城郭探訪

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長光寺城(瓶割山城)  近江国(近江八幡)

2011年10月24日 | 戦国山城

長光寺城(別名  瓶割山城)

お城のデータ

所在地:近江八幡市長光寺

区 分:山城

現 状:山林

標 高:234m 比高差130m

築城者:佐々木四郎政尭 

築城期:15世紀後半(1468頃)

歴代城主:佐々木六角氏・柴田勝家

遺 構:曲廓・石垣・堀切・土橋・竪堀

目標地:日吉神社(東近江市上平木)

駐車場:路上駐車

訪城日:2011.10.24

お城の歴史

長光寺城は、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468)に、近江守護佐々木六角高頼と対立した佐々木政尭により築城されたとされる。

佐々木四郎政尭は六角氏であるが、応仁の乱では、佐々木京極氏とともに西軍に属し、近江守護をめぐって東軍の六角高頼と争った。
以後の歴史は不明であるが、元亀元年(1570)に織田信長が柴田勝家を長光寺に入れたことが、「信長公記・巻三」に記載されている。

 

信長公記 巻三 元亀元年 4、金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

----5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀・宇佐山の城に森可成を残し、12日に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。---

そして柴田勝家は、この城に籠って六角承禎と戦った際に、城内の水瓶を割って出陣して勝利したので、「瓶割り柴田」の異名をとったという有名な言い伝えがある。このため城は瓶割山城とも呼ばれる

長光寺城は、安土城が築城された天正4年(1576)頃に、廃城された。

 一の郭の西面の石垣 6m以上の高石垣である

一の郭一の郭と二の郭の間の堀切と土橋

 城郭は、瓶割山の山頂を主郭の一の郭とし、南西に二の郭、北西に三の郭、東に東郭が、それぞれ尾根上に伸びる構造となっている。一の郭は南北55m、東西65mの規模であり、その西面の南側端部に石垣が存在する。

北西方面の繖山(観音寺山) 佐々木六角氏の居城・観音寺山城がある



現地案内板の縄張り図
 
 

野洲河原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

野洲河原の戦いは元亀元年6月4日(1570年7月6日)に現在の滋賀県野洲市で起こった合戦。落窪合戦とも呼ばれる。織田信長は朝倉義景征討の途上で浅井長政の離反に合い敗退(金ヶ崎の戦い)。体勢の立て直しを図り、宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川重政を配置したが、観音寺城の戦いで信長に追われ伊賀に逃げていた六角義賢・義治父子が甲賀武士達と糾合し、北進する。

元亀元年6月4日、六角軍は信長の重臣柴田勝家、佐久間信盛と野洲河原で衝突。落窪(乙窪)で交戦の末、六角方の三雲父子・高野瀬・水原・伊賀甲賀衆780人が討ち取られた。
その後、6月28日には信長・徳川家康連合軍と、浅井・朝倉連合軍の姉川の戦いが起こり、浅井・朝倉側が敗退する。

 長光寺城の戦いと瓶割り柴田

野洲河原の戦いに先立ち、柴田勝家の守る長光寺城で戦いがあったともいい、このときのエピソードが「瓶割り柴田」の名の由来となっている。しかし、この話は『武家事紀』が初出であり、事実ではないと見られている。

『武家事紀』によると、元亀元年6月4日(1570年7月6日)に六角義賢父子は4,000の兵で長光寺を囲み、柴田勝家は400で籠城、佐久間信盛は少勢だった。しかし、数日攻めても落城せず、義賢は郷民から長光寺城内は水が出ず後ろの谷から掛け樋で引いていると聞き、平井甚助に水源を止めさせた。

勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしようと言うと、皆が賛成した。そこで16日に城外へ打って出て六角の旗本を切り崩すと、信盛も出てきて野洲河原で三雲三郎左衛門父子・高野瀬・水原他400余人を討ち取ったという。

ここでは、これより勝家を「壺割り柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったとする。

この話は次第に尾ひれがつき、『常山紀談』では、水源を絶った後、平井甚助が使者に立って城内に入った。会談の後手水を請うと、勝家は瓶に水を入れて小姓二人で担いで来させ、甚助が手洗いを済ませると、残った水を庭に捨てさせた。甚助が帰って城内には水が豊富だと報告し六角側が困惑しているところへ、柴田側が攻撃してきて大敗したとなっている。

「絵本太閤記」の瓶割り柴田

『絵本太閤記』になると、元亀元年5月21日(1570年6月24日)に六角軍は兵800余人の籠城した長光寺城を攻撃するが落ちず、六角側に多数の死者がでた。義賢は家老三雲新左衛門と図り、城中への水源を止めた。義賢は平井甚助を使者とし勝家に士卒の助命を条件に降伏勧告を行うが、勝家はこれを拒絶した。甚助が部屋を出ると、多数の兵が庭で沐浴していた。甚助は帰って城中には水が充分にあると報告した。一方、勝家は残った水瓶三つを庭に置き、これから討ち死にしようと思うが、老父母や幼子のいる者は城を出て落ち延びよと言うと、誰も逃げる者はいなかった。勝家は皆に思う存分水を飲ませると、もはや蓄えは無用と長刀の石突きで瓶を砕いた。6月3日早朝、勝家は敵が油断しているところへ打って出て、300余人を討ち取り、義賢は石部城へ落ち延びた。信長は勝家を称えて手ずから感状を与え、これより世人は勝家を「瓶割り柴田」と呼んだとする。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、ウィキペディア

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