城郭探訪

yamaziro

古戦場と賤ヶ岳砦・七本槍 近江国(木之本)

2011年08月28日 | 陣城

 天正11年(1583)、越前北庄城の柴田勝家は、3月3日に佐久間盛政を雪の融けやらぬ北国街道を近江に向けて出発させた。翌3月4日には勝家自らが主力を率いて北ノ庄を出陣し、江越国境付近の玄蕃尾城に布陣した。

 「勝家出陣す」との知らせを受けた秀吉も長浜城から、湖北木之元に軍を進め、柴田軍と羽柴軍は余呉湖周辺に陣地を構築して対峙した。


賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

賤ヶ岳の山頂からみた両軍の布陣位置

賤ヶ岳(422m 滋賀県木之本町) 
 「見下ろせば余呉の天女の花吹雪」
 賤が岳の名は馴染みの山である。木之本町に戻り、大音のリフト乗り場に着く。
 楽をして登ろうという魂胆であったが、リフトの始発は9時で早すぎた。待っている間に山頂まで登れると、歩いて登ることにする。
 スギ林の中を大きく蛇行しながら、2度リフトと交差して山頂駅に着く。

ここから開けた道を緩く登り山頂に着く。


 平坦な広場の真ん中に三角点がある。余呉湖や琵琶湖への展望がある。三角点と向かい合うように「賤ヶ岳七本槍の像」がある。一人だけ疲れて槍に凭れて岩に腰掛けている姿の像である。この像をみればこの山が凄惨を極めた賤が岳合戦の舞台であったことを思い出させる。


 本能寺で倒れた信長の跡目争いで、仲間であった秀吉と柴田勝家が雌雄を決した戦いであった。秀吉方の七本槍の奮戦で秀吉が勝った。

負けた勝家は越前北の庄に逃れ、館に火をかけお市の方と共に自害した。
 お市の方(小谷方ともいう)は、明日登る予定の小谷山の城主浅井長政の奥方であったし、さらに辿れば信長の妹であった。

小谷城と虎御前砦

長政とお市の方、その3人の娘はどうなったのかなど、歴史物語として感涙を呼ぶ舞台がこの地に多い。
 この山は勝った秀吉方の事跡が多い。勝家は越前北の庄(福井市)城主だし、湖北は長浜城の秀吉の領地だから当然だ。

 当時は刀による斬り合いであった。鉄砲は敵の顔を見ることもなく殺すことができるが、刀による白兵戦は相手の顔を見声を聞きながら殺し合った。しかもかって味方同士であったから余計凄惨だ。

 戦争はもういいと余呉湖を眺めると、余呉湖は天女伝説がある。

余呉湖に舞い降りた天女と桐畑太夫との間に生まれたという話があった。
 余呉湖には天女が白鳥の姿となってしばしば舞い降り、また去っていくという伝説があった。「余呉の天女」は自分が天女となって湖を舞い去る絵である。
 そこで花の吹雪を舞い上げる桜を見て下手な一首。
      「見下ろせば余呉の天女の花吹雪」

びわこ塩津、左の木の向こうに竹生島!

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賤ヶ岳砦 合戦と城郭 近江国(木之本)

2011年08月28日 | 戦国山城

  

賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

賤ヶ岳城跡の石碑

 

余呉湖・・・

びわ湖・塩津浜・・・

竹生島・・・

小谷城・虎御前砦・・・・

 

 

 

 

布陣

3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。秀吉も直ちに兵を出し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。3月27日(5月18日)、戦線の膠着もあり秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還した。

美濃返し

4月16日(6月6日)、一時確かに秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結んで再び挙兵して岐阜城下へ進出した。秀吉は翌4月17日(6月7日)直ちに美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。秀吉の軍勢が多く近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、中川は討死、さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。

4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他に無いと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。

更に同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動した。この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給個所も用意もさせていたという。僅かな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。盛政の軍が善戦したために秀吉は盛政の救援に向かっていた柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、激戦となった。

ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。理由は諸説あるが、秀吉とは信長の部下時代からの親友であったが、勝家とは主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったことが一番有力な説である。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。

賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27

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