城郭探訪

yamaziro

来栖舘 近江国(多賀)

2018年05月22日 | 居館

栗栖館

 
時代
中世細分不明 
所在地
滋賀県犬上郡多賀町栗栖 
緯度経度
35.240417, 136.312028 
遺構概要
城郭分布調査1、城館。

お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「犬上郡 来栖村 往古此所ニ久徳兵庫ト士居住スト云記ニ出ル、久徳左近兵衛ガ一族ナルベシ、古城跡今ニアリ」、又栗沢治右衛門、堀平左衛門等居住セリ云、是又古城跡今ニ有シト云、」と記す。

参考資料:城郭分布調査1、地図番号15。『日本城郭大系』11。 


三尾城(みおのき) 近江国(古代山城)

2018年05月22日 | 山城

三尾城(みおのき)は、近江国にあった日本の古代山城。城跡の所在地は不明で、現在の高島市付近に推定される。

『日本書紀』天武天皇元年(672)7月条によれば、天智天皇の死後に大海人皇子(のち天武天皇)・大友皇子の間で起こった争乱(壬申の乱)の際、大海人皇子方は大和国・近江国の2方面に各数万人の軍勢を配して進攻したが、そのうち近江方面軍はさらに湖北(湖西)方面軍・湖東方面軍に分かれ、湖北方面軍においては将軍の出雲臣狛・羽田公矢国らが北陸路を押さえたのちに7月22日に「三尾城」を攻め落としたという。

三尾城が記録に見えるのは、上記記事のみになる。

城名の「三尾」は地名で、『和名類聚抄』にも近江国高島郡に「三尾郷」と見えており、現在は滋賀県高島市安曇川町三尾里を遺称地とする。

同地は天智天皇・大友皇子の営んだ大津宮の北方に位置することから、三尾城は大津宮の北面防衛目的で築造された城であったと推測される。築城時期は定かでないが、天智天皇の時代には白村江の戦い(663)の敗北を契機として西日本の各地に古代山城(いわゆる朝鮮式山城や神籠石)が築城されており、三尾城も同様の背景による築城とする説が有力視される。

具体的な城の所在地は、現在も明らかでない。比定地には諸説あるが、特に白鬚神社(高島市鵜川)北側の長法寺山に比定する説が有力視される。同地では長法寺跡(伝・嘉祥2年(849)創建)や中世山城跡が重複することもあって、確実な遺構は明らかでないが、1982年(昭和57年)の調査では山中において7キロメートル以上に及ぶ長大な石塁などの存在が認められている。これを江戸時代のシシ垣(動物よけ)とする伝承もあるが、長大さ・水門などシシ垣にはそぐわない点も見られることから、(後世にシシ垣に転用されたとしても元々は)古代山城の遺構である可能性が指摘される。

なお三尾の地では、継体天皇の出自と関わる古代豪族の三尾氏が割拠したことが知られる。この三尾氏は朝鮮文化の影響を強く受けた氏族であることから、三尾城の築城主体に三尾氏を推定する説があるほか、実際の壬申の乱での三尾城主将に三尾氏を仮定する説もある。また、『日本書紀』天武天皇元年(672)5月是月条では「自近江京至于倭京、処処置候」として、道々には候(うかみ、斥候・監視所)が置かれたことが知られるため、三尾城は城郭ではなくこのような監視所であったとする説もある。

 


岩尾山城跡 近江国(甲賀)

2018年05月22日 | 山城

所在地:滋賀県甲賀市甲南町新田岩尾山 

緯度経度:34.888250, 136.127417 
遺構概要:城跡 
お城の概要
甲賀市甲南町域南西部、三重県境にそびえる岩尾山は、その名のとおり岩で覆われた標高471mの霊山です。平安時代初期に最澄が開山しました。
修験者、忍者の修練山で、中腹には屏風岩などの奇岩が点在しています。馬の形をした「おうま岩」、扇を開いたような「扇岩」や、たたくと木魚の音がする「木魚岩」など、その名もユニークです。
また、頂上からの眺めは360度の大パノラマ。眼下には杣川沿いに平野が広がり、遠くには鈴鹿山系を見渡すことができます。
 岩尾山の麓には、明治年間に農業かんがい用としてつくられた岩尾池が広がっています。この辺りは山と大自然の美を巧に取り入れた名勝地で、紅葉の季節は特に山々が真っ赤に色づき、とてもきれいです。
参考資料:遺跡ウォーカーの比定地、びわこビュロー

井口(いのぐち)城(弾正屋敷)  近江国(長浜市高月町井口)

2018年05月22日 | 居城

 

お城のデータ
所在地: 滋賀県長浜市高月町井口168 map:https://yahoo.jp/8kOIx9
別 称:弾正屋敷 
現 状: (学校・宅地)富永小学校
築城年:室町期 
築城者: 井口氏
区 分: 平城 (居城)

遺 構:石碑。現地説明板

目標地: 富永小学校

駐車場: 富永小学校来客用駐車場

訪城日: 2018.5.20 

お城の概要

井口城は 井口集落は高時川の水路が集落内を巡る。「高時川上流には井口氏が管理していた井関が今も残り、取水された用水が村々の水路をとうとうと流れ、中世以来の水利遺産」。

 高時川の中流、長浜市高月町井口が阿古(浅井長政の母)の故郷。阿古の父である井口弾正経元(つねもと)は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。理覚院庭園は江戸初期の庭園で小堀遠州作とも言われているようです。

経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです」。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、

「伊香郡 井ノ口 住 佐々木隋兵 井ノ口宮内少輔 同 井ノ口仙蔵 同 黒田末 小寺重蔵 同 寺田半之助」名を記す。

井口氏は、近江佐々木氏の一族とも、崇峻天皇の後裔と云う近江中原氏の一族とも伝えられ、中世以来、高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握し、「湖北四家(磯野氏、赤尾氏、雨森氏、井口氏)」に数えられた。

 織豊期に浅井亮政からの姻戚関係を受け入れ、浅井氏の重臣に列するようになった。享禄4年(1531)の六角定頼との「箕浦の戦い」で、井口弾正経元は主君の浅井亮政の身代わりとなって討死し、亮政はこれに報いるため、経元の嫡男・経親を重用するとともに、経元の娘阿古を亮政の子・久政の室に迎え、阿古御料は長政を産んだ。    その長政は、織田信長の妹・お市を室とし、お茶々(後の淀殿)、お初、お江の三姉妹をもうけ、末娘のお江は二代将軍徳川秀忠の正室となり、その子の家光は三代将軍に、和子は天皇家へと嫁している。
阿古御料は、小谷城落城後に信長に捕らえられ、十指を毎日1本ずつ切断され殺されたという悲惨な記録が残る。

井口氏によって築かれたと云われる。高時川の「井預り」として水利権を掌握し、湖北四家の一つに数えられた。

浅井長政の母は「阿古(あこ)」という。江ら三姉妹の祖母である。高時川の中流井口が阿古の故郷だ。阿古の父である井口弾正経元は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。
 「経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです。井口氏は代々、湖北を流れる高時川の水利権を統括する「井関預かり」であったことから、浅井家は自領への水利権を優位にするため、久政と阿古の婚姻を進めたとも考えられている。
 小谷城が落城する際、阿古は捕らえられ、信長の怒りによって指を数日に分けて切り落とされた後、殺害されたという記録が『嶋記録』という文書にある。信長にしてみれば、長政の母ということでの憎しみが相当あったのでしょう。久政は戦争を好まず、六角氏との争いを避けていたため無能と思われがちだが水利件を得ることで、領地に富をもたらした。
 井口弾正邸の石碑

井口弾正のお墓

井口弾正の菩提寺「理覚院 地蔵堂」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす。


雨森(あめのもり)城  近江国(高月町雨森)

2018年05月22日 | 居城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城のデータ

所在地:長浜市高月町雨森 map:https://yahoo.jp/OMz0-B
区 分:平城  

現 状:宅地(雨森芳洲庵・雨森神社)
遺 構:郭・土塁・堀
築城期:室町期

築城者:雨森氏

城 主:雨森弥兵衛清貞
目標地:雨森芳洲庵
駐車場:雨森芳洲庵横に路上駐車
訪城日:2018.5.20

お城の概要

雨森氏によって築かれたと云われる。 湖北四家の一つに数えられた。

 雨森集落は高時川の西側在り雨森治兵衛尉清秀の居館。雨森集落の東にある雨森芳洲庵(東アジア交流センター)が城館跡、土塁が巡り、東側の土塁は高さもあり、雨森集落、井口集落は水路が集落内を巡り、高時川の水引かれいます。

 雨森芳洲庵がある。雨森芳州はこの地の生まれ。対馬藩の朝鮮方佐役という一種の外交官を務め、朝鮮通信使に通訳として江戸へ随行した。門をくぐると見える美しい庭は誰でも無料で拝観することができる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外

お城の歴史

 北近江雨森氏

  藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。磯野氏、赤尾氏、井口氏とあわせて湖北の四家として知られ、室町期初頭には足利義満の命で後小松天皇の武者所となる。京極氏が守護職として赴任すると、これに仕えるようになる。

 その後、室町期後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。浅井家にあって、雨森清貞は海北綱親、赤尾清綱とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。浅井氏滅亡後は各地に離散している。

 良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。

雨森 弥兵衛尉

雨森氏は伊香郡雨森を本拠とした国人領主で、磯野氏、赤尾氏、井口氏とともに湖北の四家と称される。

 弥兵衛尉は亮政・久政に仕えて奏者をつとめる側近の一人だった。また、赤尾氏・海北氏と並んで「海赤雨の三将」とよばれる勇将で、浅井氏の一方の旗頭であった。京極高広と浅井久政が戦ったとき、海北善右衛門と雨森弥兵衛が戦死したことが「島記録」に記されている。長政の代になると雨森次右衛門、藤六の兄弟が活躍、元亀元年の姉川の合戦において奮戦したことが記録に残っている。

  戦国時代には雨森弥兵衛清貞がおり、海北綱親・赤尾清綱とあわせて「海赤雨の三士」と賞された。雨森氏は浅井氏が滅亡すると阿閉氏に従っていたが、阿閉氏も明智光秀に荷担して山崎合戦で滅亡し、雨森清次は渡岸寺村に蟄居した。

  雨森清貞は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏の家臣。通称である弥兵衛の名で知られる。近江国伊香郡雨森城主。

 浅井久政の代から浅井氏に仕え、奏者として国政に参与し、各地の合戦で活躍していたようだが、清貞に関する資料が少なく詳しい事績はよくわかっていない。また、この清貞の名も確定的なものではなく、本当に「清貞」と名乗っていたかは不明である。

 雨森氏の事績に関しては、元亀元年(1570)の姉川の戦いにおいて、雨森一族の雨森清良がこの戦いで討死すると、生き残った弟・清次が家督を継承した。天正元年(1573)の小谷城の戦いで主家・浅井氏が滅亡すると、織田信長に降った阿閉貞征に属したが、天正10年(1582)の山崎の戦いで阿閉氏が滅びると清次は渡岸寺村[1]に蟄居した。清次の子・清広はその後松江藩に仕えた。雨森氏の末裔に江戸時代の儒学者雨森芳洲がいる。

雨森芳洲家(対馬藩)
 朱子学者、木角十哲の一人、雨森芳洲が出た家。朱子学者であった芳州は朝鮮ひいきであったため、望んで朝鮮半島の窓口である対馬藩の側用人となる。芳洲は、寛文八年(1668)生れで、一族の子孫であり、この雨森で生まれたとされますが、父は京都で医者をしていたこともあり、京都で生まれたという可能性もあるようです。
写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然


https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1330616473767591
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、

本日の訪問ありがとうございす。 


馬上(まけ)城 近江国(高月町馬下)

2018年05月22日 | 居城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:長浜市高月馬上 map:https://yahoo.jp/zWND5D

現 状:集落・宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:伊吹氏

遺 構:?

目標地:走落神社

駐車場:走落神社前路上駐車場

訪城日:2018.5.20

お城の概要

国道365号線の山田川の阿弥陀橋を渡り、ここはすぐ国道から離れて右手の道をとる。この先は水路が流れる風情ある馬上(まけ)の集落が続く。右手の奥に走落神社がある。式内社で由緒があるが、旧堂は山の上にあり、明治の台風で崩壊、改築で現地に移転してきた。
 神社を過ぎた先の三叉路の所に指先付の「左北国きのもと道」の道標が立っている。道標に従いここを左折して国道と合流する。  

お城の歴史

走落神社の由緒

Hashiriochi shrine.jpg

北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える

Wikipediaには、、走落神社 (長浜市高月町馬上)

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに向かう豊臣秀吉は、当神社の鳥居の前で下馬し、必勝を祈願したと伝わっている。

高月町馬上の歴史

戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。

 『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 馬上 住 伊吹源十郎」の名を記す。高月町馬上集落には、伊吹氏館が存在した。

『ウィキペディア』には、「戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。」織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です

これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。

信長公記 巻六 元亀四年

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  

①現滋賀県木之本町内

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、家、屋外

天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 江戸期には、近江彦根藩の武士に、140石取りの都筑弥次右衛門家という武士の家がある彦根藩は平士以上は知行50石以上(江戸時代初期は35石)であり、馬上が許されました。直参の知行取の人数は時代によって異なりますが、明治元年の「侍中由緒帳」(彦根藩井伊家文書)による

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia(高月町馬上)、走落神社の社伝、『江州佐々木南北諸氏帳』

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1325748777587694

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