城郭探訪

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益田城 近江国(びわ町)

2015年04月26日 | 平城

増田長盛出生之跡と記された碑 山門

お城のデータ

所在地:長浜市益田町 (旧東浅井郡びわ町益田) map:http://yahoo.jp/Ijn65X

区 分:平城

現 状:寺・田畑・宅地

遺構等:石碑・堀?

築城期:織豊期

築城者:増田氏

目標地:真宗寺・益田農村集落センタ-

訪問日:2015.4.25

駐車場:益田農村集落センタ-

お城の概要

益田城は、現在は真宗寺境内。城の遺構はないが、寺の山門脇に『増田長盛出生之跡』と記された石碑が立てられている。

この碑のところから寺を巡るように堀らしき水路があるが、遺構か?。益田集落は湧水が

歴 史

益田城は、豊臣政権五奉行の一人増田長盛の出生の城。 

長盛は、真宗寺9世祐愍の次男増田右衛門尉照澄(お寺の次男坊)であった。

(出身地は近江説の他に、尾張中島郡増田村との説もあり、増田長盛は愛知の出身ともされ、稲沢市に増田屋敷の跡もある)

 増田長盛は、天正元年に羽柴秀吉に召し出され、天正18年に水口岡山城主、文禄4年には大和郡山城主となった。 関ヶ原の戦いには西軍に組みし、戦後改易となった。

増田 長盛(ました ながもり)・・・秀吉近臣時代

天正元年(1573年)、織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され300石で仕える。このとき28歳であったという。この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉麾下にあっては中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。

天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げる。翌年3月の紀州攻めでは、『根来寺焼討太田責細記』によると大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功も記されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見氏担当の申次となり、里見義康が臣従する際の条件について助言を与えた。後北条氏が滅亡すると長盛は下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった。 この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江水口を拝領する。

太閤検地では石田三成と共に中心的な役割を担い美濃国・越後国といった要地の検地奉行を務めた。三条大橋・五条大橋の改修工事など作事も担当し、三条大橋には今も長盛の名が刻まれている。

文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し奉行として占領地統治や兵站に携わり、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

秀次事件では長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。

長盛屋敷跡

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


茂山陣所・権現坂   近江国(余呉)

2015年04月26日 | 陣城

事前予習【賤ヶ岳合戦 柴田軍 前田利家・利長隊の軍行】

余呉町観光協会絵図

 柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いが行われたのは、天正十一年(1583)4月19~20日(新暦6月9~10日)のことであった。

 前年の冬、領有する北陸からの行動が雪で制限された勝家は、一時の休戦を欲した。
そこで、天正十年十一月、勝家は、前田利家、不破勝光、金森長近を宝寺(山崎城)に派遣して秀吉と会わせ、和平の承諾を得た。

 利家は交渉が成功したものと思い込み、京都の織田信長の墓(大徳寺)に詣で、和平が成ったと信じて帰国し、勝家も油断したという(『太閤記』)。
また、この時に、すでに内応の約束がなされていたといわれている(高柳光寿氏)。

 しかし、秀吉の言は表面上のもので、着々と勝家討伐の軍を編成していた。これを察知した勝家は決戦に臨む。

 利家は京都からいったん能登に引き上げ、三月四日頃勝家本隊に所属して北ノ庄を出陣し、その時に勝家に人質を差し出した。(『前田家譜』『古今消息集』『土佐国蠧簡集』)。 

三月十二日、柴田軍は、北国街道の要衝である柳ヶ瀬を中心に布陣し、しばらく前田利家は勝家本陣の玄蕃尾城(長浜城主 柴田勝豊(勝家の甥)が事前築城していた)にいた(『富田文書』)。

 前田利家隊その後に、別所山砦に配置された(『近江輿地志略』)。

別所山は遠く鎌倉の頃より天台宗の別所山・万福寺のあったところであるが、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いたという(楠戸義昭氏『戦国佐久間一族』)。

 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにおいて、別所山砦には勝家方の七尾城城主・前田利家と府中城城主・前田利長父子が砦を構築し、天正11年(1583)2月初旬から4月20日の戦いに至るまでの約2ヶ月間布陣したしたところである。

 柴田勝家の玄蕃尾城の本陣より行市山頂を経て別所山・中之谷山・林谷山の各陣地は、尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれた強力な陣地として構築された。
 しかし、4月20日未明に佐久間盛政の大岩山砦の急襲から始まった戦いは、前田利家父子の離反により柴田勝家軍は敗走することとなった。

佐久間盛政進路・前田利家進路

前田利家進撃路利家退却路

 佐久間盛政の深追いによって佐久間隊が賤ヶ岳に破れ、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

この前田隊の退却は、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城(武生)に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

 

城郭フォーラム『前田利家の茂山陣・交通の要衝権現坂』

『茂山陣所と権現坂を探る。』

秋葉砦(遠望)・・・研修バスをここで降り

長谷川講師の挨拶・ウォキングアップ・自己紹介・・・・・。

茂山砦は柴田軍の最前線・・・明神山砦・堂木山砦の尾根続き

茂山砦(しげやまとりで)

茂山に陣する前田勢・・・・賤ヶ岳合戦絵図より

 鍾馗に金軍配団扇の馬印、その周辺には梅鉢文の旗がなびき、茂山に陣した前田利家の陣であることがわかるが、利家は描かれていない。利家が二千余の軍勢を二段に備えたという記述は、甫庵『太閤記』による。

 体勢を整えた佐久間盛政が秀吉方と激戦をくりひろげている最中、前田勢は突然退却をはじめ、柴田方総崩れの直接的原因を作った。『川角太閤記』では、秀吉と利家の間で、利家が直接戦闘に加わらないという密約があったという

 利家と勝家の関係は、天正三年(一五七五)勝家が信長から越前の支配を委ねられた際、不破光治・佐々成政とともに柴田目付とされたことにはじまり、直接的な主従関係はない。

敗北して北ノ庄城へ逃れる途中、勝家は越前・府中城の利家のもとに立ち寄り、労をねぎらっている。

鶴翼の陣立て

近江ノ国米ちゃんblogより【今日の見学ルート図】

林道(登山口)から茂山砦の西群に

武者控え(野営宿所小屋)

茂山砦 東群

 

http://yahoo.jp/7HQek9

 茂山砦は、急拵えの砦(塹壕/伏兵や銃座/見隠土塁)であろう。

頂部に土塁と思しき遺構が見られる程度で、それ以外は塹壕遺構が多く残る。
別所山の前田利家・利長は、佐久間盛政による4月20日未明の大岩山への中入り攻撃を助けるため、神明、堂木の上方に位置する茂山に移動した。
前田父子が茂山に陣を構えたのは、ほんの数時間だけであり、陣城遺構は銃座/身隠土塁・塹壕のみ、当然のことか?

銃座・塹壕銃座・塹壕塹壕や窪みが南斜面の余呉湖に向かって銃座/見隠土塁。頂部標高350m~300m(余呉湖・標高140m)より比高160mまで下る

ここで、昼食・・

特製弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

昼食後、再び頂部布陣の方へ登って、午後から利家の退却路へ。布陣跡から午前中に来た道を戻り比高100m程で林道へ降りる。

塹壕・銃座を再度確認しながら頂部~西群~林道へ

林道に戻り、地蔵堂(たるみ坂)の両側に堀があり、一方は余呉町川並へ下りていくルート。

研学バスで来ない場合は、ここまで(標高300m程)歩いて登って来なくてはならない。今回は塩津から林道を見学バスでした。

東側の堀切1は浅い地蔵堂は、櫓台跡に祀られ(林道整備や改修で半分以下に)堀切2「小字おかお」岡尾と文室でよばれる

「たるみ坂」・足海/川並側遺構には、峠は関門機能を持つ切所(せっしょ)で要害地形。江戸期に何度か改修されいる

=『茂山砦西遺構』

茂山砦西遺構は、なだらかな山道で、たるみと呼ばれ、佐久間隊・前田隊・羽柴隊の通過軍道。

塹壕~土橋の両側は止め土塁

権現峠へ

権現峠

秋葉権現

権現峠~利家が塩津方面へ撤退した退路

参加者20名で記念撮影(見学会人数)

ここで、講師:長谷川博美氏より、再踏査図の説明会

 『余呉町秋葉城』城郭遺構の再踏査図

余呉・文室へ

深山イカリソウ

林道脇の旧秋葉神社跡

文室集落に下山!

見学バスで、森林センターへ

鳥居扁額

集落内の北野神社 

境内社の足前神社に関して。

かつて、余呉湖の西に足坂という坂があり、権現神が祀られていたという。
足坂は、足前の変化であると考え、式内社・足前神社の古跡であるという。
そこに祀られていた蔵王権現の石像を北野神社境内へ移して祀ったものが、この足前神社。

見学バスで、森林センターへ

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・余呉観光協会・賤ヶ岳合戦記・ウィキペディア

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

本日歩数    12,027歩

歩行距離     9.0km

実歩行時間    2:17

消費カロリー 249.1kcal

脂肪燃焼量  35.5g