京都新聞2016.2.14より
お城のデータ
所在地:近江八幡市馬淵 マップ:http://yahoo.jp/0G7nMp
区 分:居館
築城期:鎌倉時代中期
築城者:佐々木広定
遺 構:なし・・・真光寺に墓碑
訪城日:2014.1.2
お城の概要
馬淵城の詳細は不明であるが、近くを流れる白鳥川を何らかの形で利用していたであろうことは容易に想像される。
白鳥川に関しては、現在馬淵地区の東を流れているが、これは昭和40年頃の圃場整備に伴って川筋が変えられたもので、当初は馬淵地区の西を流れていた。
この川筋の名残が現在も馬淵地区を流れる細い水路と考えられ、馬淵城は白鳥川が大きく蛇行し、三方を白鳥川で囲まれた地形に築城されていたと推定される。
馬淵地区にある真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。
また、馬淵は岩倉山から良石を産出することもあって、馬淵衆や岩倉衆などの石工集団の発祥の地としても知られている。
集落には城屋敷・一ッ堀・蔵の町・籔雨田(流鏑馬田か)の地名という字名が残っていて、城は集落の北東部にあったと推察されているようです。ただ、城を示すような遺構は何も残っていないようで、真光寺に馬淵氏の墓はある。法要のときに子孫が集まるのみだとの事。
歴 史
『日本城郭体系 11』によりますと、「建保六年(1218)に佐々木弘綱が将軍実朝より賞賜された馬淵庄を、その弟広定が受け継いで馬淵氏の祖とし居館をおいた。
永禄・元亀年間(1558-73)の間、佐々木氏の没落後もここにその居を置いていたものと思われ、同町真光寺墓地に左記の銘を有する五輪石塔(市指定物件)があって、そのことを裏付けているのではなかろうか。
真光寺
馬真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。
東に観音寺城
まぶちうじ【馬淵氏】
中世の武家。近江国蒲生郡馬淵(滋賀県近江八幡市)より起こる。佐々木氏一族。佐々木氏系図によれば定綱の後裔である広定が初めて馬淵氏を称した。
代々近江の守護・戦国大名六角氏の有力家臣で、南北朝時代の初めから室町時代前半にかけては,守護六角氏の守護代として活躍した。とくに広定の曾孫にあたる義綱は、延文・貞治年間(1356‐68)に活躍の跡が顕著であり、六角氏の領国政治を支えた重臣であったことがうかがえる。
馬淵広定は佐々木定綱の五男で、蒲生郡馬淵庄を領して馬淵を称したのに始まる。この広定の四男基綱が青地右馬助の養子となり、青地氏を継いだという。その時期は鎌倉時代の中ごろと考えられている。青地庄は経済的にも交通的にも重要な位置を占めており、江南地方に勢力の拡張を目指す馬淵氏や、その背後にある佐々木氏にとって青地庄に一族の者を配置することは有効であったために、基綱を青地氏の養子として青地氏を佐々木氏の一族化したものだろう。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家家伝、日本城郭体系、淡海の城、京都新聞
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