お城のデータ
所在地:米原市(旧坂田郡近江町)顔戸 map:https://yahoo.jp/-9RvbV
区分:居館
現 状:竹林
築城期:室町期
築城者:田中氏
遺 構:屋敷跡・土塁
目標地:聞法寺
駐車場:聞法寺の駐車場
訪城日:2017.12.9
お城の概要
田中屋敷については、同字に住む泉朝美氏所有の絵図(永禄年の写し)を手掛り、西1.5mの水路、北に巾2~3mの、高さ1mの土塁の残存、東は日撫山に囲まれた一画を比定する。
又、日撫山を取巻く一帯には随所に土塁状の道が山に向かって伸びる。
お城の歴史
『淡海国小間攫』には、「坂田郡 顔戸村 日撫大明神(中略) 又八家ノ人ト云、姓氏古ヨリ有之由、日撫社ノ棟札ニアルヨシ、田中氏・須戸氏・森氏・石井氏・粕淵氏・久保田氏・糠居氏・羽渕氏等ナリ」と記す。
京極氏から分派した高島田中氏からさらに分派したと伝わる田中氏、嶋記録の佐和山合戦に記載として「田中弥庄司八ノ十一入顔戸住人八兵衛の親地」と記す。長岡住の田中氏とも関わりがあるか?また、同記録に永禄十二年七月十二日付けの浅井長政から嶋若狭入道に宛てた手紙に際し「・・・在所飯村は敵の浅妻ちかけれハ、顔戸の物も松村に嶋が妻子ハ置にけり・・・」と、嶋の妻子を松村という所にかくまった事が記されている、松村は、大字内の北はずれで、田中屋敷に差程離れていない。
日撫神社の由緒 [鎮座地:滋賀県米原市顔戸77]
武将の尊崇も厚く、佐々木四郎高綱は、常に当社を敬い武運長久を祈願され、太刀並に生食馬(いけづきうま)の鞍を奉納される。
後小松天皇の応永13年京極高光は、社殿の造営と大伽藍を建立されたが、数度の兵火に罹り、織田信長叡山諸院を焼亡し戦火北上するにより、神官、僧侶等これを恐れて自焼したため、古記録、宝物悉く焼失した。享保6年現在の社殿を修営され、拝殿は寛政年間に建てられたものである。また正保3年北小路の田の中より古鏡が発掘される。
田中屋敷
この日は、田中屋敷の竹林の伐採直後で、遺構は、屋敷跡や土塁が確認出来た。
土塁が残る
聞法寺
https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/959451994217376
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査6旧坂田郡の城』、『嶋記録』、日撫神社の由緒
本日の訪問ありがとうございす!!