・・・終わったね、オリンピック・・・ギリシャ(希臘)・・・台風は追い打ちをかけて北海道に駈け上って来ている・・・シリウス=「天狼(星)」=「おおいぬ座(大犬座、Canis Major)はトレミーの48星座の1」・・・日本で冬の南の空に低く見られる星座・・・「冬の大三角」・・・「シリウス(天狼)」か、盲目のオリオンを救った「アポロン(太陽)=ヘリオス」か・・・牝狼か牝狐か・・・天照大神・・・
ーーーーー
シリウス(α星)
全天21の1等星の中で最も明るい
大犬座(シリウス)
小犬座(プロキオン)
オリオン座(ベテルギウス)
の3つの1等星で、
冬の
「大三角」を形成
↓↑
プトレマイオス
この星座の周りの
十一(11・壱拾壱)個の星を
「星座を形作らない星」
とした
現在、そのうちの
九(9・玖)個は
鳩(はと)座、
一(1・壹・壱・弌)個は・・・聿・位置・位地・市・佚
鴪・鷸
一角獣(いっかくじゅう)座、
一(1・壹・壱)個は
大犬座の星
↓↑
「偽エラトステネス」・・・「偽」ですか・・・
↓↑ 記録、造作されたモノに
「贋」は無い・・・
↓↑ 「まなんだ結果」である
や
「ヒュギーヌス」
は
「神犬ライラプス」に結び付けている
↓↑
「ライラプス」は、
「ヘーパイストス(鍛冶神)が
ゼウスのために作った
必ず獲物を捕まえる犬で
その飼い主は転々とし、
アテナイの
「ケパロス(Cephalus)」
のものとなった
↓↑
「アムピトリュオーン」は
「テーバイ」を苦しめる
「テウメーッソスの牝狐」
を退治するために
「ライラプス」の飼い主の
「ケパロス」を頼ったが
「牝の狐」
は
「ヘーパイストス(鍛冶神)=ヴィーナスの夫」
が誰にも
捕まらない宿命として生まれ
「ライラプスの犬」は
延々と追いかけ続けるコトになった
ゼウスは、
犬も牝狐も
石に変え、
空の大犬座とした
別の神話では
オーリーオーンの「猟犬」で
彼の足元で
ウサギ(兎・うさぎ座)
を追いかけている「犬」
(アラトス、ホメロス、ヘシオドスなどの説)
↓↑
「シリウス(大犬座)」の日本の呼称
青星=アオボシ(北海道・石川)
唐耒(からすき・唐犂)の
アト(後・跡・迹)ボシ=北海道
・・・蝦夷のアイヌ語ではないだろ?
明治の
入植開拓時代以後?
風星=石川
大星=広島・香川・高知・三重
えぬぐ星=岐阜?・・・ナイジェリア南東部の州で
州都、エヌグ?
「ヱ・衣・ゐ」脱ぐ、抜く、貫く
抽く、擢く?
鴉(エ・ア・からす)
踝(エ)=くるぶし
足首の関節内外両側の突起部分
エ脱(拭)ぐ?
柄(え)=道具類につけた取っ手
柄杓のエ・キノコのエ
葉柄や花柄
無理な理屈、口実の「エ」つける
雪星=埼玉
「δ星-ε星-η星」で
三角星=宮城・岩手・山形・奈良
鞍掛星=静岡
鱗(うろこ星)=静岡
倉端(くらはし)=土佐
南の色白(イロシロ)=島根
↓↑
小犬座
プロキオン
小さいオオボシ=三重
イロシロ=島根
プロキオン(Procyon)
小犬座α星
最も明るい恒星で
全天21の1等星の1つ
大犬座のシリウス、
オリオン座のベテルギウス
ともに、
冬の
大三角を形成
冬のダイヤモンドを形成
する恒星の一
↓↑
小犬座
学名=α Canis Minoris
ラテン(羅典)語
プロキオン (Procyon・Procion・Prochion)
ギリシア語 Προκύων
「犬に先立つもの」の意
犬の星(シリウス)が東の地平線から昇ってくる
少し前に、姿を現すことに由来
↓↑
アラビア語では、「北のシリウス」を意味する
「アッ=シアラー・アッ=シャーミヤ
(aš-ši‘ra aš-šamiyah) 」
シリウスが「南のシリウス」を意味する
「アッ=シアラー・アル=ヤマーニヤ
(aš-ši‘ra al-yamāniya) 」
対して命名されたもの
島根県地方で
「色白 (いろしろ) 」と呼ばれ
シリウスは「南の色白」と呼ばれている
↓↑
おおいぬ座=狩人オリオンの猟犬
こいぬ座の神話では
アクタイオンに噛み付いた猟犬
冥界の門を守る三つ首の獣
ケルベロス
乙女座の
女神に関係する
イカリオス王の犬
メーラ等
犬の姿とされたのは
古代ギリシャ以後のこと・・・
古代バビロニアでは
アルゴ船座の一部を、
「弓の星」として、
シリウスは
その弓につがえた
「矢先」に当たる星
↓↑
神話
狩人
ケファロス
は、
エレクテウス王の娘
月の女神
アルテミスの侍女
プロクリスと結婚していたが
曙の女神
オーロラに愛され、
三角関係になった
女神は、
「プロクリスも、浮気をしている」
と言いいい
ケファロスは、
妻(プロクリス)を疑い
オーロラの力を借り、
別の男に変身し、
旅人を装い
妻を浮気に誘った
妻は誘惑に負け
その時に
ケファロスは元の姿になり、
妻を責めた・・
プロクリスはその後、家を出て放浪し
クレタ島の王
ミノスの愛人になったが
王は
妻の
パシパエの嫉妬に恐れ、
プロクリスと別れる事にし
ミノスは
プロクリスに
「獲物を
必ず捕まえる
俊足の猟犬
レラプス
と
投げれば
必ず当たる槍を与えた」
プロクリスは
夫
ケファロスとの復縁に
この二つを彼に贈った
その後
国中を荒す
牝狐を狩るため
ケファロスは
猟犬
レラプス
を連れて狩猟に出かけた
だが、
牝狐は非常に素早く、
捕まえることができず
ケファロスは、
投げれば
必ず当たる槍を投げようとした時
レラプスも牝狐も
石になってしまった
ゼウスが、
猟犬と牝狐が傷つくのを恐れ、
石に変え
猟犬の
レラプスは天に上げられ、
大犬座になった・・・
牝狐は「狐座」にはならなかった、らしい・・・
↓↑
女神オーロラの呪いで、
夫の
ケファロスは
茂みにいた
妻
プロクリス
を獣と間違って、
その槍で殺してしまった・・・
↓↑
ライラプス=レラプス=(猟犬)
(古希: Λαῖλαψ, Lailaps)
ギリシア神話
狙った獲物は決して逃がさない「犬」、
そして
狙った獲物は決して外さないという「槍」
とともに
クレータ島の王
ミーノースの宝物
↓↑
ヘーパイストス
が
ゼウスのために作った
犬(ライラプス=レラプス)
ゼウスはこれを
エウローペー・・・・ヨーロッパの女神、ゼウスが誘拐
に
槍とともに与え、
エウローペーは息子の
ミーノース
に与えた・・・
アルテミスの宝物だった、とも・・・
↓↑
アテーナイの王
エレクテウスの娘
プロクリス
は夫
ケパロス
と仲たがいしたときに
ミーノース
あるいは
アルテミス
から
ライラプス(猟犬)
と
槍を得て、
ケパロスと仲直りしたさいに
それを
夫(ケパロス)に与えた。
↓↑
後に
アムピトリュオーン
は
テーバイ
を苦しめる
テウメーッソス
の
牝狐を退治しなければならなく、
アムピトリュオーン
は狩りに
ケパロス
の猟犬に頼った
タポス島
との戦争で得られるであろう戦利品と
引き換えに
ライラプス(猟犬)を
テーバイに連れて来て狐狩りを行ったが
際限なく
牝狐は逃げ、
猟犬は牝狐を追いかけた
ゼウスは、
猟犬ライラプスが獲物を取り逃がすことも、
牝狐が捕まることも
運命に反していたので・・・「矛盾」するので?
両者を石に変えてしまった・・・
↓↑
・・・ギリシャ神話は複雑に入り組んでいて、人間関係の名前にも混乱する。それでも、古代ギリシャ人は網の目のような人物と神々を張り巡らしてモノガタリを作りあげた・・・他の犬も登場するが・・・
↓↑
オルトロス
(古希: Ὄρθρος, Orthros, ラテン語: Orthrus)
or
オルトス
(古希: Ὄρθος, Orthos, ラテン語: Orthus)
双頭の犬
オルトロス=速い
オルトス=真っ直ぐな
↓↑
テューポーン
と
エキドナ
の子
ケルベロスは兄
↓↑
母、
エキドナ
との間に
ネメアーの獅子、
パイア(クロミュオーンの猪)
スピンクス・・・・・・・・・スフインクス
をもうける
黒い双頭の犬
鬣(たてがみ)一本一本
と
尻尾が蛇
落ち着きが無く、せっかち
クレータ島
or
ゲーリュオーン
の雄牛を守っていたが、
ヘーラクレース
に棍棒で殴り殺された・・・
↓↑
シリウス(α星)
ギリシャ語の
セイリオス
焼き焦がすもの・輝くもの
↓↑
エジプトでは
日の出前、
東の空に
シリウスが出ると
夏至
ギリシャでは
シリウス=犬の星=キュオン(犬)
禍のしるし、
疫病の兆し
ヨーロッパやローマでは、
7月~8月頃
シリウスが太陽と並んで輝く時期を
ザ・ドッグ・デイズ=犬の日
厄払い日とした・・・
↓↑
古代エジプト(約5000年前)
シリウスは
夏至の「日の出前」に、
太陽と共に東に昇り
一年の元日とした
シリウスを
アヌビス神(犬の顔、人の姿の死の神)とし
ナイル川増水を兆す星として、
ソティス(水上の星)と呼ばれた
女神
イシス
の光とも見られ
シリウスの出てくる方向に
女神イシスの神殿が建てられた
太陽光線とシリウスの光が、
イシスの神殿内に差し込んだ・・・
↓↑
中国では
天狼(テンロウ)星
ミルザル(β星)
アラビア語のアル・ムルジム
「吠えるもの・予告するもの」
中国では
「野鶏(ヤケイ)」と呼んで
α星(狼)がβ星(鶏)を狙っている様子・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
ーーーーーーーーーー
「隋書・俀國伝」・・・・「俀=イ+妥(爪女)」
「妥女=うぬめ=采女」か?
妥協・妥結・妥当
↓↑ ↓↑
「鶏(にわとり)=鷄=雞」は
「阿毎王朝」の
「阿輩-雞彌」の「雞-彌」・・・
↓↑
「開皇二十年(600年)、
倭王姓、阿毎、
字、多利思比孤、
號、阿輩-雞彌、・・・・アワの「雞-彌」?
阿波・安房・・・?
遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。
使者言、
倭王、
以天為兄、・・・・天=夜・・・天体観測・天文観察
以日為弟、・・・・日=昼・・・政治・実務官吏
天、未明時、
↓↑出、聽政、
跏趺坐、・・・跏趺(カフ)=「跏=足+加」
↓↑ 「趺=足+夫」
これは単純に音写の
yoga(瑜伽)なのか?
意味としての
yoga(相応)なのか?
↓↑ 左右の足の甲を
反対の足の腿の上に交差し、
足の裏が上を向くように組む座法
結跏趺座 (ケッカフザ)なのか?
足(たり・王)の
↓↑ 夫を加える意味なのか?
日、出、
便停・・・・・便=たより・すなわち
↓↑ 障りなく事が運ぶ
都合がよい・簡単
便益・便宜・便法
便覧・便利=簡便・軽便
至便・不便・方便・利便
くつろぐ・ふだんの
やりやすい・ついで
てだて
便船・便乗
やすらぐ
便衣・便殿
大便・小便(いばり)
便所・便通
口がうまい・へつらう
便巧・便佞(ベンネイ)
すなわち(即・曽・迺・乃・則
↓↑ 輒=車+耳+乚(乙)
わきぎ・チョウ
車の両側の前に
そりだしている板
すなわち
いつでも
たやすく
類字は
軋=車+乚(乙)
きしる・きしむ
擦れあって音をたてる
軋轢(アツレキ
くわしい・こまかい
軋辞
同義字は
輙=わけない・容易い
かるがるしい
↓↑ 類字は
↓↑ 「陬」=片すみ・片田舎
↓↑ 「諏訪」の「諏=言+耳+又」
理務、
云、
委、
我弟。
高祖
曰、
「此太無義理。」
於是、訓令改之。
↓↑
「王妻、
號、雞彌、・・・「雞-彌」
後宮
有
女
六七百人。
名、太子、
為、
利歌彌多弗利。・・・利-歌彌-多-弗利
無城郭。
内官有十二等
一曰、大紱、・・・1
次、 小紱、・・・2
次、 大仁、・・・3
次、 小仁、・・・4
次 大義、・・・5
次、 小義、・・・6
次、 大禮、・・・7
次、 小禮、・・・8
次、 大智、・・・9
次、 小智、・・・10
次、 大信、・・・11
次、 小信、・・・12・・・・十二冠位
員、 無定數。
有軍、尼一百二十人、・・尼=比丘・仏門の女
↓↑ あま・ニ・ジ(ヂ)
「牟尼=釈迦牟尼」
牟尼=賢者・聖者・寂黙
山林で沈黙の行をする人
「尼父 (ジホ) 」=孔子
孔子の
字は「仲尼」
↓↑ 諱は「丘」
猶、 中國、牧宰。・・・尼=牧宰=国守
↓↑ 尼=尸(屍)+匕(牝)
七(7)
ヒ(匙)
匕(匕首=短刀・小刀・懐刀
手裏剣・ドス
↓↑ 鍔の無い小刀)
八十戸置
一伊尼翼、
如今、
里長也。・・・・・一伊尼翼=里長
十伊尼翼
屬
一軍尼。」
↓↑↓↑
ーーーーー
「尼父 (ジホ) 」=孔子
孔子の
字は「仲尼」
諱は「丘」
↓↑↓↑
孔子・・・?
「孔=孑(ひとり・ケツ・ケチ)+乚(イン)」
「孑孒(ぼうふら)」の乚(乙)
の のこり・あまり
「子=一(はじめ)の了(おわり)」
「子、孑、孒、孓」は異字漢字である・・・
↓↑↓↑
紀元前552年(or551年)
紀元前552年9月28日~紀元前479年3月9日)?
魯国
昌平郷辺境
陬邑・・・・・・・陬=阝(阜)+耳+又
(山東省曲阜(キョクフ)市)
陬邑大夫の次男として生まれた
父は
叔梁紇(シュクリュウコツ)
母は
16歳の巫女であった
顔徴在(ガンチョウザイ)
不倫関係
or
尼丘山に祷って生まれた=処女懐胎?
孔子の祖先は宋の人(史記)
3歳で父の叔梁紇を失い
母の顔徴在とともに
曲阜へ移住し
17歳の時に母も失い、孤児となった
幼いころは
「葬式の儀式」で遊んだ・・・
紀元前534年
孔子19歳
宋の
幵官(ケンカン) 氏・・・幵の官→鳥居の形だろう
と結婚
翌年
子の鯉(リ)、・・・・・・鯉=魚+里
字は伯魚・・・・・・・・伯の魚
が誕生
苛政は虎よりも猛なり=苛政猛於虎也
「孔子過泰山側。有婦人哭於墓 者而哀。
夫子式而聽之、使子路問之曰、
子之哭也、
壹似重有憂者。
而曰、然。
昔者、吾 舅死於虎、
吾夫又死焉、
今、 吾子又死焉。
夫子曰、何爲不去也」
「曰、
無苛政。・・・・・・・苛(苛酷)な政(治)が無い
夫子曰、小子識之、
苛政猛於虎也」
↓↑
・・・「取=耳+又」が「とる」と云う意味は「聴き取る」と云うコトよりは、文字を
「目で確認せよ」と云うコトだろう・・・が、「漢字」が日本語になっていたから・・・困ったのは・・・後から来た「渡来人・帰化人」・・・「今来の秦氏、漢氏」である・・・
ラテン(羅典)語の「Confucius(孔夫子・孔子)」は
「That confused them. He confuses them.」
・・・そして、
「Don't confuse me with the facts.」であるが・・・
「There are no facts, only interpretations.」
である?
「The search for truth begins
with the doubt of all ‘truths’
in which one has previously believed.」
「Friedrich Nietzsche」
・・・「フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年)」ですか・・・?・・・「振り意訳理比・似意智恵」・・・
↓↑
ーーーーー
乚(乙)=「乚」は「隠」の古字
かくす
人の目に触れないようにする
物で覆ったり、しまいこんだりする
物事を人に知れないようにする
秘密にする
死者を土に埋める
かくれる
表面・外部から見えないところに存在
世間に名前や力が知られないでいる
去る・いなくなる
ひそむ・ひそかに
かすか
いたむ=心配する=(同意語)=慇
悲しむ
落ち着いている
盛ん=殷
拠(よ)る
↓↑
ある物事の根拠
基準・理由となる
甲乙の「乙」・・・偶数の始り「二=次」
甲乙の「甲」・・・奇数の始り「一=初」
甲音・・・甲高い音声
乙音・・・押さえてつかえさせ止める
書物を読んで口調をとめるしるし
吃音(どもり・キツオン)
↓↑
ーーーーー
・・・以下、付録・・・
↓↑
大犬座
ウェズン(δ星)
アラビア語のアル・ワズン(重さ)が語源・・・重(かさなる)?
地平線から昇る重そうな星・・・・・・・・重なってる星?
冬の南の地平線上低く見える星
アダラ(ε星)
アラビア語のアル・アダーラ(処女)・・・・乙女
「δ、η、σ」を含めた星(座)の名前
日本で
「δ、η、ε」の三つの星は
「三角」
「馬の背中につける鞍」の「Λ形」で
「鞍掛け星」
フルド(ζ星)
アラビア語のアル・クルド(猿)が語源・・・猿・申・狙・猨
猴・沙流
大犬座の「ζ、λ」
と、
鳩座の「γ、δ、θ、κ、λ、μ、ξ」・・・鳩=九+鳥
アルドラ(η星)
アラビア語のアル・アドラ・アル・ジャウザ
「オリオンの乙女」が語源
ーーーーー
・・・???・・・
・・・以下も引用添付・・・
「カタステリスモイ」=「星々の配置」
(ギリシア語
Καταστερισμοί, Catasterismi)
星々や星座の神話的な起源を、
ヘレニズム期の解釈で語った
アレクサンドリアの散文
天文学者の
「エラトステネス」の著作・・・?
この「作者?」は
占星術には詳しいようだが、
エラトステネス
の科学的な推測・問題解決とは何の関係もない・・・?
↓↑
・・・「日常生活の精神面」には膨大な影響を与えてきた・・・
↓↑
「占星術は天文学の起源だが、
天文学は
論理的問題解決能力に欠ける占星術の
前兆や解釈を切り捨てている。
この分離は紀元前1世紀頃、
アレクサンドリアの知的サークルでなされた。
そうした理由から、
『カタステリスモイ』
は
エラトステネス作とする偽書で、
その作者は
「偽エラトステネス(pseudo-Eratosthenes)」
と呼ばれている」
・・・名前を騙(かた)ったってか?・・・
↓↑
「オリジナルは失われていて、それに基づいて、
1世紀末にまとめられた要約の形で残っている。
その後、長い期間をかけて熟成した。
メソポタミアの黄道十二星座が、
ペルシア人解釈者を経由して
古代ギリシアにもたらされ、翻訳された。
翻訳するにあたっての重要な要素は、
個々の星や
プレアデス星団や
ヒアデス星団のような星座の形を、
ギリシア神話の何にあてはめるかである。
古典ギリシア時代、
プラトーンはというと、
「遊星」
とそれを管理する神々とを
完全に切り離していた。
ヘレニズム文化には、
その繋がりは切り離せないものになっていた。
たとえば、
アポローンはもはや
太陽の統治者ではなくなり、
ヘーリオス、
つまり太陽そのものになった」・・・
↓↑
「内容は
第1章から第42章
トレミーの48星座のうちの43を扱っている。
その中にはプレアデス星団も含まれる。
第43章と第44章
5つの惑星と銀河系を扱っている。
ヘーシオドス作と言われる失われた本
『アストロノミア(Astronomia)』
からの引用がいくつかある。
神話的主題の多くは
アラートスの
『現象(Phaenomena)』(紀元前275年頃)
から引かれていて、
実質的にアラートスの書いたことを
脚色したものである。
反対に、
後世の
ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス作と言われる
『天文詩』は『カタステリスモイ』
と類似」
ーーーーー
・・・・だから、ナニ・・・
・・・「誤嚥(ゴエン)」ですか・・・この漢字の発音でイメージするのは「ゴエン」だが・・・「日本語の漢字」って、難しい・・・「食べ物や飲みものを飲み込む動作を「嚥下(エンゲ)」、この動作が正しく働かないことを嚥下障害」、「誤嚥性肺炎・嚥下(エンゲ)は飲食物が食道ではなく気管に入ってしまうこと・喉周辺の筋肉や嚥下中枢(延髄)の機能が衰えた高齢者による事故が多く、後に誤嚥性肺炎を招く・声門部に於ける局所的な神経支配の障害、物理的な閉鎖障害により閉鎖不全がおこり、誤嚥が起こる」、「嗽(うがい・gargling)時の水や、唾(つば)の飲み込みで、食道ではなく気管支に入ってしまうコト」・・・寝ている最中に唾での「誤嚥」で咳き込んでしまうコトが度々である。最近は時々、鼻呼吸ではなく、口を開けて寝ているのか口と咽喉、そして気管支がカラカラに乾き干上がって(渇いてではなく)口には唾もなく粘膜がヒッツいたようになる・・・「誤嚥(ゴエン)」だから、又、同じようなコトを書き込むか・・・「口」の「燕」だから・・・
↓↑
「嚥(エン)」は
「口」+「燕(つばめ・つばくろ・つばくら」
で、異字体は、
「玄鳥・・ツバメのハネの色だろう
もしくは、「亠(音の略)+幺(小)」
鷰・・・鷰+鳥の合体
䴏・・・燕+鳥の合体
㷼・・・「灬」=火、炎だから夏の鳥?
觾・・・角は二股の燕尾の形だろう
𪈏・・・非の間に其か「甘+只」にも見えるが?
鳦・・・鳥の乙だが、
乙(オツ・イツ)は
乚(イン)の変形で
アルファベットならZで、Lである?」
問題は「鷰」の分解で
「鷰」=「廿」+「北(丬+匕七ヒ)」+「口」+「鳥」
「燕」は、
「燕=廿+北(丬=爿)+口+(匕七ヒ)+灬」
文字の象形からの原義は
「ツバメの子が餌を丸呑みにする様子」
かららしいが・・・
旧字の「爿=丬」は
「寝台を立てた縦の漢字」
で、仏教では「北枕」は凶だが、
方位学(風水)では吉である。
脳ミソは冷めているのがイイから
ベット(爿)の漢字も縦で「北」を示唆している
「北=爿+匕」で「北の政所=大奥」である。
色々な説があるらしいが
「北条政子」=「尼将軍」が欠落している・・・
「御-台所」の吉方位は概ね「北」
生年の保元二(1157)年の「丁丑年」は記録されているが
生月日が不詳である、が
1157年、陰暦で二月節分前なら
「丙子年」である。
「御台所」=「北の政所」
豊臣秀吉の妻は「高台院」
「寧子、禰々(ねね)、於禰(おね)」で
こちらは死亡が「甲子年」の
寛永元年九月六日(1624年10月17日)、
「高台院」
「ねね(おね)=禰々」は
「北=子=ねずみ」で
「則天武后(後周)=武照」も
「蕭淑妃」から
「北=子=ネズミ=鼠」と罵られた
「北」の
「爿(寝台)」に寝ているのは
「匕=牝=女」だろう
「伏(イ+犬)=ふせる=人+犬」
は人の傍に居る番犬である。そして、
「寝(宀爿ヨ冖又)」=「床=牀」の台に
「伏す」で、
「伏」の類字は
「状=狀→状態」
であるからイメージの連鎖としての
「廿+丬(爿)+口+匕(七ヒ)」
「廿(にじゅ・ジュウ・ニュウ)」=卄
t十+・七十→㐂(喜)
喜寿
廿+口=卄+口=甘→「坩・壺・壷・瓶・壜」
の
「爿=巣・棲=ねどこ」
で連鎖的な関連性あるだろう。「臥(ふ)す」は「臣=目・眼」を見張る「人」だが、「自動詞」か、「他動詞」で意味が異なってくるが・・・兎に角、「燕」は、
ツバメの巣の形と、ツバメの雛たちが親鳥に餌をネだって、その口ばし(嘴・喙・啄)を開けている様子であるだろう・・・
類字に「涿=水+豕」、「琢=玉+豕」がある
涿(タク)州、「涿鹿(タクロク)」河北省の地名
「涿鹿」は黄帝が敵と戦った場所
そして、
「琢=琢」=玉を削る・玉を磨く
・・・「涿」は「水」が「削る・磨く」なら、渓谷両岸の岩石を削り取る急流・・・「鹿」は渓谷急流に流れ込む水流の筋で、「鹿の角」の比喩。「啄木鳥(きつつき)」は喙(嘴・くちばし)で木に穴をあけるトリである・・・
そして、
「嚥(エン)」の音韻は
「咽-喉(のど・イン-コウ)」
であり、
「圓項(エンコウ・インコウ)→韻交」で、
「丸孔・眼孔・含口」で、
「雁高の眼光」である・・・
「燕」がナゼ「つば-め・つば-くろ・つば-くら」かは
「津波目・津羽目・津葉目」、
「津の波の目」
「摘まめ(む)」かも・・・
「鐔(鍔)目」、「翼(つばさ)」、「翼玄(つばくろ)」
は、その形状と色から類似性は理解出来るだろう・・・
ーーーーー
以下はウイッキペデアを参照、参考・・・
↓↑
つばめ(燕)
全長は約17cm、翼開長は約32cm
背は光沢のある藍黒色
喉と額が赤、腹は白く、胸に黒い横帯
尾は長く切れ込みの深い二股形で燕尾形
翼が大きく、細長い体型
脚は短く歩行には不向き
巣材の泥を求めるとき以外は
地面に降りることはめったにない
一部、越冬する
「越冬ツバメ」
中日本から西日本各地で越冬
集団で民家内や軒下などで
就塒(シュウジ)する
日本で越冬している個体が
日本で繁殖したものであるのか、
シベリアなど日本より
北方で
夏に繁殖したものであるのかは不詳・・・
↓↑
・・・北方からヤッテきて「越冬」するツバメ・・・「越唐」かも・・・ならば「燕国(燕山山脈南方、万里の長城東端、遼東半島も含む)」で、「燕京=北京・北平・大都・京城=ベギン(Beging)・薊(ケイ)・中都」である・・・ヤッてキタのは「渤海国(698年~926年)人=大氏一族」だろう・・・「粟(あわ・ショク・ゾク)末(すえ・マツ)-靺(たび=皮足袋・くつ・マツ・バツ)鞨(くつ=革靴・カツ)」・・・鳴門の渦(ウヅ)と泡(沫・アワ)は「阿波(安房)の国」の縁戚だろう・・・「真田一族・上杉一族・徳川一族」・・・
↓↑
ツバメは
泥と枯草を
唾液で固めて巣を造る
民家の軒先など人が住む環境と同じ所で繁殖
天敵はカラス(鴉・雅・烏)・・・香良洲・唐州・韓州
巣は通常は新しく作るが、
古い巣を修復して使用することもある
産卵期は4~7月ごろ
一腹卵数は3~7個
主にメスが抱卵
抱卵日数は13~17日間
その後の巣内での
育雛日数は20~24日
1回目の繁殖の巣立ち率は概ね50%程度
1回目繁殖に成功した番(つが)い、
あるいは失敗した番(つが)いのうち、
相当数の番(つが)いが
その後
2回目あるいはやり直しの繁殖をする
雛(ヒナ)を育てている間に
親鳥のうちどちらか一方が何らかの理由で欠けると、
番(つが)い外のツバメがやってきて
育てているヒナを巣から落して
殺してしまう行動が観察されている・・・
一方で、
番(つが)いの内
メスが欠けた場合、
複数の他の(メス)ツバメが集まり、
その中から選ばれたように
一羽の(メス)ツバメが
新たな番(つが)い相手となって、
子育てを継続する・・・後妻、再婚・・・
↓↑
ーーーーー
前回に書き込んだ
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや(陳勝)」
「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」
であるが、
↓↑
陳勝(チンショウ)
?~紀元前209年
秦代末期の反乱指導者
字は渉・・・・交渉・渉外・渉(わたる)
↓↑ 「渉禽類 (ショウキンルイ)」
徒渉・跋渉 (ばっしょう)
あちこち歩き回る
「渉猟」
かかわる・関係する
「渉外=干渉・交渉」
↓↑ ↓↑
「三国干渉は1895年(明治二十八年)4月23日に
フランス、ドイツ帝国、 ロシア帝国の三国が
日本に対して行った勧告
日本と清王朝の間で結ばれた
下関条約に基づき日本に割譲された
六日後に
遼東半島を
↓↑ 清に返還することを求めた干渉」
陳勝は
劉邦や項羽に先んじて秦に反乱
秦の討伐軍に攻められて敗死
↓↑
陳勝(チンショウ)・・・陳(つらねて)勝つ
汝陰郡・・・・・・・・・汝の陰の郡
水の女(おんな)の
阜(阝・邑)の
今を云(二のム)う
陽城県出身
若い頃は日雇い農夫
仲間に対して大言壮語を吐いて馬鹿にされたが、
「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」
(ああ、燕や雀のごとき小鳥にどうして
鴻(ひくい・コウ)や
鵠(白鳥・コク)・・・鴻鵠=コウコク=興国?
といった
大きな鳥(とり)の志がわかろうか)
と意に介さなかった・・・
↓↑
ーーーーー
燕国
前漢の時代に設置
広陽国
広陽郡
燕郡
と名称を変遷
春秋戦国時代
燕の首都
薊(ケイ)
紀元前222年
燕が
秦によって滅亡
上谷郡・漁陽郡・右北平郡・遼西郡・遼東郡
が置かれた
秦末
各地の諸侯が独立
趙王武臣の将軍であった
韓広が独立して
燕王となったが
秦を滅ぼした
楚の
項籍によって
韓広は遼東王に遷され、
項籍に協力した
燕の将軍
臧荼が
燕王となった
↓↑
高祖
劉邦が前漢を建国
引き続き
臧荼が
燕王であったが、
紀元前202年
に反乱を起こし殺され
代わって
高祖の幼馴染である
盧綰が・・・・・・・・盧の綰(糸の官)
燕王に封ぜられたが
高祖がこれら
異姓の諸侯王たちを粛清
親族たちを諸侯王に立てる
郡国制を施行し
盧綰は廃され、
高祖の八男
劉建が
燕王となった
以降、
燕国では
劉氏一族が
燕王となった
元狩六年(前117年)・・・元を狩る六(むつ)の年(とし)
8代目燕王
劉旦は
後継問題で父の
武帝と揉め
所領の
良郷・安次・文安の三県は没収され
元鳳元年(前80年)
燕王
劉旦は謀反し失敗、自害
燕国は一時
広陽郡となった
宣帝の
本始元年(紀元前73年)・・・本の始めの元の年(とし)
劉旦の太子であった
劉建が燕王から改称して
新たに
広陽王に封ぜられ、
広陽郡は
広陽国となり
薊・方城・広陽・陰郷の4県を領した
・・・薊=艹+魝(魚刀)=枸杞(コク)=ナス科の植物
楕円形の赤い実
あざみ・ケイ・カイ・ケ・ケチ・ケツ
wolf-berry(ウルフ-ベリー)
↓↑
王莽の時代
「新」王朝を建国
広陽国は
広有郡と改名され、
県名も
薊県は伐戎県、
方城県・広陽県・陰郷県
は
陰順県と改名・・・・・陰(偶数)の順の県(懸)
↓↑
光武帝が後漢を建国
広有郡は上谷郡に合併
和帝の・・・・・・・・和の帝→和の綴
永元八年(96年)
広陽郡として復活
薊・広陽・昌平・軍都・安次
の5県を領した
幽州刺史治(州都)は
薊に置かれた
↓↑
西晋時代
広陽郡は
燕国となり
薊・安次・昌平・軍都・広陽
潞・安楽・泉州・雍奴・狐奴
の10県を領した
八王の乱後、
燕国は
燕郡となったが
燕郡・右北平郡・遼西郡
には、
鮮卑族の
段部・・・・・・段の部
が割拠していた
↓↑
338年
後趙の
石虎・・・・・・・・・石の虎
によって滅ぼされ
燕郡は
後趙の領土となった
その後、
後趙の後継争いに乗じて
前燕の
慕容儁・・・・慕(した)う容(いれ)る儁(すぐれる)
雋れる=すぐれる=俊れる
が
後趙に侵攻し、
薊を奪って、
前燕の都とした
↓↑
前燕・・・・前燕(337年~370年)
五胡十六国時代に鮮卑族の
慕容皝によって建国
国号は燕だが、
同時代に同じく国号を
燕とする国が4つあり、区別し
初めに建国したので前燕
慕容部
4世紀前半~5世紀中期
中国東北方、遼東・遼西地方より
華北地方にかけての地域で勢力を有した
鮮卑系の部族
五胡十六国時代
前燕、後燕、西燕、南燕
の各王朝を建国した慕容氏一族
↓↑
384年~407年
華北を統一した前秦が
383年
淝水の戦いで東晋に大敗後、
前燕の将軍だった
慕容垂によって
華北東部と遼西を領有
中山(都)に
建国
↓↑
西燕(384年~394年)
鮮卑慕容部の
慕容泓によって建国
↓↑
南燕(398年~410年)
鮮卑慕容部の
慕容徳によって建国
↓↑
北魏時代
燕郡は
薊・広陽・良郷・軍都・安城
の5県を領した
↓↑
隋の時代
涿郡に合併
↓↑
以降、
燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)
燕国の名は
記録から消滅・・・
↓↑
当時は
「燕」ではなく「匽」
国名の
「燕(エン)」は
「奄=匽=燕」とも記録
ーーーーー
↓↑
三国、魏・呉・蜀
と
燕国
と
邪馬臺(台)国・卑弥呼、壹與
↓↑
景初二年(238年)12月
卑弥呼、難升米らを魏に派遣
魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられた
正始元年(240年)
帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ
詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた
正始四年(243年)12月
倭王は大夫の
伊聲耆
掖邪狗
ら八人を復遣使として魏に派遣
掖邪狗らは
率善中郎将の印綬を受けた
正始六年(245年)
難升米に
黄幢を授与
正始八年(247年)
倭は
載斯
烏越
らを帯方郡に派遣
狗奴国との戦いを報告
魏は
張政を倭に派遣
難升米
に詔書、黄幢を授与
卑弥呼の死亡
墓が作られ
男王が立つが、
国が混乱、互いに誅殺し、千人余が死んだ
卑弥呼の宗女
「壹與」を
十三歳で王に立てると国中が鎮定
倭の女王
壹與は
掖邪狗
ら20人に
張政の帰還を送らせ、
掖邪狗
らはそのまま都に向かい
男女の
生口30人
白珠5000孔、
青大句珠2枚、
異文の雑錦20匹
を貢いだ
泰始二年(266年)
倭の遣使、
邪馬台国から最後の入貢
↓↑ ↓↑ ↓↑
晋 西晋
卑弥呼の時代(175年~247年、248年頃)の
燕国
公孫延
公孫度・・・189年
公孫康・・・204年
公孫晃
公孫淵・・・228年
238年
太尉
司馬懿
の討伐を受けて
国都
襄平に包囲されて降伏
一族ともども処刑され
公孫氏の勢力は消滅(遼隧の戦い)
弟の
公孫恭が後を継いだ
公孫脩・・・公孫淵の子
『新撰姓氏録』は、
「常世連」帰化人の氏族は
「公孫淵」の末裔であると記述・・・
ーーーーー
↓↑
越(エツ)
紀元前600年頃~紀元前334年
春秋時代に
中国浙江省にあった国
首都は
会稽(浙江省紹興市)
↓↑
黄河流域の
都市国家群の周辺民族とは異なる
↓↑
長江流域の
百越
に属する種族・・・百越or越族
古代中国大陸の南方、
江南と呼ばれる
長江以南から
現在のベトナムにいたる地域
に住んでいた越諸族の総称
越、越人、粤(エツ)とも呼ぶ
越は
楚、
呉
など
長江文明を築き
稲作
や
銅の生成で栄えた
↓↑
夏の少康の庶子を
越に封じたことを
越の君主の起源とする・・・
↓↑
紀元前515年
楚に遠征した
呉王の
闔閭の留守を狙って
越王の
允常が
呉を攻め、
混乱に乗じて実弟の公子
夫概が兄に対して謀反
紀元前496年
允常が死去
勾践が即位
呉の闔閭が
越を攻めたが敗死
闔閭の次男の
夫差が報復の準備し
勾践は、
先手を打って仕掛けたが大敗
越は滅亡寸前になったが
勾践が臣従し
越は滅亡は免れ
勾践は呉で使用人となったが
家臣の
范蠡の助けられ帰郷
越は呉への復讐心から
呉が
伍子胥を殺害し
夫差が中原に諸侯を集めて
会盟を結びに行っている隙に呉を攻め、
紀元前473年
呉が滅亡した
呉を滅ぼした勾践は、
越の都を
山東省の
琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説も)
諸侯と会盟して
中原の覇者となった・・・
勾践の4代後の
翳のときに
呉(蘇州市)に遷都した・・・との説も
↓↑
勾践は讒言によって腹心の
文種を粛清
范蠡は勾践の猜疑心を知り
斉に逃亡し
陶朱公と称して富豪となっていた
紀元前465年
勾践は死亡
↓↑
紀元前334年
勾践の6世の孫
無彊の代に
楚の
威王の遠征によって、
無彊王は逃亡したが
楚の追撃を受けて捕虜にされ処刑
後、
楚懐王の代の
紀元前306年頃までに、
楚の王族
卓滑によって滅ぼされた
↓↑
越では銅の生成技術に優れ
1965年
銅剣が
湖北省
江陵県
望山1号墓より出土し
その銅剣は表面に
硫化銅の皮膜が覆って
錆ていない状態で出土
稲作は越人による・・・
『荘子』逍遥遊篇によると、
越の人々は
頭は断髪、
上半身は裸で入れ墨を施していた
『墨子』公孟篇
『史記』越王勾践世家
などにも同様の記事・・・
↓↑
ーーーーー
新潟(越後)・・・越国=高志国
燕市
古くは
「津波目」と表記
「津」は港、
「目」は中心地を意味
燕市は内陸部にある
港とは信濃川の河岸の船着場の一つ
燕市周辺が米の集積地とされ
水運の中継基地として栄えた
伝説では川上から流れてきて
燕が群れていたことから
見出された祠を建てた地とされる
「燕」の文字に置き換えられた
時期や由来は不詳・・・らしいが、歴史上の記録で、「つばめ」である越後(新潟)の「黒鳥兵衛」の姓の「黒鳥=くろとり・コクチョウ=玄鳥=燕・鷰・䴏・㷼・觾・𪈏・鳦」である・・・
↓↑
飛鳥時代
飛鳥時代中期、弥彦神社創建
709年(和銅2年)、国上寺創建
奈良時代
733年(天平4年)、西生寺創建
平安時代
947年(天暦元年)、弥彦神社で勅額を貰う
955年(天暦8年)、村上天皇の皇子と
桜井親王が和納に
楞厳寺を建てる
1060年(康平2年)、康平年間
「黒鳥兵衛」が
弥彦の桔梗城を攻める
1063年(康平5年)。黒鳥兵衛滅びる
1100年(康和2年)。御立八幡宮の建立
ーーーーー
・・・佐々木小次郎の「燕返し」と、宮本武蔵の「二刀流」・・・巌流島・・・「フイルムは生きている」って・・・
・・・空(そら・クウ)を見上げれば曇天、諳(そら)んじているのは「パイ(π・Π・パイ=3.1415・・・」で、「諷詠・諷誦(フウジュ)」はSMAP(Sports Music Assemble Peopleの頭文字)の「世界に一つの花」の鼻歌(鼻唄・花歌)・・・「assemble=collect,gather」が「disassemble」で「SMDP」ですか・・・「assemble=gather=召集」で、「together=一緒に」ではないところが問題だョ。それに「諷刺(irony・ァイロニィ・イロニィ?)」は知っていたけれど、「satire(サタィァ?)」、「sarcasm(ソォカァズム?)」も諷刺、皮肉らしい・・・「世界に一つの花」が毟(ムシ)られて「一片(ひとひら)」の「瓣・花弁・花びら」になる・・・
ーーーーー
諷=ひにく・フウ・諷刺・・・・・・・言の風
颯=(サツ・ソウ)・さっそう=颯爽・・立ち風
楓=かえで・槭・・・・・・・・・・・木の風
飄=つむじ・飄飄・飄乎・飄然・・・・漂う風
飆=ヒョウ・つむじかぜ・・・・・・・三匹の犬と風
渢=うかぶ・フウ・ブ・ハン・・水面の風
嵐=あらし・ラン・山あらし・・・・・山の風
瘋=フウ・瘋癲・・・・・・・・・・・風の病で顛倒
颿=はしる・ハン・ボン・ヘン・馬の疾風
葻=ソウ・草原の風・・・・・・草彅
颪=(おろし)・・・・・・・・・・・吹き下ろしの風
颱=台風・・・・・・・・・・・・・・風の台(臺)
颮=ヒョウ・つむじ風・・・・・包まれた風
颭=そよぐ・セン・・・・・・・風の占い
↓↑
諷詠=(フウエイ)
諷誦=(フウジュ) =節をつけてとなえる
諷意・諷諫=(フウカン)
諷刺・諷喩=(フウユ)=遠回しに言う
遠回しにさとすこと
比喩法の一
たとえだけを提示して、
その本義を
間接的に推察させる方法
「燕雀(エンジャク)
安(いずくん)ぞ・・・安(やすい・アン)=宀+女が
↓↑ ナゼ、
↓↑ 詎(いずくん)ぞ、なんだか?
なに・なんぞ?
どうして?
何(胡・詎・奚・曷・那)?
なにヲカ~・なんゾ~
いづレ~・いづク~
なにを~・どうして~
いつ・どこ・どの・どちら・どこに~
「安(烏・焉・悪・庸)~」
いづクンゾ・いづクニカ
どうして~・どこに~
「君、安クニンゾ
與(二)項伯(一)有ル(レ)故。
(君、安〈いづ〉くんぞ項伯と故有る」
「今、蛇、安クニカ在ル。
(今、蛇、安〈いづ〉くにか在る)
「何爲(奚爲・胡爲)~」
なんスレゾ
どうして~・どういうわけで~
「何爲スレゾ
斬(二)ルト壯士(一)ヲ。
(何爲〈なん〉すれぞ
壯士を斬ると)」
「胡爲スレゾ、君、遠クニ行クヤ。
↓↑ (胡爲〈なん〉すれぞ
↓↑ 君、遠くに行くや)
鴻鵠(コウコク)の
志を知らんや」
小人物に大人物の心はわからない
さとらせる類
「諷喩法」・・・ハッキリ云えばイイのに・・・ダレが見たコトもない「鴻鵠(コウコク)」、しかも「その志」などを知るコトが出来るんだか・・・「比喩」そのモノの意味が理解出来ない人間には無理・・・「比較」すべきは、先ずは形のあるモノの「上下・左右・大小・高低・長短・軽重・遅速・美醜・明暗・白黒」を示してからナニかを言えってサッ・・・なんと、「キリストの単純な比喩」を理解出来ない弟子達は複雑な「哲学」にしてしまった・・・「木(き・ぼく)=八十(やそ)」は「耶蘇(ヤソ)=基督(キリスト)」であるコトには理由があったからだ・・・「隠れ切支丹」・・・
モチロン、
「ピタゴラス」の漢字名が「比的額羅斯=龐太我剌私」なのには理由がある・・・「漢字分解の意味」である・・・
ーーーーー
「幾何学(キカガク)」、
「幾=幺+幺+戍(ト+戈=矛・鉾・鋒
戛→一の目の戈は夏目?→夏至)
=いくつ・いく・ほとんど・ちかし・キ
比較的小さな数について問う語
少しずつ・それとなく
幾諫(キカン)・幾微(キビ)
こいねがう・庶幾・幾重」
で、異字体は
「几・𢆻 =幺+幺+几」であるらしい・・・これって、
「幺+幺+π(Π)」
なのか?、ならば、
「几(つくえ)=π(Π・パイ=3.1415・・・)」、
この「机=几(つくえ)」が「π(Π)」ならば、
「円卓で円形、円盤のテーブル」だろう・・・
他の異字体は、視たコトないが・・・調べたら
「𢆼(幺+幺+)
𢇒(幾+ト+乙)
𢇓(幾+乞→ノ一乙)」
がある。最早これは
「乞食→コジキ→古事記」の示唆の「諷喩」である・・・そして「何=なに?」のお勉強は「図形の数学」だが、「国語(日本語制漢字)のお勉強」そのもので、先ずは「国語(?)」のコトバが解らなければ、それまででアル・・・しかも、「国語」には「外来語」としての「漢字・呉字・唐字」とカタカナ文字がワンサカの混合文であるから「日本語」を自分自身のモノとするには厄介でもある。唯一、「漢字」が基本的には「象形、表意文字」である、と云うコトだが・・・コトバが理解出来なければそれまでぇ~ッ・・・
「円形」を理解するには円形の分解である。その分解基本は「三角形(拉典語・Latin=triangulum・独語= Dreieck・英語、仏語=triangle(古語)trigon) 」で、三角形は「同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形の一・その3点を三角形の頂点、3つの線分を三角形の辺」という・・・困ったなぁ~ッ・・・「国語」が出来なかったから、当然、「纂数」も「理科」も「英語」も・・・「日本語の国語(?)」が出来なければ、「日本人の英語教育偏重」での未来は無いかも・・・「明治の人びと」がドンナにか苦労して築いてきたのか「明治日本語」を・・・
そして、「日本人知識人」の苦労と努力を理解していたのは安土桃山~幕末、明治に日本にヤッテきた「ガイコクジン」だった・・・もちろん、卑弥呼の時代からの渡来人、帰化人達も・・・コトバの「△(三角)関係」を「象形」で知らなくちゃぁ、始まらない・・・
ーーーーー
↓↑
「三角形を構成する3辺の長さを
a、b、c
とするとき
a < b+c、b < a+c、c < a+b」、
「三角形は内心(3つの内角の二等分線は 1 点で交わる
3つの辺から等距離)、
外心(3辺の垂直二等分線は1点で交わる
3つの頂点から等距離であり、
外心を中心として
半径がその距離である円は
3つの頂点を通る
鈍角三角形の場合は外側にあり、
直角三角形の場合は
斜辺の中点上にある)、
垂心(三角形の 3 つの頂点から
各々の対辺に引いた垂線は 1 点で交わる)
重心(三角形の頂点と
その対辺の
中点を結ぶ 3 つの線分は 1 点で交わる
重心は中線を 2 : 1 の比で分割する)、
傍心(三角形の 1 つの内角と
他の 2 つの外角の
二等分線は 1 点で交わる
三角形に傍心は 3 つある
傍心は 1 つの辺と 2 つの辺の
延長線と等距離にあり、
傍心を中心として
半径がその距離である円を傍接円という
三角形の 3 辺、
およびその延長線上と
等距離である点は、
内心と傍心あわせて 4 点ある)
をもつ」、
「外心を O、
重心を G、
垂心を H
とおくと、
3 点 O, G, H は
一直線上にあり、
OG : GH = 1 : 2
である」、
↓↑
S=1/2(ah)
s=1/2(a+b+c)
S=√s(s-a)(s-b)(s-c)
S=1/4(√(a+b+c)(-a+b+c)(a-b+c)(a+b-c))
↓↑
A=a²、B=b²。C=c²
S=1/4(√2(AB+BC+CA)-(A²+B²+C²)
↓↑
S=1/2(ab-sinC)
↓↑
正三角辺の長さの比…1:1:1
↓↑
直角二等辺三角形の
直角をはさむ2辺の長さの比…1:1:√2
↓↑
60°と30°の直角三角形
いちばん長い辺は
いちばん短い辺の2倍の長さ
辺の長さの比…1:2:√3
↓↑
3辺の比が簡単な整数となる
直角三角形
辺の長さの比…3:4:5
↓↑
3辺の比が
整数となる直角三角形
辺の長さの比…5:12:13
ーーーーー
・・・それでも、計算結果が間違うのは・・・ソソッカシイからなのか・・・?・・・慎重さがない・・・「誤解答」なのは「呉の言葉」の「解答」の混乱からだろう・・・「卑弥呼」や、「聖徳太子・推古女帝」に訊いてみたい・・・中国大陸の使者は何処を起点に日本に渡来したのか・・・
大日本帝国海軍の最大の海軍基地は「呉(くれ)」にあった・・・
1167年(長寛二年)に日宋貿易で
平清盛が掘削開港、
江戸時代は
「音戸の瀬戸(おんどのせと、旧表記は隠戸ノ瀬戸)」と呼ばれていたらしい・・・「音戸=おんど=隠戸」である・・・
1887年(明治二十年)11月起工・・・
開港は1889年(明治二十二年)?、これは「呉鎮守府」としての年か・・・軍港はとしては1884年(明治十七年)とあったが?・・・ナンか「開港」としての年数がズレている?・・・
兎に角、そこは世界最高の「軍艦製造の科学技術の場所」でもあった。そして、アメリカの猛襲にあって呉軍港は壊滅した・・・
愚劣にも中型空母「阿蘇」は日本陸軍の爆弾実験の為に標的にされ、1945年(昭和20年)7月呉軍港に撃沈、沈没させられた・・・
空母「阿蘇」の末路・・・熊本も啼いたであろう・・・
「昭和の戦争指導者」と「明治の戦争指導者」との比較の優劣は云うまでもないが・・・戦争は愚かであるが、過去の「戦争の勝敗」は「軍事科学」ではなく、科学も含めた「用兵としての軍事戦略( military strategy )・戦術(military tactics)」であった・・・そして、現代の各国の国家的指導者の脳ミソは、お変わりない様である・・・「毛沢東の時代の戦略戦術」は「原水爆」で終わったのだ・・・「しつこい(ヒツコイ)集金兵」、なるほど「普京(あまねしのミヤコ)」だが、「蜉胡鴆or諷地武」がお似合い、それに「アマイ=阿毎」・・・生きている「人間の数」を如何するつもりか?・・・小さな領土争奪でどうするつもりか・・・なるほど「克林頓=柯林頓」が「伐柯(バッカ)の群集の頓馬」ですか・・・トランプは「過留多」だが・・・オリンピックは、もうすぐオワリだ・・・ゼウスも困っているカモ・・・
・・・モモちゃん、台風上陸だけれど、札幌ドームで20時20分、「大谷」が逆転ホームラン18号を撃ったョッ!・・・北海高校も勝った・・・「勝負の世界」を観戦するのは心臓にワルイ。TVの中継が終わったが球場での観戦中の子供達と共に日本ハムの勝利を期待して結果を待ちたいが、ドームの外は暴風雨、帰りは気をつけろ。卓球の「愛ちゃん」の泪(涙・涕)にも感激だけれど・・・TVは「ジプシ共和国」のドキュメンタリーで、「ザ!世界仰天ニュース・超暑いアフリカ最恐の土地へ…世界の危険地帯!仰天探検隊SP仰天探検隊は、アフリカ最恐酷暑の国ジプチ共和国へ!灼熱の土地で美しい湖(アッサル湖=塩湖)に出会った!」、「南米ペルーの街の中心に巨大な穴(鉱山発掘抗)が!この穴のせいで住民、子供達の命が危機に瀕していた!」・・・「スロぺパスコの街」の鉱物(鉛・亜鉛)の中毒被害。かっては公害被害の水俣、新潟、そしてスモッグの日本だったが、「原発事故の秘害」はたった五年前のコト・・・
この二十一世紀・・・「人類の知の根源」とはナニか?・・・日本地域に住んでいた縄文時代、そして弥生時代の人びと・・・「外国」と云うコトバは無かったハズだが・・・
日本地域に住んでいた人びとも、「先住民」で、アフリカの何処からか、時間をかけてやってきて住み着いた「people」である・・・
だが、「ひとびと」は「government of the people」なってしまったが、「government」の「the people」とは、「人民の政府」なのか、「政府の人民」なのか?、で、そもそも「人民」とはダレなのか?・・・
「平民=the people」とは「貴族=aristocracy(アリストクラシー)」の対語である。既に階級序列社会(貴族vs人々)のコトバである。「貴族」とは古典ギリシア語の「aristo(最上の)+ cratia(支配)」で「優秀者=貴族」による支配階級であるらしいが、貴族とは「富豪(plutocracy)階級」であり、「aristo-cracy(アリスト-クラシー)」の「アリスト」とは、その共同体内階級の利害を衛る「兵士」で、「都市国家の皆兵を義務とした市民」でもあった。しかも、兵士の武具の装備は自前であった・・・
ここでは「市民」とは元々が「階級序列」を形成する「兵士」になれる存在なのである。「兵士」とは「戦争」での「殺傷」、「掠奪」、「捕虜」、そして敵の「土地、領土」の分配にあづかる権利を有する者達である、と云うコトだ。
だが、「市民皆兵」と云っても「兵役義務」には肉体的に敵と戦える者であるコトや、その義務期間があった・・・当然、都市国家自体が攻められ、防衛戦争となれば「市民全員が防衛戦争の兵士」である・・・
兎に角、「敗戦」すれば敵の掠奪と捕虜となっての奴隷である。国家間の近代戦争、現代戦争もこの基本的なモノはお変わり無しである・・・戦争当事者双方の戦力、軍事力が均衡していれば、「停戦・休戦」の条約を結ぶか、それが無ければ直接的な武力衝突を控えた小競り合いの睨み合いの「冷戦」だろう・・・
古代も、中世、近世、現代も「国家規模の全滅」は不可能であったし、あるが、「原水爆」は「人類規模の滅亡」である。
「都市国家の兵士」は「他の都市国家」と戦争し、その勝利の結果として負けた都市国家から財産の掠奪、そして捕虜を奴隷とするコト、領土の支配が許されていた。
だが、その掠奪した戦利品の分配にも階級序列的なモノがあったのは当然で、戦場で勇敢に手柄をたてた者が「順位の優先」だった。勲章とか景品ではない「戦利品」としての掠奪した物と者、そして占領した土地の支配権の分配順位である。その決定は「元老院の元老達」であったろう。
兵士が勝利で凱旋した暁には「名誉」と「地位序列のランク上昇」もあっただろう・・・
そして「戦場で兵士の指揮官で現役or退役」した者が「元老院に参加」できた。それは、戦争によって形成し、その門閥を相続してきた「貴族階級共同体」の中でも決定権を有する「特別な(知的に、武力に優秀な?)人々」だった。
だが、戦争での財産形成でなくても、私有財産の蓄積、形成は「商売」で出来る「市民」も存在していた。「戦争」での「消耗品(兵站)の調達」、「戦利品の売買」、「色街経営」、「神殿経営」、「見世物興業」、「金貸し」は商売繁盛の条件である。戦争が無くても武力威喝を背景にすれば「交易商売」は有利にできる・・・儲かった蓄積財産をドウ運用するかは「自由市民の選択の自由」である。「商人市民」は「権力者」にカネを投資する・・・古代~現代までコレラの原則に変化はない・・・「国家権力」を動かすのは「事業利権」としての「カネ」である・・・
「市民」と「人民」は異なる概念である。「市民」とは「権力(独裁or共和or民主)」の政治体制を採ろうが「法の制約下での権利」を保障された「市民権を有する人々」である。そして「法の下」で「商売・事業」が保障され、財産的な借金を「自分自身(の資産or肉体)を担保」にしてカネを借りるコトが出来たが返済出来ない場合は「奴隷」に転落した。「法的な犯罪者」は「市民権」を剥奪された。
「市民」とは「法的に私有財産権の選択の自由を許された人々」である。プラスアルファは「居住する場所の自由選択」と「移動の自由選択」を許された人々である。
「人民」とは「独裁=専制法」、「共和=妥協法」、「自由=選択法」、「民主=選挙法」・・・コレラの法体制に拘束されるのは「人民」である・・・
「市民」も「人民」も「他者への表現」さえなければ「空想・妄想・想像」は個々人の脳ミソの自由勝手のモノである。
「平民=ヒトびと」とは「貴族」と対立し、差別されていた時代の「people」である。
そして「共和(階級妥協)-国」と「民主(公平無階級)-国」は異なるだろう・・・
「person の語源は、ラテン語の persona(ペルソナ=人格・役柄・物語の個々の演じるキャラクター=character)であるらしいが、個々人(personal person)とは演劇上、シナリヲ上に登場し、その役柄を演技表現する人々(people)ではないだろう・・・自分自身の「日常生活の生き方」そのものの立場である。
「日本人の知の源泉」・・・「外国(foreign country land・foreignoverseas・other countries・out country)」、「外国人(alien people・ foreign people)」からの「情報」だけではないだろう。その生まれた場所、育った環境(自然・人々)が「知と認識、思惟思考」の源泉である。
日本領域で先住した人々が文字を獲得したコトには確かに自前ではないらしいが・・・
だが、自前の「情報、伝達」手段としての「文字」があったらしいコトは確かカモ・・・
「日本領域内」での北海道、小樽手宮の岩に刻まれた「古代文字」がある。見に行ったけれど、ボクには岩の何処に文字があるのはナカナカ判断できなかったが、それらしきモノは確認した。
余市にも「フゴッペ洞窟の文字」があるが、自分の目では確認したコトはない。洞窟壁面には図像が陰刻されていらしく、図は200以上、人物や動物、船などとみられ、列点があるそうである・・・だが、これは学者、研究者には疑問視されてもいる。云わば、その是非は曖昧である、と云うコトである・・・
縄文時代の人びとは土器、土偶を造り、漆器ものを作り、大木を切り、巨大な高殿を建て、鯨を捕え、栗を栽培、採種し、天体を観測し、モチロン、数も数えていた・・・知識の源泉は自然そのものである。そして、口承と実技での伝承であったろう・・・
これらは、文字通りの「文の明・文の化」ではない・・・
「経験」と「智恵」である・・・
・・・オリンピック、ニッポン・・・地球儀を眺めて・・・各国の名前由来をブログ記事で調べて行くと「国名」は単純な「地形(山・川・平野・湖・沼)」と自称の「ワタシの住んでいる処」と、異邦人がその国を訪問し、そこの住民に訊ねた名からついているモノが多い。しかも漢字を発明し、その使用の国であった中国各王朝は異国を漢字で記録する命名権があった。当然ではある、が・・・ 自称「日本(にっぽん・にほん・ひのもと)」は、「豊葦原(とよあしはら)・葦原中(あしはらなかつ)-國・秋津島・大倭豊秋津島・師木島・敷島・大八洲-國・秀真(ほつま)-國・瑞穂-國」であり、中国人は記録として「扶桑・東瀛・日下・烏卯国・阿母郷・阿母山・波母郷・波母山・・・」などとも。「Japan」は、「日の出の国・日の本」をウイッキペデアによれば「福建語でジペンクオJih-pen-kuoと呼び、唐代には国を省きジーペンと言った」らしい・・・「702年(大宝二年)、唐は遣唐使を大倭国からの使人としたが、遣唐使大使は日本国使と主張した(続日本紀)」。これを記録した原文は「旧唐書・東夷伝」の記事で、「続日本紀」の記録者はこれを読んでのコト・・・当然、「『東方見聞録』を著したマルコ・ポーロがこの言葉をZipanguと記した事に由来」とあったが・・・
ナゼ、「大陸中国の福建語」なんだか・・・「ジーペン(字意変)」・・・?・・・ボクの妄想の連鎖の根源・・・「客家」・・・「却下」・・・
アレッ!?、停電(2時15分頃)、朝から追加で書き込んでいたモノがスベテ消滅・・・コレを書き込んでいて再度の停電(2時20分頃)・・・何処かで落雷してのコトらしいが・・・同じモノを書き込
むのはボクの記憶能力には限界・・・ショウガナイが思い出しながらも・・・2時36分、近辺にド~ンと雷光と轟音が鳴り響いた・・・雨はショボショボだけれども、落雷したらしい・・・停電しないうちに、これを保存してチョと中断・・・
↓↑
「戦国時代、自治都市・堺と呂宋(ルソン=フィリピン)の交易を開いた商人、呂宋-助左衛門(納屋-助左衛門)」・・・「永禄八年(1565年)?~没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。納屋-助左衛門(なや-すけざえもん)。堺の貿易商 ・納屋才助の子。呂宋以外にも別名で菜屋-助左衛門(なや-すけざえもん)や魚屋-助左衛門(ちや-すけざえもん)」・・・
ボク的にはこれらの名前をみて、哂(嗤・笑・听・噱・咲)っちゃう、が・・・
呂宋(ロソウ)-助左衛門=呂の宗
呂=背骨・長い
音楽のリズム・十二律の一
声または楽器の低い音域
甲(かん)に対して乙(おつ)
十二律の陰(偶数律)に属する六音
呂=リョ・ロ(呉音)
おと・とも・なが・ふえ
雅楽の陰の調子
大呂・南呂・律呂
語呂・風呂
呂律 (ろれつ)
呂律がまわらない
吃音・吶音
音節の繰り返し
納屋(ノウヲク・ノウヤ)-助左衛門=納める屋
納=ノウ・ナフ
呉音はナッ・ナ・ナン・トウ・タフ
納豆・納得・収納・奉納・上納・献納
屋=尸+至(一ム十一)
菜屋(サイヲク・サイヤ)-助左衛門=菜の屋
菜=サイ=艹(艸)+爫(爪)+木(十八)
菜(な)の花
菜種(なたね)・野菜(やさい)
菜花・彩華・・・・うぬめ(采女)
サイカ・サイガ
↓↑
雑賀衆・雑賀党=鉄砲傭兵集団
雑賀孫一=鈴木孫一
天文三年・1534年
~
天正17年5月2日(1589年6月14日?)
鉄砲の名人
紀伊国(和歌山県)の地侍集団の頭領、頭目
関ヶ原の戦い(1600年)では西軍
合戦後は浪人を経て
水戸藩に仕えた・・・
采女=世阿弥(世阿弥元清
芸名は世阿彌陀佛
通称は三郎
幼名は藤若丸、鬼夜叉)
正平十八年/貞治二年(1363年)
~
嘉吉三年八月八日(1443年9月1日)?
観阿弥(父)、世阿弥(子)、
「観世流」
猿楽能(能楽)の大成者の作品
「大和物語」からアレンジ(arrange)
佐渡島へ流刑
永享八年・1436年
「金島書」著作
↓↑
『複式夢幻能』形式・・・?
↓↑
過去と現在、
時間を自在に交差させる表現法
・・・これって、ボク的ではある、かなナッ・・・
↓↑
「風姿花伝」の秘伝に
「秘すれば花なり。
秘せずは花なるべからず」
「花伝書」の奥書などで名前が記され
著作者とされてきたが
明治以降に彼自身の著作が発見され
江戸時代の版本に記された
仮託の名前・・・らしい・・・
↓↑
「呂宋助左衛門」がまた。跳んでしまったがジャンプは、
↓↑
魚屋(ギョヲク・ギョヤ)-助左衛門=魚の屋
↓↑
・・・の「眞名(まな)→眞魚(空海・佐伯一族)」の「黄金の日々」・・・「大陸中国の客家の福建語」・・・
ーーーーー
↓↑
福建-省
中国語=Fújiàn-Shěng・・・ふじあん→「富士・不死」編?
英語=Fujian・・・・・・・フジアン?
中国の省の一つ
中華人民共和国が統治
一部の島嶼を
中華民国(台湾)が統治
省都は福州市
↓↑
福建省
略称は「閩(ビン)」・・・閩=門+虫(中ム)
虫=蝮、蛇の意味
蛇(商業の象徴)の崇拝
商業一族(門閥)
中国大陸南東
台湾海峡を挟み、台湾は対岸
武夷山脈・・・ナゼか「武の夷の山」
と
載雲山脈・・・ナゼか「載の雲の山」・・・八雲?
載録=記載・掲載・所載・転載・連載
載=年を数える語
千載一遇・・・デス
が存在
省内の地域差が大
宋代に・・・・・「宋の代」デス
福州、建州、
泉州、漳州、・・・「泉の州」デス
汀州、南剣
の
六州と
邵武・・・邵=たかく・ショウ・shào・ジョウ・ゼゥ
=召+阝・・・召す邑(or阜)
召し抱える
召人(めしうど・めしゅうど)
呼び出す
客として来るように誘う
召喚・召還
召集(令状)=赤紙
召致・応召
興化・・・興=おこす・コウ・キョウ
復興・再興
興味・勃興
に二つに分かれていたことから、
八閩(ハチビン・パァビン)とも称される
言語的に
福建省は地域による
方言差が激しい
主に福建省で使用される
閩語(広義の福建語)は
中国語の7大方言のひとつ
閩北語、閩東語、莆仙語、閩南語、閩中語、閩贛語
などに分れ、
異なる区分の方言同士では会話が困難
閩西ともよばれる西の内陸部では
「客家語」を話す
歴史
福建省
古代閩(越)人の領域
戦国時代に
楚に滅ぼされた
越王族が・・・・・越王=勾践=句践(?~紀元前465年)
会稽の恥=臥薪嘗胆の故事
ライバルは呉王=夫差
滅亡寸前の
勾践は呉の人質となり
夫差の「召し使い」となった
閩に逃げ込んで
閩越と呼ばれた
紀元前221年
秦に征服されたが、
秦末の動乱期に
閩越国として独立
東冶(福州)・・・・・会稽東冶の東に「邪馬台国」あり
緯度は北緯33度→阿蘇山頂←横島
「よこしま=邪」デス
に都を置き
92年間にわたって
漢に抵抗したが、
武帝に滅ぼされた・・・武帝とはダレ?→大海人皇子
唐代後期に
地の利から
沿岸地域で国内・海外貿易
中原の戦乱を避けて
様々な階層の人間がこの地に移住
909年
王審知・・・・・・ナゼか「王の審の知」デス
によって福建の開発
945年
閩は南唐に併合
1087年
北宋時代では
泉州・・・・・浪速(難波・浪華)の
「和泉」は「客家」の植民地?
織田信長の岐阜の「阜」=阝
豊臣秀吉の半島、明国侵略
二人の野望の根源は「和の泉の商人」?
千利休とは「客家」か?
に
貿易官庁である
市舶司が設置
朱熹をはじめ多くの文人・官僚を輩出
福建は山地が海に迫り、耕地が少ない
人口密度が過剰状態
海上貿易が盛ん
海外に移住する者が続出
台湾の本省人や
東南アジア華僑の多くは
福建からの移住者の子孫
大部分は閩南地方の
泉州、漳州、
アモイ(廈門・厦門)・・白話字で
漳州方言
Ē-mûi(エームイ)
泉州方言
Ē-mn̂g エームン
北京語
Xiàmén (シァメン)
閩南語
Amoy(アモイ)
↓↑
1722年に発見された
チリ領イースター島の
モアイ(Moai)の
置換文字?
(substitute string
replacement text)
康熙六十一年十一月十三日
1722年12月20日)
清で康熙帝が没し雍正帝が即位
「康熙字典
(コウキジテン・Kāngxī Zìdiǎn)
清王朝、康熙帝の勅撰
漢代の『説文解字』以降の
歴代の字書の集大」
からの移民
シンガポール、
マレーシアなどには
閩中地方の
莆田(興化)
閩東地方の福州などからの移民が多
↓↑
古代中国(周から春秋戦国時代)の
中原や
中国東北部・・・・満州・金・女直(女眞)
の
王族の末裔が多い
戦乱から逃れるため
中原から南へと
移動、定住を繰り返していった
移住先では原住民から見て
「よそ者」であるため、
「客家」と呼ばれ、
原住民との軋轢も多く
この争いを
「土客械闘」という・・・
移動・定着の歴史
およそ6段階
最初が秦の時代辺りから
江西地帯への入植、
第2段階が
西晋の
「八王の乱~永嘉の乱」にかけて
黄河流域の中原や華北の北方住人が
長江以南に避難
第3段階が
唐末の
「黄巣の乱」に
江西、福建、広東の奥地に南下
第4段階が
南宋末期の
元軍の侵攻により広東に拡がり、
第5段階で
清の時代の領土拡大に伴い、
西は四川省、
東は台湾に展開
最後の段階は
海南島まで南下
ほとんどの家に古代からの
族譜があり、
祖先信仰が強く、
風習も頑なに守って
周囲から隔絶されて発達した
客家語には古代の文語がうずもれ残っている
↓↑
客家の人々は、
周辺に住む他の集団とは異なり、
山間部に好んで居住し
独特の言語・文化を持っている
言語は
古代の漢族語を今に伝えている・・・
他の集団と軋轢が多い
少数派であるがゆえに劣勢であるため、
中央政権や王朝と
良好な関係を保とうとする傾向がある
客家は
漢人としての意識が比較的強い・・・?
↓↑
移民の通例として
土地の所有が困難で
流通や商業に従事
子弟の教育にも熱心
商業の他には教育の高さから
教職に就くことが多い
これらの特色から
「中国のユダヤ人」などと呼ばれる
客家を含む華僑は
ユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に
「四大移民集団」の一つ・・・
↓↑
太平天国の指導者
洪秀全
孫文
訒小平
シンガポールの
リー・クアンユー(李光耀)などを輩出
台湾総統の
李登輝
映画監督の
侯孝賢
も出自は客家
タイの首相を務めた
タクシン・チナワット
インラック・シナワトラ
兄妹も
客家
ーーーーー
↓↑
魏書では卑弥呼の時代は「邪馬臺-國」、で、「倭-國」、「日本書紀」では「夜摩苔」、隋書では「耶靡堆-國」で、「俀-國」と表記・・・・
なぜ、「隋・唐」はワザワザ「耶靡堆-國」、「俀-國」と漢字文字を変えたのか?
ーーーーー
↓↑
都於
邪靡堆、
則
魏志所謂
邪馬臺
者也
(隋書)
↓↑
謂之、倭奴國
(「後漢書・安帝紀、永初元年(107年)」)
↓↑
倭國者、古、倭奴國也
日本國者
倭國之別種也
以其國在日邊
故以
日本
爲名
或曰
倭國、自惡其名、不雅
改爲
日本
或云
日本、舊小國
併、倭國之地
(「舊唐書・東夷伝・倭國」)
ーーーーー
今夜はココまで・・・