城郭探訪

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宮荘清水ヶ井(しずがい)城 近江国(五個荘)

2014年07月10日 | 陣屋

近世には金堂陣屋の米倉が置かれていたお城。

お城のデータ

所在地:東近江市宮荘町     (旧神崎郡五個荘町宮荘)   map:http://yahoo.jp/cc79HD

築城期:

築城者:

現 状:グランド・宅地

区 分:平城(居館)

遺 構:

目標地:宮荘集落の北の表示板

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.9

内屋敷の周辺に

お城の概要

 清水ヶ井(しずがい)城は、中世城館調査報告書には「宮荘地区の西端にあるL字形に土塁が残ってる。」とあるが、現在は「宮荘草の根広場」となっていて、遺構は消滅していた。 

佐々木六角の居城観音寺城・和田山城・箕作山城・佐生城の本貫地の真ん中位置した居館。

周辺は、田地に改変され、グランド、宅地、田地に。

西に観音寺城、東に和田山城北に伊庭山(佐生城・仮称北須田山城・仮称伊庭山城)

歴 史

 清水ヶ井(しずがい)城、築城年代や築城者など詳細なことは定かではないが、

江戸時代に五個荘を領した大和郡山藩金堂陣屋の米藏が置かれていたと云われいる。地元では、「藏屋敷」と呼んでいた。今は位置の確認すらできない。

明治6年作成の「北荘村地券取調絵図」には、宮荘清水ヶ井遺跡南北1/3町・東西1/2町の長方形に土塁で囲まれ、西を除く三方には二重の、西には三重の濠を巡らせ形で表し、内部に建物二棟米藏。

神崎郡誌、宮荘村史より

三人衆塚

佐々木六角の近臣、宇野因幡守・辻伊賀守・川副兵庫助は北荘(現宮荘)に居住いた。

「野良田の戦い」に勝った浅井氏は赤田信濃守とはかり三人衆の寝返りを誘い、応じた三人衆と共に六角氏に敵対するも赤田信濃守と共に屋敷に籠城した浅井合戦について記している。

後に、大和国郡山藩の所領となり、米蔵があったと伝えられ、地元では「蔵屋敷」と呼ばれいた。

宮荘集落の北の表示板

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、五個荘町史

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


宮荘殿屋敷遺構 近江国(五個荘)

2014年07月10日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:東近江市宮荘町     (旧神崎郡五個荘町宮荘)   map:http://yahoo.jp/cc79HD

築城期:

築城者:

現 状:田地

区 分:平城(居館)

遺 構:土塁・墓(塚)・墓碑・石碑

目標地:宮荘集落の北の表示板

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.9

 

お城の概要

佐々木六角の居城観音寺城・和田山城・箕作山城・佐生城の本貫地の真ん中位置した居館。

周辺は、田地に改変され、道路から東に20m先に墳墓が残る。

近年に道路脇に松を植栽され「墓碑、殿屋敷・舞堂碑、堂立・壕碑」が新設された。

(墓碑より)前方にある墳墓(通称 塚)は、この時の合戦で討死にした三人衆の一人である辻伊賀守とその一族を葬った墳墓であると伝えられています。   合掌

西に観音寺城、東に和田山城北に伊庭山(佐生城・仮称北須田山城・仮称伊庭山城)

歴 史

神崎郡誌、宮荘村史より

三人衆塚

宇野因幡守・辻伊賀守・川副兵庫助は六角氏の近臣で北荘(現宮荘)に居住いた。

「野良田の戦い」に勝った浅井氏は赤田信濃守とはかり三人衆の寝返りを誘い、応じた三人衆と共に六角氏に敵対するも赤田信濃守と共に屋敷に籠城した浅井合戦について記している。

三人衆の塚は宮荘西北の水田に点在する。

墓碑より

永禄三年(1560)北之庄の三人衆(川副兵庫助・宇野因幡守・辻伊賀守)は、江北の浅井長政と手を結び、観音城佐々木六角軍と交戦、世に言う北之庄合戦である。                                                                                                           前方にある墳墓(通称 塚)は、この時の合戦で討死にした三人衆の一人である辻伊賀守とその一族を葬った墳墓であると伝えられています。   合掌

    

宮荘集落の北の表示板

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、五個荘町史 

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一色館 近江国(旧愛知郡・湖東)

2014年07月10日 | 居館

  

お城のデータ

所在地:東近江市中一色町 (旧愛知郡湖東町中一色) map:http://yahoo.jp/InGbnU

区 分 :平城

築城期:

築城者:

城 主:津田籐左衛門

目標地:弘誓寺、八幡神社

駐車場:八幡神社

訪城日:2014.7.9

 

お城の概要

 中一色にある八幡神社の北100m辺り(弘誓寺周辺)が一色館跡ではないかと推定されるが、定かではない。
 

 

歴 史

近江愛智郡志の二六頁に、津田籐左衛門邸阯

「東押立村中一色に殿屋敷と㯍す所あり此邸は佐々木本家の獎津田籐左衛門在邸の阯なりという」と記してあり。

一色館は、下里城,北菩提寺城などと共に、旧高野街道(彦根城~永源寺)沿いにある。

同一人物カ?・・・・慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成ら西軍に与した秀信に対して徳川家康ら東軍に与するよう諫言したが、聞き入れられなかった。

米野の戦いでは、飯沼長資や津田藤左衛門らとともに兵2500を率いて東軍1万8千を相手に奮戦するが、やがて劣勢に陥って殿軍を務め撤退し、岐阜城籠城の方針を決めるも、福島正則の言に従って降伏する。

 

八幡神社

 

西に1mの段丘が

高橋溜池阯・・・

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア、近江愛智郡志

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