城郭探訪

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後藤館  近江国(八日市)

2012年04月10日 | 居館

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。
後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の家老の位置にあった。

十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる
『現地案内板』

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。永禄5年(1562年)、義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。

生涯

主君である六角義賢の偏諱を受け、賢豊と名乗った。

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務め、永禄5年(1562年)には義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤館跡

後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の家老の位置にあった。

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。

十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる
(『現地案内板』)。

後藤氏館跡は、周囲に基底幅約11m、高さ約3mの土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西幅、東辺の長さ約100m、西辺の長さ約120mの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した(『現地案内板』)。

当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。当館跡の建物配置は定かでないが、昭和五十六年の発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内北部中央付近に存したと推定される(『現地案内板』)。

六角重臣の居館跡ということだが、水田にぽつんと石垣と土塁が残るのみである。しかし、大規模な遺構で、観音寺城と類似する貴重な史跡である。

門址の石垣

北辺の土塁。背景に見える山は観音寺城跡のある繖山

瓶割城址

繖山の観音寺城(佐々木の城)・清水山の清水城(箕作城=守将:建部氏)・箕作山の小脇山城(三井氏の詰め城)・さらに玉緒山の布施山城(布施三河守)、雪野山の雪野山城(後藤氏の詰め城)・野寺城(吉田氏の詰め城)・・・・佐々木六角氏の重臣の山城が!

 

石垣で組まれた虎口石垣で組まれた虎口

田んぼの真ん中に大きな石を使って組まれた石垣と土塁が残る。石積みとしては、観音寺城平井丸の大手城戸によく似た作りである。

 このような平地に残る遺構としては非常に珍しく、高く評価したいところであるが、残念ながら積み直しの跡が生々しい。

土塁土塁

 観音寺城の屋敷跡

  後藤屋敷石垣  

佐生日吉城  

 繖山魂の伊庭山の東端に佐生日吉城は位置している。

 城は基本的には単郭の城です。但し、石垣の城で、主郭の南側に高さ3m程度で30mほどと、及び、主郭には後藤氏の御子孫が建てられた城址碑「後藤但馬守城址」があります。城址碑は南側山麓の日吉神社の横(旧五箇荘町側)にもあり、「佐野山城址」碑に刻まれています。何と言っても、突然現れる石垣は素晴らしい。

南西隅は算木積みもしっかりとした石垣。                                                                     

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