ーー
毎日新聞5月10日(土)7時30分
◇広島で確認 「伊能」前に完成
広島県立歴史博物館(福山市)は9日、江戸幕府八代将軍、徳川吉宗が命じて初めて全国的に測量して作られた日本地図「享保日本図」の測量原図が見つかったと発表した。享保日本図は清書が2枚あることが江戸時代の書物に記されているが、原図が確認されたのは初めて。専門家は「当時の測量技術を知る貴重な資料」と話している。
原図の縮尺は21万6000分の1で、縦152センチ、横336センチ。江戸後期に伊能忠敬(1745〜1818)らが全国を測量して作った「大日本沿海輿地(よち)全図」より前の1725年ごろに完成したとみられ、蝦夷(えぞ)地(北海道)南部から種子島(鹿児島県)まで記されている。
博物館によると、江戸幕府は計6回日本地図を製作。4回までは各藩に提出させた地図を組み合わせていたため、あまり正確ではなかった。5回目の享保日本図は、見通しが良い山や港など測量地点203カ所を幕府が指定し、各藩の測量データを集めて完成させた。一つの地点を複数の地点から見通す「望視交会法」という測量手法が取られ、富士山や彦根城などと各地点を結ぶ赤い直線が引かれている。
原図は福山市出身で元米証券メリルリンチ日本法人会長の守屋寿さん(72)=東京都在住=が、博物館に寄託した古地図などの資料848点の中にあった。守屋さんが10年以上前に都内で購入したという。東亜大の川村博忠客員教授(歴史地理学)は「江戸時代の高い技術や幕府の地図作製過程が裏付けられる」と評価している。
原図は博物館で13日から公開される。
(目野創)
2014 毎日新聞社 ALL Rights Reserved.
ーーーーー
・・・?
メリルリンチ(Merrill Lynch & Co., Inc.)
元米国三大投資銀行の一
国際的な金融機関
投資銀行業を始めとし、
世界37カ国・地域に展開していた
バンク・オブ・アメリカに買収
ウェルスマネジメント部門は引き続き
バンクオブアメリカとして、
投資銀行部門は
バンクオブアメリカ・メリルリンチで営業
1914年1月6日
チャールズ・E・メリルによって
「Charles E. Merrill & Co.」が設立
ニューヨーク・ウォール街で営業開始
数ヵ月後に、メリルの友人の
エドモンド・C・リンチが営業に参加
1915年
会社名を「メリルリンチ」とした
仲介業
ネットワークの営業方式で、
1971年に株式を公開
多国籍企業となる
プライムブローカー業務では
世界一
ーーーーー
以下はウイッキペデアを参考にした・・・
・・・女性の人名、苗字のメリル(Merill・Merrill・Meryl・Merral・Meril・Merrel・Meryl・Merle)・・・メリー、マリア・・・
・・・リンチ(lynch)=人を私刑(リンチ)で殺害・・・米国バージニア(Virginia)州の治安判事の名。リンチは私設法廷で正規の手続きによらず、残酷な刑罰を加えた・・・刑罰を「lynch law」と呼ぶ。「lynch law」は、「リンチ」と同じ意味で、英語で「lynch」は「リンチにかけて殺す」リンチ(lynch)は米国バージニア州の治安判事の名。法的手続きを経ないで暴力的制裁を加えること。
私刑=法律に基づかないで、特定集団が定める独自の掟で執行される私的な制裁・・・
「聖母の掟=オンナの金貸し」の「リンチ」であるらしい・・・?
カメラ(写真機)の機種にも「Merill」があるらしい・・・
・・・小保方晴子さん・・・理化学研究所(理研)は5月8日、STAP細胞の論文に「不正があった」とする調査結果に対する小保方晴子ユニットリーダーの不服申し立てを退け、小保方氏の求めていた再調査は行われず、研究不正の認定が確定・・・?・・・論文の取り下げも勧告。懲戒委員会を設置し、小保方氏らの処分を決める・・・調査委員長の「石井俊輔」・上席研究員にも、論文不正の疑いが持たれている問題について、理研の野依良治は委員長は「結論に影響しない」と説明?・・・ひょっこり「氷炭」島の出来事であるらしい・・・「不思議なリケンの人間(ジンカン・にんげん)組織」である・・・「人減阻指揮」・・・「癸巳夢物語」・・・2014年11月28(29)日
「癸 亥(戊・甲・壬)年」
「戊 午(丙・ ・丁)月」
「戊 子(壬・ ・癸)日」
↓↑
「辛 酉(庚・ ・辛)大運」日破
↓↑
「甲 午(丙・ ・丁)年」月自刑・日沖
「丁 卯(甲・ ・乙)月」年三合乙・月破・日刑
大運沖
「甲 申(己・壬・庚)日」年害・日三合壬
ーー
・・・以下ウイッキペデアの原文を参考、参照・・・
「打払令無謀を批判」
「戊戌夢物語」
「イギリスは日本へ対し敵国にはこれ無く、謂はゞ付合もこれ無き他人に候処、今般漂流人を憐れみ、仁義を名とし、態々送り来たり候者を、何事も取合申さず、直に打払いに相成り候はゞ、日本は民を憐まざる不仁の国と存ずべく候。若又万一其不仁不義を憤り候はゞ、日本近海にイギリス属島夥しくこれ有り、始終通行致し候得者、後来、海上の寇と相成り候て、海運の邪魔に相成り候哉も計り難く、左候はゞ自然国家の大患にも相成り申すべ」
「戊戌夢物語・高野長英・1838年(天保九年・戊戌年)」著書
「モリソン号事件(Morrison Incident)
1837年(天保八年)、
日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せた
アメリカ合衆国商船を日本側砲台が砲撃した事件」
モリソン号を打ち払い事件・・・「モリ(Morri)-ソン(son)」・・・
「モーリス・モリス(Maurice, Morris)」は
英語圏、フランス語圏などの男性名、姓
色の暗い、住人のモーリタニアの呼び方
Maurice
男の類似名=Minori, Murray, Mari, Maher, Monroe, Muir
女の類似名=Marie, Maria, Mary, Mira, Mayar, Myra
「Maurice」はラテン語の
「マウリティウス(Mauritius)」
「肌の色が黒い」に由来
↓
「メメント・モリ(羅: memento mori)」
ラテン語で
「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という警句
「死を記憶せよ」などと訳され、
芸術作品のモチーフとして広く使われる・・・
↓
古代ローマ
「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられ
将軍の後ろに立つ
使用人(給仕・執事)は、
「将軍は
今日絶頂にあるが、
明日はそうであるかわからない」
ということを思い起こさせる役目を担当
使用人は
「メメント・モリ」と言うことによって、
それを思い起こさせていた・・・
↓
当時、「メメント・モリ」の趣旨は
「carpe diem(今を楽しめ)」ということで、
「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」
というアドバイス・・・
ホラティウスの詩には
「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」
(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)・・・
この言葉は、
その後のキリスト教世界で違った意味を持つ
「天国、地獄、魂の救済」が重要視されることにより、
死が意識化され、キリスト教的な芸術作品において、
「メメント・モリ」は
キリスト教の文脈では、
「メメント・モリ」は 「nunc est bibendum」とは
反対の、徳化された意味合いで使われ、
「楽しみ・贅沢・手柄・名誉」を否定し
来世に思いをはせるものとなった・・・
↓
「墓石」
腐敗した死体を表現した墓は、
15世紀にヨーロッパの富裕階級の間で流行
↓
「死の舞踏」
「メメント・モリ」の芸術的テーマで、
死神が貧乏人と金持ちを等しく連れ去っており、
これはヨーロッパの多くの教会に飾り付けられた
植民地時代のアメリカでも、
ピューリタンの墓には
翼を持つ頭蓋骨、骸骨、
蝋燭を消す天使が描かれている・・・
↓
「静物画」
「ヴァニタス・(羅: vanitas=空虚)」
と呼ばれていた
静物画を描く際には、
死を連想させるシンボル、
骸骨(頭蓋骨)や、
花びらが落ちつつある花などが描くべき
シンボルとして使用された
↓
「写真」
写真が発明で
親族の死体の写真で
記録することが流行
↓
「時計」
現世での時間の減少を示すものとし
公共の時計には、
「ultima forsan
(ことによると、最後〈の時間〉)」
「vulnerant omnes,ultima necat
(みな傷つけられ、最後は殺される)」
という銘が刻まれた
「tempus fugit(光陰矢のごとし)」
ドイツのアウクスブルクにあるカラクリ時計は、
「死神が時を打つ」・・・
スコットランド女王
「メアリー」は、
銀の頭蓋骨が彫られ、
ホラティウスの詩の一文で飾られた、
大きな腕時計を持っていた・・・
↓
文学作品
トーマス・ブラウンの
「Hydriotaphia, Urn Burial」
と
ジェレミー・テイラーの
「聖なる生、及び聖なる死」
トーマス・グレーの
「Elegy in a Country Churchyard」
エドワード・ヤングの
「Night Thoughts」
など、テーマは同じ・・・
ーー↓
「蛮社の獄」・・・高野長英・・・
↓↑
「戊戌の変法」
清(シン)王朝時代
光緒二十四年(1898年、戊戌の年)
四月二十三日(6月11日)
~
八月六日(9月21日)
光緒帝の支持の下、
士大夫層の
康有為
梁啓超
譚嗣同
などよって行われた
政治改革運動・・・
西太后によって失敗・・・セイタイ後・・・
↓↑
道光15年10月10日(1835年11月29日)
干支乙未年(天保六年)
~
光緒34年10月22日(1908年11月15日)
干支戊申年(明治四十一年)
清(シン)の
咸豊帝の妃
同治帝の母
満州・旗人(鑲藍旗人)の
葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身
↓
赫(あかい・かがやく・カク・キャク)
赫奕・赫焉・赫赫・赫奕・赫怒・赫然
ーー↓ーー
辰=辰砂・丹砂・赤色の顔料・赤い色
に・丹朱・丹青・丹頂
丹砂を配合した不老不死の仙薬・丹
↓
十二辰
天球分割法の一
天球を
天の
赤道帯にそって
東から西に
十二等分した
十二区分
戦国期以降に
太陽・月・惑星の位置や運行の座標系
東から西への日周運動の方向
太歳紀年法
木星は約12年で天球を1周
木星の「十二辰」は
一辰=12分割された天球
木星の天体実働の移動は
「十二支」とは逆回り
木星が回る円軌道に直径を引き、
その直径を境に
木星と対称の位置に存在する
「太歳」と呼ばれる
仮想の惑星を想定し、
「十二支」における太歳の位置で
一年を記録するようになった
太歳紀年法
その後、十二辰のまえに十干も使われるようになり、
年が干支により記述されるようになった
木星実働周期、約12年・・・公転周期は11.862年
約86年で、太歳の位置は1辰ずれる
月 実働周期、約12ヶ月
太陽実働周期、約365日
ーー
辰
↓
十二支の
第五位の年月日、時刻、方位
十二方位は東南東
年は西暦を
12で割って
余りが
8の年
夏暦では
三月
時刻は
朝の
七時~九時の間
五行は
土
陰陽は
陽
十二生肖では
龍
↓
辰国(辰韓)は
朝鮮半島南部にあった国
三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の一
↓
辰州は
中国の古地名(湖南省)
↓
辰=天球の赤道を十二等分したもの
十二辰
辰=房星・蠍(さそり)座の頭部
↓
辰=厂(がけ・がんだれ・カン・ガン)
+
二
+
レ
+
弋
辰→厂+衣
漢字の意味
震える・動く・伸びる
天体の総称
北極星
日時
太陽と月とが会合、交合・・・日食
「晨(シン・ジン)」と通用して「朝」
などの意味がある。
字形
蛤(はまぐり)などの二枚貝が、
足を出しているところの象形
蜃(蜃気楼)との関係による解釈
辰は蜃の初文・・・?
貝殻を農作業に用いたからなど・・・
甲骨文で
石の字形との関係から石製の農具の象形説
説文解字
「震なり。
三月、
陽气動き靁電(雷電)振るふ。
民の農時なり。
物皆生ず。
乙、匕に從ふ。
匕は芒達(草木の芽生え)に象る。
厂は聲(こえ)なり。・・・「厂」が声?
辰は
房星、
天時なり。
二に從ふ。
二は古文上字なり」・・・「二」=「上」?
・・・「二」は「一+一」・・・
音訓
音読み・・・シン
訓読み・・・かい・とき・たつ
名のりは
のぶ・のぶる・よし
ーー
太歳紀年法
木星の鏡像である
太歳の天球における位置に基づく紀年法
木星は天球上を
「十二次」に沿って
西から東に進むが、
「十二辰」
(天球を天の赤道帯に沿って
東から西に十二等分した区画、
十二支が配当された)
に対しては、
運行の方向と順序が逆
木星の円軌道に
一本の直径を引き、
その直径を境に木星と
線対称の位置に存在する
太歳という仮想の星を設定し、
その十二辰における位置で
年を記すようにしたもの
中国の戦国時代
この直径は
寅の起点と
申の起点とを結んで引かれ、
「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、
その年は
「太歳(仮星)が寅の位置」に存在する年、
つまり
「木星(実星)が丑の位置」に存在する年
その翌年は
「太歳在卯」となり、
「木星は子」に位置
「太歳」の各位置を
「年」とした
ーー↓
「超辰」
太初の改暦
太初元年(紀元前104年)
丙子から
丁丑に改めたが、
後の三統暦では遡って
太初元年を
丙子に戻し、
太始二年(紀元前95年)を
乙酉から
丙戌に変更
後漢においては
超辰を補正しなかった
以後、太歳の位置とは関係なしに
機械的に干支を進めて
60年一周を繰り返す
干支紀年法が使われ、
現在まで継続
いつから
干支紀年法が使われたかは不詳
見かけ上、
太初暦の太歳紀年に基づけば
太初元年から、三統暦の
太歳紀年に基づけば
太始二年からの干支が
現在まで連続
ーーー
古くは
十日十二辰、
十母十二子とも呼称
起源は
商(殷)代
日・月・年のそれぞれに充てられ、
60日(約、2か月)、
60ヶ月(約、太陰太陽暦五年)
60年などをあらわす
日本
「干支(えと)」の
「十二支」
十干と十二支の組み合わせが
「干支」であり、
「えと」と言う読みも
十干の兄(え)と弟(と)に由来
↓
10と12の
最小公倍数は
60なので、干支は60回で一周
ーー
1日(24時間)を
十二支に分けた時期は漢代
十二支に対して十二獣を充当することは
秦代にも見られるが、
文献における初出は
後漢代から
干支による紀日
干支紀日法
殷代の甲骨文に現れている
西洋では1月を4分割して「週(7日)」
中国では1月を3分割して「旬(10日」
十干という順序符号をつけた
山東省臨沂県(りんぎけん)
から出土した銀雀山漢墓竹簡、
および
武帝七年(元光元年、紀元前134年)の
暦譜竹簡の例が最古
ーーー
木星の公転周期は正確には11.862年
実際には1年に一次と少し進んでいることになり、
約86年に一次(太歳は一辰)ずれる
これを「超辰」と呼ぶ
超辰によるずれを解消するため、
秦の
顓頊暦では、
太歳を設定するための直径を
丑の起点と
未の起点に引き、
秦の
始皇帝元年(紀元前246年)を
木星が亥にあり、
太歳が寅にある年と
基準を設けた
前漢の
太初元年(紀元前104年)
改暦(太初暦)では、
超辰を行い、
丙子を丁丑に改めた
後に
三統暦の補正では
超辰は
114年に一次ずれるとし、
太初元年を再び
丙子に戻し、
太始二年(紀元前95年)を
乙酉から丙戌へ超辰するとした
三統暦による
太歳紀年と後の干支紀年は
太始二年から見かけ上、同じ
ーー
干支紀年法
後漢の
建武二十六年(西暦50年)は、
劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、
「庚戌」を「辛亥」とすべき年であった
光武帝の学者たちは
超辰を行わず、
庚戌のまま紀年を続けた
元和二年(西暦85年)
改暦で三統暦の超辰法自体が廃止
これ以後、
木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった
木星の運行とは関係なく、
60年周期の干支を1年ごとに進めていく
干支紀年法が用いられるようになった
ーー
生肖紀年法
十二支と十二獣の結びつき
1975年
湖北省雲夢睡虎地の
秦代の墓から出土した竹簡
に動物が配当
されている様子が伺われる
後漢の
王充が著した
「論衡・物勢篇」
十二支を動物名で説明
ーーー
ベトナム 鼠 水牛 虎 猫 竜 蛇 馬 山羊 猿 鶏 犬 豚
モンゴル 鼠 牛 豹 兎 竜 蛇 馬 羊 猿 鶏 犬 猪
ロシア 鼠 牛 虎 猫 竜 蛇 馬 山羊 猿 鶏 犬 豚
ベラルーシ鼠 牛 虎 猫 竜 蛇 馬 羊 猿 鶏 犬 豚
ーーー
「ネコ」は「ねずみ(鼠)」ではなく、「ウサギ(兎・兔)」が重なっている・・・「子→刑←卯」・・・「卯=猫」・・・ハナシがチガウ・・・
・・・ガニメーデスの持つポットから注がれる水・・・「水瓶座η流星群が極大」・・・6日と7日の午前2時ごろから東の空に星屑(流星の水)が注がれる・・・「ガニメーデス」はオリンポス神殿の給仕で、「ゼウス(ジュピター)」の小姓である・・・「森蘭丸」は織田信長の小姓であった・・・江戸時代の殿中の給仕なら「茶坊主」だが、「河内山宗春(1781年~1823年)」は幕府の茶坊主、奥坊主組頭の「河内山宗久の子」、水戸家を強請(ゆす)って捕らえられ獄死した人物。室町時代から存在していた職名らしい・・・一般的には権力者の威を借りて威張る者、太鼓もち、幇間(ホウカン・たいこ)・・・秀吉の異色の側近ならば「千利休」か、「御伽衆」の「曽呂利 新左衛門」か・・・「小姓」だから「少年」だろう・・・「森蘭丸」・・・
以下は例の如く、原文は「ウイッキペデア」を参考抜粋し、少々改作したモノ・・・
ーーー↓
みずがめ座(水瓶座、Aquarius)
黄道十二星座の1
トレミーの48星座の1
α星=サダルメリク(Sadalmelik・幸運な1人)
2番目に明るい恒星
天の赤道上にある
β星=サダルスウド(Sadalsuud・最高な幸運)
最も明るい恒星
γ星=サダクビア(Sadachbia・秘密の幸運星)
δ星=スカト(Skat・シェアト=Scheat・脛=すね)
3番目に明るい恒星
「γ星、ζ星、η星、π星」は、
水瓶の注ぎ口=the Water Jar(水瓶)
日本では
「三ツ矢」
命名者は
野尻抱影
↓
野尻 抱影(のじり ほうえい)
本名・正英(まさふさ)
1885年11月15日~1977年10月30
日本の
英文学者
随筆家
天文民俗学者
早稲田大学文学部英文学科
1906年
早稲田大学文学部英文学科卒業
小泉八雲の指導を受けた
準惑星である冥王星の和訳命名者
↓
野尻抱影の
父
政助は、江戸時代に
道成寺の
山門の再建や
本堂の修復などを手がけた
宮大工
仁兵衛の子孫で
嘉永三年(1850年)五月二十七日
紀伊国
日高郡
藤井村(和歌山県・御坊市・藤田町)で
源兵衛の長男として生まれた
19歳の時に
明治維新を経験
和歌山市の
倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入り、
その後
日本郵船に入社、勤勉実直な人だった
↓
野尻政助の
弟は作家の
大佛次郎
妻は
宗教家・教育者・言語学者の
大島正健の三女
麗
大島正健の妻は
野尻の義母
千代で、
日本に
サケ・マス孵化事業を導入・推進した
伊藤一隆の妹
↓
野尻抱影は
古今東西の星座・星名を調べ上げたことから
「和製アレン」とも・・・怪しい人物である・・・?
↓
リチャード・ヒンクリー・アレン
(Richard Hinckley Allen)
1838年~1908年
実業家
アメリカの博識家
アマチュア博物学者
天文学者を志していたが、
視力が弱かったため断念
ニューヨーク(紐育)州
バッファロー(野牛)出身
1899年
「星名とその意味
(Star-Names and Their Meanings)」を出版
ギリシア・ローマ、アラブ、中国
および
他の多くの地域の
星座と恒星に関する
天文学の歴史を広範囲にわたって調査したモノ
星の名称についての重要な文献、資料の源となった
マサチューセッツ州
ノーサンプトンにて死亡・・・
ーー
みずがめ座流星群
毎時約20~30個の流星が観測
5月4日ごろ
6月28日ごろ
8月中旬ごろ
↓
神話
メソポタミア
アッカドの英雄とエンキが結びついた
グラ(Gulla、偉大なるもの)
ギリシア神話
ひっくり返った水を流し続ける水がめ、
水甕(瓶)を持つ男性
ドイツ語ではみずがめ座は
「水の男-ヴァッサーマン」
英語では
「ウォーターマン」
ガニュメーデース(わし座)の持つ水がめ
水がめから流れた水は、
エリダヌス川(エリダヌス座)の流れになる
ーー
宝瓶宮
黄道十二宮の11番目の宮
獣帯の黄経300度~330度
1月20日(大寒)~2月19日(雨水)
太陽が通過機関(太陽通過時期はその年ごとに異なる)
四大元素の空気
対極のサインは獅子宮
占いの
ゾディアックシンボル
水瓶から水を流している男または少年
標準期間 - 1月20日~2月18日
2区分 - 男性
3区分 - 定着
4区分 - 風
居住の座 - 土星・天王星
高揚の座 - 水星
障害の座 - 太陽
転落の座 - 海王星や冥王星
↓
ギリシャ神話
トロイ王子(イーダ山で羊飼の美少年)
ガニメーデス
姿を鷲に変えた
ゼウス
浚われ
神殿でポット(水瓶)を手にした
給仕(ウエイター・waiter)とされてしまった
↓ ウエイター・waiterの類字発音
↓
↓ ウォータ=水=water
↓ アクア=aqua(ラテン語・akw-ā)
↓ 水・液・溶液
↓
給仕・小姓=ページボーイ (page boy・pageboy)
髪型=pageboy
ペイジェント(paygent)
↓
降誕劇・野外劇・降誕行列祭り
↓ ページ(頁)=page
ガニメーデス→蟹目重出素・臥似女重出諏(数・主)
ーー↓
危宿=きしゅく・うみやめぼし
二十八宿の一
北方
玄武七宿の第五宿
虚宿=きょしゅく・とみてぼし
二十八宿の一
北方玄武七宿の第四宿
ーーーーー
・・・
・・・明日は「丁丑」の日だけれど・・・「火(ひ)の弟(おと)のウシ(牛・憂・愛・主)」・・・イケガミのコトバの「平等だからハタラクなくなった」は本当か?・・・
元々「平等」と云う「概念(コトバの本質)」がハッキリしていないのだろう。ソ連には元々「平等」なんてものはなかったのだ。じゃぁ、フランス革命以来の「自由・平等・平和」の「平等」とはナンなんだか?・・・「平等」に扱われる「人間」とはナンなんだか?・・・「個々人の能力自体」が「平等」でアルわけがない。個々人の存在は「能力差」があるのは当然である。
「個々人の能力差」とは「差別」ではなく、「比較」され「区別」されるモノなのだ。男女、年齢、ジジババ、夫婦、親子、兄弟姉妹、師弟、友人・・・
元々、個々人の能力を基準にした「平等」としての諸関係では生きていけないのが「人間社会」である。異なった諸能力での相互依存関係、協同依存関係での衣食住の生命活動である。
「平等」と云うコトバは、「対人関係」での「対等」、「同等」と云うコトバと、「社会的公平」と云うコトバがコンガラがっているんだろう。しかも「公平」と云う「コトバ」もナニをベースにしての「公平」なのかを曖昧にしている。「法」なのか、「共産党(?)組織」なのか、「専制独裁者」なのか、「官僚組織」なのか、「ムラの掟」なのか・・・それとも、「カミのモト」なのか・・・「吝嗇経済学者」のタケナカのキベンのモトなのか・・・
「男女の恋愛」に「平等」があるなんてのは妄想だろう、ワタナベジュンイチはドンカンを装えってコトなんだろう・・・ドンカンでは「性感」は保障されないし、人口増加もないだろう・・・
「働かざるモノは喰うべからず」ではないだろう。この世の中には身体能力として「働けないモノ」が大勢存在するのだ。もちろん、「労働市場の需要供給」から疎外される「働けないモノ」も大勢存在する・・・
ーーーーー
2014年 甲午(丙・ ・丁)年
5 月 戊辰(乙・癸・戊) 月
三合壬
5 日 丙子(壬・ ・癸)日
刑
5 時 辛卯(甲・ ・乙) 時
月齢 5.9(中潮)
ーーーーー
・・・