○歴史年表
時代 | 西暦 | 主な出来事 |
奈良時代 | 713 | 藤原不比等が沖島に奥津島神社を建立 |
奈良末期 恵美乃押勝が反逆の罪に追われ、一族をつれ沖島に流される | ||
「淡海の海 奥津島山奥まりて わが思う妹のこと繁けん」 万葉集 柿本人麻呂 | ||
平安時代 | 1159 | 保元・平治の乱で敗れた源満ち仲の落ち武者七人が沖島に漂着して住みついた『落人伝説』 |
堅田漁民の師範のもとに、漁業を、沖合から対岸にかけて拡張し、漁具・漁船の改善をはかった | ||
室町時代 | 1336 | 沖島は南朝新田氏の再起の根拠地となった |
1443 | 八代将軍足利義政は、沖島に番所を設け、湖上航通の取締を命じ、今参の局を沖島にかくまった | |
1467 | 応仁の乱に破れた堅田漁民が沖島に逃れ、復帰をはかった | |
1535 | 佐々木六角氏やその家臣池田大和守の御使や中間がしばしば沖島に出向いている。 塩・材木・兵糧米・軍事用の物品の搬送にも動員され沖島の船・船頭がこれにあたっていた |
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1566 | 浅井長政が沖島惣に宛てた書状の中で、船舶の通航を保障するとともに矢銭(軍事課銭)を 免除することを通達している |
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1569 | 沖島は六角氏の軍事編成の中で船舶般送部門を担当された | |
1570 | 織田信長は浅井氏攻略戦のさい沖島惣中のもつ足の早い船三艘を動員された | |
1573 | 安土城造営当時より、沖島・奥嶋の一帯は軍事調練の場として活用されていた | |
織田信長が小谷城を攻撃するとき、沖島に居住する武士(漁師)に小谷城の裏山からの攻撃を命じた | ||
信長より申出通りの褒美(漁業権)を永久に頂戴して帰郷した | ||
1574 | 信長より漁業権を認定した上で警固も義務づけられていた | |
1579 | 沖島は特権と商業的利潤を得ていることにより御礼米という形で安土へ進上することを指示 | |
1580 | 信長は沖島大地曳編漁獲魚献上を受けその礼状をおくっている | |
1590 | 豊臣秀吉は大津の浜で大地曳網の天覧を沖島・堅田の漁師に命じた | |
1592 | 秀吉は朝鮮出兵に際して琵琶湖周辺から水軍を徴発、沖島からも従軍者を出している | |
江戸時代 | 1600 | 沖島は家康の側についた。家康は関ヶ原の戦いの戦勝の祝いに沖島の住民から白米を受け取る |
1734 | 享保十九年、寒側辰清はその著近江興地志に「漁人多く住み その島の石をとってこれを売る おのが居を亡すものなりというべし」と書いてみる |
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1773 | 堅田西乃切と沖島の間に漁場をめぐる論争が起こった | |
1782 | 堅田小番城の釣り漁師が沖島の漁場で釣漁を許可してくれるよう願い出る | |
1805 | 田畑の開墾が必要となり、対岸に求めている | |
1822 | 堅田の釣り漁師が沖島の網場を荒らす | |
1852 | 沖島の救主ともいわれた茶谷龍城氏が西福寺で生まれた | |
1855 | 対岸の宮ヶ浜の平地三町余を田畑化し年貢を貢納することを申請した 安政年間に沖島は大火災にあい、住宅再建 |
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明治時代 | 1875 | 県知事は島民に永代湖上借区の免許状を与える |
1887 | 島内で石材採掘がさかんに行われた 茶谷龍城氏父業を継ぎながら開業医として島民の健康に意を用いた |
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1889 | 蒲生郡島村沖島になる | |
1893 | 島村立沖島尋常小学校開校式 | |
1896 | 県内大雨。史上最大の水害 | |
1902 | 県が漁業法を発布 | |
1904 | 南郷洗堰の建設。湖面の水位が低下する | |
1905 | 沖島尋常小学校に水産補習学校が付設 | |
1908 | 沖島が専用漁業免許状を受ける | |
1909 | 沖島343番地に沖島小学校が新築される(旧校舎) | |
1910 | 漁業法が施行される | |
大正時代 | 1912 | 第二琵琶湖疎水完成 |
1914 | 共有山林大岩ガ鼻の石切場権利の譲渡を受ける 石材販売組合が組織された |
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1921 | 沖島防波堤改修工事 | |
1923 | 石材価格が最高になる | |
昭和時代 | 1928 | 沖島電灯会社設立。沖島に初めて電灯がついた アメリカ産の川マスが琵琶湖に放流される |
1929 | 琵琶湖産コアユを東京へ空輸 | |
1932 | 栗谷に新港が建設された | |
1935 | 第一回琵琶湖対策会議 | |
1938 | 沖島郵便取扱所開設 | |
1940 | 沖島郵便局と改称 沖島尋常小学校と改称 | |
1945 | 失火によって沖島発電所が全焼 | |
1947 | 関西配電により水中ケーブルで送電が開始された 沖島中学校を併設。島村立沖島小学校と改称 |
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1949 | 漁業法改正 第一種共同漁業の免許を得た | |
1951 | 島村を廃し、蒲生郡八幡町に編入 専業漁場を返還し、共同漁業権が免許された |
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1953 | 沖島港が第一種漁港に指定された | |
1955 | 153世帯 808人 | |
1960 | PCB被害(魚・シジミ) | |
1961 | 新洗堰完成 | |
1964 | 琵琶湖大橋開通 | |
1965 | 152世帯 747人 | |
1968 | 琵琶湖水質汚濁防止連絡会議。琵琶湖総合開発第一次 | |
1970 | この頃から木造船からプラスチックが使用されるようになる | |
1971 | 琵琶湖のゴミ総ざらえ運動 | |
1972 | 琵琶湖を美しくする運動発足 | |
1973 | 新漁港着工 淡水赤潮発生 | |
1974 | 琵琶湖総合開発により近代的な漁港が造成される | |
1977 | 赤潮発生。アユ一万匹死ぬ。合成洗剤追放運動 | |
1979 | 琵琶湖条例ができる | |
1981 | 新漁港完成。赤潮発生8カ所 | |
1982 | 沖島に浄化センターが完成 | |
平成時代 | 1994 | 異常渇水。マイナス123センチ(9月15日) |
1995 | 栗谷に沖島小学校の新校舎が完成。竣工式が行われる | |
2008 | 沖島保育所休所 小学校内に沖島幼稚園開園、柔軟な通学区域の制度が始まり、八幡小学校区から1名転入 3月末、通学船「わかば」廃船 |