城郭探訪

yamaziro

・沖島歴史年表

2013年09月11日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

○歴史年表

時代 西暦 主な出来事
奈良時代 713 藤原不比等が沖島に奥津島神社を建立
奈良末期 恵美乃押勝が反逆の罪に追われ、一族をつれ沖島に流される
「淡海の海 奥津島山奥まりて わが思う妹のこと繁けん」  万葉集 柿本人麻呂
平安時代 1159 保元・平治の乱で敗れた源満ち仲の落ち武者七人が沖島に漂着して住みついた『落人伝説』
堅田漁民の師範のもとに、漁業を、沖合から対岸にかけて拡張し、漁具・漁船の改善をはかった
室町時代 1336 沖島は南朝新田氏の再起の根拠地となった
1443 八代将軍足利義政は、沖島に番所を設け、湖上航通の取締を命じ、今参の局を沖島にかくまった
1467 応仁の乱に破れた堅田漁民が沖島に逃れ、復帰をはかった
1535 佐々木六角氏やその家臣池田大和守の御使や中間がしばしば沖島に出向いている。
塩・材木・兵糧米・軍事用の物品の搬送にも動員され沖島の船・船頭がこれにあたっていた
1566 浅井長政が沖島惣に宛てた書状の中で、船舶の通航を保障するとともに矢銭(軍事課銭)を
免除することを通達している
1569 沖島は六角氏の軍事編成の中で船舶般送部門を担当された
1570 織田信長は浅井氏攻略戦のさい沖島惣中のもつ足の早い船三艘を動員された
1573 安土城造営当時より、沖島・奥嶋の一帯は軍事調練の場として活用されていた
織田信長が小谷城を攻撃するとき、沖島に居住する武士(漁師)に小谷城の裏山からの攻撃を命じた
信長より申出通りの褒美(漁業権)を永久に頂戴して帰郷した
1574 信長より漁業権を認定した上で警固も義務づけられていた
1579 沖島は特権と商業的利潤を得ていることにより御礼米という形で安土へ進上することを指示
1580 信長は沖島大地曳編漁獲魚献上を受けその礼状をおくっている
1590 豊臣秀吉は大津の浜で大地曳網の天覧を沖島・堅田の漁師に命じた
1592 秀吉は朝鮮出兵に際して琵琶湖周辺から水軍を徴発、沖島からも従軍者を出している
江戸時代 1600 沖島は家康の側についた。家康は関ヶ原の戦いの戦勝の祝いに沖島の住民から白米を受け取る
1734 享保十九年、寒側辰清はその著近江興地志に「漁人多く住み その島の石をとってこれを売る
おのが居を亡すものなりというべし」と書いてみる
1773 堅田西乃切と沖島の間に漁場をめぐる論争が起こった
1782 堅田小番城の釣り漁師が沖島の漁場で釣漁を許可してくれるよう願い出る
1805 田畑の開墾が必要となり、対岸に求めている
1822 堅田の釣り漁師が沖島の網場を荒らす
1852 沖島の救主ともいわれた茶谷龍城氏が西福寺で生まれた
1855 対岸の宮ヶ浜の平地三町余を田畑化し年貢を貢納することを申請した
安政年間に沖島は大火災にあい、住宅再建
明治時代 1875 県知事は島民に永代湖上借区の免許状を与える
1887 島内で石材採掘がさかんに行われた
茶谷龍城氏父業を継ぎながら開業医として島民の健康に意を用いた
1889 蒲生郡島村沖島になる
1893 島村立沖島尋常小学校開校式
1896 県内大雨。史上最大の水害
1902 県が漁業法を発布
1904 南郷洗堰の建設。湖面の水位が低下する
1905 沖島尋常小学校に水産補習学校が付設
1908 沖島が専用漁業免許状を受ける
1909 沖島343番地に沖島小学校が新築される(旧校舎)
1910 漁業法が施行される
大正時代 1912 第二琵琶湖疎水完成
1914 共有山林大岩ガ鼻の石切場権利の譲渡を受ける
石材販売組合が組織された
1921 沖島防波堤改修工事
1923 石材価格が最高になる
昭和時代 1928 沖島電灯会社設立。沖島に初めて電灯がついた
アメリカ産の川マスが琵琶湖に放流される
1929 琵琶湖産コアユを東京へ空輸
1932 栗谷に新港が建設された
1935 第一回琵琶湖対策会議
1938 沖島郵便取扱所開設
1940 沖島郵便局と改称  沖島尋常小学校と改称
1945 失火によって沖島発電所が全焼
1947 関西配電により水中ケーブルで送電が開始された
沖島中学校を併設。島村立沖島小学校と改称
1949 漁業法改正 第一種共同漁業の免許を得た
1951 島村を廃し、蒲生郡八幡町に編入
専業漁場を返還し、共同漁業権が免許された
1953 沖島港が第一種漁港に指定された
1955 153世帯 808人
1960 PCB被害(魚・シジミ)
1961 新洗堰完成
1964 琵琶湖大橋開通
1965 152世帯 747人
1968 琵琶湖水質汚濁防止連絡会議。琵琶湖総合開発第一次
1970 この頃から木造船からプラスチックが使用されるようになる
1971 琵琶湖のゴミ総ざらえ運動
1972 琵琶湖を美しくする運動発足
1973 新漁港着工 淡水赤潮発生
1974 琵琶湖総合開発により近代的な漁港が造成される
1977 赤潮発生。アユ一万匹死ぬ。合成洗剤追放運動
1979 琵琶湖条例ができる
1981 新漁港完成。赤潮発生8カ所
1982 沖島に浄化センターが完成
平成時代  1994 異常渇水。マイナス123センチ(9月15日)
1995 栗谷に沖島小学校の新校舎が完成。竣工式が行われる
2008 沖島保育所休所 小学校内に沖島幼稚園開園、柔軟な通学区域の制度が始まり、八幡小学校区から1名転入
3月末、通学船「わかば」廃船

・伊崎寺

2013年09月11日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

伊崎寺概要: 伊崎寺の創建は不詳ですが奈良時代、役小角が開基したのが始まりと伝えられています。貞観年間(859~77)、相応(比叡山回峰行の創始者)が再興し比叡山延暦寺の末寺となりました。古くから修行道場として知られ、荒行の1つで琵琶湖に面する断崖絶壁の上に建立された竿飛び堂から突き出した棹の先端から琵琶湖に飛び込む「竿飛び行事」が引き継がれています。

H二四年ポスター

http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma07/treasure_of_water/files/21wot-3.pdf#search='%E6%AD%B4%E5%8F%B2+%E4%BC%8A%E5%B4%8E%E5%AF%BA'


琵琶湖
大陸から若狭に上がり山一つ越えて湖北から船を出せば、湖南までは一直線の歴史的、物資的の回廊であった。

『伊崎の竿飛び』は、琵琶湖に突き出た小さな半島の先端に建つ伊崎寺で行なわれる恒例の行事(8月1日)。
伊崎寺は、貞観年間(859~877年)開基と伝わる比叡山延暦寺の末寺で、修行道場でもあった。
長さ13mの太い角材が、水平に琵琶湖に突き出され、これが俗に竿と呼ばれるもの。
褌(ふんどし)や水着姿の若者がこの竿の先から琵琶湖へと豪快にダイビング、
または、竿先につけた鉄の環に足をかけてぶら下がった状態から、7m下の湖面に飛び降りる。
竿とび行事は、今から約1100年前にこの寺で修行中の建立大師が、寺の眼下に広がる琵琶湖に空鉢を投げて、
湖上を行きかう漁民たちに喜捨(きしゃ)を乞い、そのあと自ら湖中に飛びこんで空鉢を拾いあげた、という故事にもとづくもの。
かつては天台僧や信者の修行の一つで、眼下に湖水という高所のため、震えが竿に伝わり、竿の先端にたどりつけずに落ちる者が多くいたという。
今は、事故防止のため、飛込みには一般の人は参加不可()。

近江八幡市・伊崎寺 

 

 

 


・西福寺

2013年09月11日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

蓮如上人の像(西福寺)

 7人の落武者の一人:茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。

寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号(とらふのみょうごう)と正信偈(しょうしんげ)が残されています。

虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

掛嶌山 西福寺
―蓮如上人御旧跡―
近江八幡市沖島町252
TEL 0748-33-9522

<西福寺の歴史>
西福寺は、本願寺第八代御門主蓮如上人に帰依した源氏の落武者の末裔、茶谷・重右衛門が、得度を許され釈西了(約540年前)の法名を頂き島の北東に位置する掛嶌に庵を建てたのが始めでその後、天保13年(1843年)に現在地に寺基を定め堂を建立され現在に至っている。

◆西福寺に現存する宝物
○文明の始め、蓮如上人が、越前吉崎御望から、堅田の本福寺へ向かわれる折り、南風に見舞われやむなく沖島の掛嶌に難を逃れる。
○その時、茶谷・重右衛門という漁師の女房を再度されんがために、新筵のうえで染筆された御名号
  ※南無阿弥陀仏で、特に幽霊再度の虎斑の御名号という。
○お別れの御形見の品として蓮如上人より頂いた正信偈四区の御文 
  ※能発一念喜愛心 不断煩悩涅槃 凡聖逆傍再廻入 如衆水入海一味
○幽霊が極楽より持ち来たと伝えられる表装の絹布
  ※銀金地織
西福寺の宝物として現在もお名号堂に安置されている。

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◆西福寺には、道場から寺院への移行を示す証拠が残っている。
☆道場の本尊は、「虎斑の名号」と称し実如上人の頃、阿弥陀如来が安置され寺院としての形態が始まる。
☆当時の絵像本尊は、実如上人より授けられ裏書には、「江州西福寺奥島北道場物也」とあり、後に御木像安置により真宗寺院となった。