城郭探訪

yamaziro

和田支城Ⅰ 近江国(甲賀)

2015年04月10日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田小字寺子谷   map:http://yahoo.jp/5qUnHv                                                         

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・案内板

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:30m

築城期:室町時代

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.9

お城の概要

  和田支城Ⅰは和田城から和田川を挟んで西側の丘に築かれている。谷側に突出した先端部に立地、西から派生する鞍部に堀切を設け、東側を城域としている。

堀切の直上に方形の主郭を構え、南以外に土塁を築き、周囲を急峻な切岸として防御機能を高めている。主郭から一段下がった副郭や帯曲郭・腰曲郭も構え、和田谷の城郭群の中で最も大きく和田城と共に中心的な役割を持っていた。

  主郭は西端にあり、西側と北側に土塁が残り、東側の土塁はやや削られてお稲荷さんを奉っている。主郭部の北東隅部は一段高く帯曲郭となっている。

主郭から西へおりると副曲郭の削平地があり、北東隅部に土塁が残り、その下にもう一段削平地がある。

城の南側に民家が数件あり、その間の道を西へ進むと民家の間の細い路地からお稲荷さんへの参道が延びている。

参道(主郭へ)

歴 史

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 築城年代は定かではないが和田氏によって築かれたと云われる。 和田氏は源満政を祖とするとされるが、一説には佐々木六角氏の一族ともされ、後の15代将軍足利義昭を領内に匿った時の当主和田惟政は十八代という。

和田城を本城として和田支城I・和田支城II・和田支城III・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を配置している。

足利義昭を匿った和田惟政は、その功によって芥川城主となり、その後高槻城主となった。惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に徳川家康に仕え旗本として旧領を回復し治めたという。

 

主郭 東西25m×南北35m

主郭の土塁土塁土塁上から主郭へ

副曲郭  東西50m×南北35m

副曲郭の西の土塁主郭と副曲郭の堀切土塁腰曲郭帯郭 腰曲郭東側の堀切

東側の堀切 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!  


瀧川城(五反田城) 近江国(甲賀)

2015年04月10日 | 丘陵城

  虎口の説明板

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町櫟野字五反田 (甲賀郡甲賀町櫟野字五反田) map:http://yahoo.jp/gMI0KE

別 名:五反田城

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・溜池・案内板

区 分:丘陵城

築城期:室町時代

築城者:滝川美作守貞勝

目標地:櫟野(らくや)寺

駐車場:櫟野(らくや)寺駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2014.7.21・2015.4.9

 駐車位置

お城の概要

瀧川城は、甲賀町櫟野のうち、下組集落の南西丘陵先端に所在する。櫟野川寸前まで張り出した丘陵先端部は2つに派生していて、東側が川城、西側に川西城が並んで櫟野川沿岸平野部を見下ろしている。

川城の登城口は東北に張り出した小尾根の下にあり、小尾根の付け根屈曲して主曲郭の虎口は、現在案内板が建つ北東隅に開口している。

  主曲郭は東西46m、南北30m。南に堀残しの土塁、北には盛り上げの土塁に挟まれ東西は土塁は無い。北側土塁は山ノ神を祀るため破壊された中央以外は完存する。外壁は、自然の地形の垂直の切岸。南側土塁の最高所の懐に食い込むように方形の溜池が掘られている。滝川西城にも同塁の掘り込みある。

土塁の背後は大きく堀切られ堀底は広く、その西に帯曲郭Ⅱとなりその北は鋭く落ち込んで、帯曲郭Ⅲとなる。

縄張の基本は、甲賀地方で一般的な単郭方形で、西方に向かい合う滝川西城との一体運用のためであろう腰曲輪Ⅲを配備する。

山続きの南側を堀切で断ち、本来は四方土塁囲みが基本だが?。

 単純な縄張ではあるが、丘一面に築かれているため、切岸・土塁は垂直に近い鋭さを誇り、高度な技術が。

瀧川城と瀧川西城は甲賀市櫟野(らくの)下集落の南西、櫟野川を隔て南の丘陵に東西に並ぶ。

北側土塁は山ノ神を祀るため破壊された中央以外は完存する。

西下のⅢの曲郭(ネットの下へ)

池の前の土塁西側土塁の上が、帯曲郭Ⅱが巡る。

西側土塁の上が、帯曲郭Ⅱが巡る。   

歴 史 

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。

東側の瀧川城が滝川氏の本城と伝わる。

市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。

織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられる。

瀧川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は瀧川城に籠城し、六角氏に味方した為、瀧川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い瀧川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。

瀧川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

櫟野寺の前の櫟野川を渡る~約50m先左折南下~橋を渡るとすぐ右手西方の山林に白い案内板が見える。ここが虎口。

滝川氏

 

丸に竪木瓜 (紀氏流/伴氏流?)

 滝川氏は、織田信長に仕えて柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉と並んで四天王の一人に数えられた滝川一益で世にあらわれた。

一益の出た滝川氏は、一説には紀長谷雄の後裔とする紀氏族、伴姓で甲賀武士伴党の一族の末裔とする説が流布している。

 滝川氏系図には諸本ありそれぞれ異同が激しく、一益の父にしても一勝とするもの、資清とするものなどがある。 ただ、系図類を仔細に見ると貞勝・範勝などの人名、池田氏との親戚関係など共通する部分があり、 出自はともかくとして元になる系図あるいは言い伝えがあったようだ。滝川一益の出自は不詳というしかないが、 伴氏の分かれで近江甲賀郡の出身というのが蓋然性が高いように思われる。家紋の巴紋も、甲賀伴氏の流れを感じさせるものだ。

一益の出自を探る

 『古代氏族系譜集成』に収録された近江伴氏系図によれば、伴氏は『伴大納言絵巻』で知られる伴大納言善男の後裔で、 三河伴氏の一族設楽六郎大夫資乗が甲賀郡大原郷へきて大原氏の祖となった。大原氏からは滝氏、櫟野氏、毛枚氏が分かれ、 櫟野氏の後裔に一益の祖父滝川美作守貞勝が出た。貞勝は櫟野に城を築き、その子滝川三郎一勝は新たに滝城に移り 滝川氏を名乗った。その一勝が父の跡を継いで滝城主となったが、永禄三年(1558)、一族の争いから城を追われて甲賀を出奔したという。甲賀を出た一益は、たまたま従兄弟の池田恒興が尾張の織田信長に仕えていたことから、恒興の世話で織田家に仕えるようになった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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