旧五個荘町と旧能登川町(ともに現在は東近江市)の町境にある和田山の頂きにこの城跡は位置します。和田山は愛知川を眼下に望む場所にあり、繖山北尾根突端から1.2km離れた標高180mの独立小丘陵です。このシリーズの(5)では繖山北尾根にある佐生城を紹介したところですが、遠目からはほぼ同じ高さで両城が対峙しているのを眺められます。
和田山城遠景(右の峰が和田山城)
和田山城は六角政頼の子和田高成が築城したとも、六角義弼が築城したとも伝えられていますが、確証はありません。永禄11年(1568)に観音寺城が織田信長に攻められた際、六角氏は箕作城と和田山城に将兵をおいて攻撃にそなえたといいます。信長は手前の和田山城をあとにして、奥の箕作城を先に攻め落とし、これがきっかけで観音寺城に詰めていた六角氏父子は戦を交えないまま敗走しました。こうした経緯から、和田山城・箕作城・佐生城が観音寺城の北東方面を防御する支城群として機能したことがうかがえます。実際にこの三城は、観音寺城の防衛線となる愛知川や東山道に面する重要な場所に位置しています。
ところで、箕作城と特に佐生城には立派な石垣が築かれていて、石垣を多用した観音寺城の支城としてふさわしい姿をあらわしています。ところが和田山城には石垣が確認されません。和田山南麓の和田集落には「ホリノウチ」という字が残されていることから、そこに館跡があったと推測されていますが、この推測にしたがうと、観音寺城の支城として機能する以前の和田山城は在地土豪の詰城だったとも考えられます。
和田山城はおよそ28m四方の方形の土塁をめぐらせた単郭式山城です。北東と南西に延びる尾根に面した土塁では、土塁は高さ1mを越える規模で残されていますが、ほかでは50㎝以下しか残されていないところもあります。東尾根に面した土塁には高さ3m程度の櫓台が設けられ、その対面の土塁には半円形の張出し部が設けられています。縄張り図によると張出し部には中央に窪みが設けられていたようで、これを狼煙台と見る方もおられます。主郭の周囲は斜面を段々に削り出していますが、植林のための整地の跡のように見える部分もあって、城跡の規模を的確に把握することは難しいかもしれません。
和田山城縄張図(『五個荘町史』第一巻より)
和田山城の櫓台