城郭探訪

yamaziro

篭城(道場)山城 近江国(多賀)

2017年10月10日 | 居城

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町敏満寺 map:https://yahoo.jp/ON7Sms

現 状:山林(山腹)

区 分:居城

遺 構:空堀・土橋・曲輪・

築城期:

築城者:

城 主:今井氏?

標 高:150m  比高差:30m

目標地:金屋橋バス停

駐車場:犬上川左岸路上駐車

訪城日:2017.9.7

お城の概要

敏満寺の南の青龍山から、南に延びる丸山の山頂部遺構が南籠城山城で、

周囲を土塁で囲い、主郭部と南東部に平削地(副曲廓)からなっている。薄くなった横矢折れ・虎口・カザシも十分確認された、東側の副郭から眺望が利く。

一隅に櫓台が残り、南東の平削地の先端部に巨岩が残り物見岩のたぐいか?

南籠城山城の北西下1kmに、籠城は空堀で囲われた遺構が

お城の歴史

『甲良町史』には、どんじょ山の城砦跡の存在を誌し、「山名の由来は古来篭城山の訛ったものといわれて来たが、あるいは佐目道場久遠寺の前線基地としての道場山の訛ったものとも考えられる。」としている。

『嶋記録』には、

敏満寺城(多賀町) 今井左衛門尉没落の事

秀俊妻女ハ番場土肥か息女なりしか、秀俊か息8歳尺夜叉をかゝへ、・・・・敏満寺に十余年の春秋を送り程見に」 今井一門連書乃写シ 「今井敏満寺ニ有し比」と記す。

六角方への内通を疑った浅井亮政により、天文2年(1533)長浜の神照寺にて誘殺された。

秀俊の遺児・尺夜叉丸と一門・家来は、六角氏の支援を得て敏満寺に10余年の間牢籠しており、その際の東方を守備する砦ではないかと推測するとのことであるが、詳細は不明である。

〇下之郷城 今井一門連書乃写シ 「覚へ、今井敏満寺ニ有し比、・・・」

今井氏の敏満寺城か?

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写真集:ttps://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/919642364865006

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査5(旧愛知郡・犬上郡の城)・見学会資料、『嶋記録』

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籠城山城 近江国(多賀)

2017年10月10日 | 山城

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町敏満寺 map:https://yahoo.jp/G-ao1N

現 状:山頂

区 分:山城

遺 構:虎口・土塁・櫓台・曲輪・

築城期:織豊期か?

築城者:宗門衆か?

改築者:今井氏か?

標 高:224m  比高差:100m

目標地:金屋橋バス停

駐車場:金屋橋バス停の犬上川右岸の空地

訪城日:2017.9.7

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

お城の概要

 犬上川の扇状地が多賀町大字楢崎・敏満寺で、南北から張り出した尾根で狭くなり、湖東平野への西の出口を形成している。南の尾根上に勝楽寺城が、北の尾根上に南籠城山城(どんじょ山、道場山)が築かれていた。

南籠城山城は二郭で虎口・土塁・櫓台跡。北側の尾根上に位置する南籠城山城は、土塁の廻る主郭とその南東方向に延びる削平地とからなっている。

主郭は東西42m、南北18mで中央南側に櫓台、北西に土塁・明瞭な虎口、土塁には横矢折れ、さらに内部は土塁や段築が三つに仕切られている。

南東に延びる削平地は35m×10mで先端部に大きな自然岩が点在している。周囲には犬走が廻る。

お城の歴史

 伝承では宗門衆の城とされるが、

遺構は織豊期の武家のもの城郭遺構で、織田信長に抵抗する浅井氏や六角氏の残党と連携した宗門一揆衆が立て籠もったという伝承がある。

『嶋記録』には、

○敏満寺城 今井左衛門尉没落の事

秀俊妻女ハ番場土肥か息女なりしか、秀俊か息8歳尺夜叉をかゝへ、・・・・敏満寺に十余年の春秋を送り程見に」 今井一門連書乃写シ

「今井敏満寺ニ有し比」と記す。

六角方への内通を疑った浅井亮政により、天文2年(1533)長浜の神照寺にて誘殺された。

秀俊の遺児・尺夜叉丸と一門・家来は、六角氏の支援を得て敏満寺に10余年の間牢籠しており、その際の東方を守備する砦ではないかと推測するとのことであるが、詳細は不明である。画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

写真の説明はありません。籠城山城俯瞰図{城郭研究家 長谷川博美氏作図}

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写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/919642364865006

    ttps://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/919644231531486

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『嶋記録』・遺跡ウォーカー

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