お城のデータ
所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田小字寺子谷 map:http://yahoo.jp/5qUnHv
現 状::山林
遺 構:曲輪・土塁・堀切・案内板
区 分:丘陵城
標 高:230m 比高差:30m
築城期:室町時代
築城者:和田惟政
目標地:善福寺
和田氏
駐車場:説明板前の空地に駐車場
甲賀市市史跡
訪城日:2015.4.9
お城の概要
和田支城Ⅰは和田城から和田川を挟んで西側の丘に築かれている。谷側に突出した先端部に立地、西から派生する鞍部に堀切を設け、東側を城域としている。
堀切の直上に方形の主郭を構え、南以外に土塁を築き、周囲を急峻な切岸として防御機能を高めている。主郭から一段下がった副郭や帯曲郭・腰曲郭も構え、和田谷の城郭群の中で最も大きく和田城と共に中心的な役割を持っていた。
主郭は西端にあり、西側と北側に土塁が残り、東側の土塁はやや削られてお稲荷さんを奉っている。主郭部の北東隅部は一段高く帯曲郭となっている。
主郭から西へおりると副曲郭の削平地があり、北東隅部に土塁が残り、その下にもう一段削平地がある。
城の南側に民家が数件あり、その間の道を西へ進むと民家の間の細い路地からお稲荷さんへの参道が延びている。
参道(主郭へ)
歴 史
・・・・・信長公記・・・・
一巻 流亡将軍 一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事
義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。
越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
築城年代は定かではないが和田氏によって築かれたと云われる。 和田氏は源満政を祖とするとされるが、一説には佐々木六角氏の一族ともされ、後の15代将軍足利義昭を領内に匿った時の当主和田惟政は十八代という。
和田城を本城として和田支城I・和田支城II・和田支城III・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を配置している。
足利義昭を匿った和田惟政は、その功によって芥川城主となり、その後高槻城主となった。惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に徳川家康に仕え旗本として旧領を回復し治めたという。
副曲郭の西の土塁
主郭と副曲郭の堀切
土塁
腰曲郭
帯郭
腰曲郭
東側の堀切
東側の堀切
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板
本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!