城郭探訪

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米原の列車壕を探訪 2011.8.13

2011年08月14日 | 戦争遺産

米原市の戦争遺跡「列車壕(ごう)」の見学会が13日、同市岩脇の岩脇山であり、県内から35人が参加した。列車壕の歴史や保存の取り組みなどについて学んだ。

 来年3月に東近江市で開館する県平和祈念館(仮称)のプレイベント。祈念館のボランティア13人も参加した

『ここに存在する二つの洞窟(左側は奥行52m止め、右側は130mで貫通)は、太平洋戦争末期に二本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合軍の空爆から守るために掘られた防空壕です。
この岩脇山は岩盤が固く、その上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業にため難工事であったことがうかがえます。
しかしながら完成することなく終戦となったが、作業に従事した人達の汗と涙の結晶である防空壕跡が、長い間ごみ捨て場として放置さてたままになっていました。
そこで「岩脇まちづくり委員会」では戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保存するため平成20年10月から平成21年8月にかけて整備したものです』
 委員長の藤本伝一さん(69)は「遺跡保存のために、未整備の部分を今後整備したい」と話す。

  列車壕はJR米原駅の北東約2キロの「岩脇山」(127メートル)に、全長約130メートルの貫通したものと、山の両側から掘り進められ、途中で未貫通となった2本の横穴(幅2~4メートル、高さ1・5~5メートル)が南北に平行に開いている。壕内側の岩肌の様子などから、ツルハシやスコップの他、火薬などが使用されたとみられる。
こちらがもう一本の貫通している壕です。
同様に柵が施されていましたので入れません。

 壕の建設に関する記録は一切残っていないが、県内の考古学者でつくる「滋賀戦争遺跡研究会」の中井均・県立大准教授(日本考古学)らによると、米原駅は戦時中、東海道線や北陸線を通じて兵士や弾薬を運ぶ拠点だったという。県内でも空襲が始まった1945年頃に、空襲から運搬手段として重要な列車を守るために着工したが、完成せずに終戦を迎えたとみられる。

 壕はその後、家庭ごみなどで埋まって長年、放置されていたが、地元のまちづくり団体「岩脇まちづくり委員会」が中心となって2008年10月~09年8月、ごみを運び出し、壕内に電灯を置くなどして整備。現在では、見学会や小中学校の平和学習などに利用されている。

 
 中井准教授は「恐らく国内唯一の列車壕で、重要な遺産だが、住民だけで保存、整備するには限界がある。行政も、方策を考えてほしい」と話している。 

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