城郭探訪

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堅田陣屋 近江国(大津)

2016年11月09日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:大津市本堅田1  map:http://yahoo.jp/I9WqCn

現 状:宅地・駐車場

区 分:陣屋

築城期:江戸初期

築城者:堀田氏

歴代城主:堀田正高・堀田正峯・堀田正永・堀田正賓・堀田正富・堀田正敦

遺 構:石垣・現地説明板

駐車場:拝観者用駐車場利用

訪城日:2013.4.4・2016.11.6

nobusan(中世の自治都市・堅田) より

お城の概要

堅田陣屋は景勝地である浮御堂満月寺の北側一帯に築かれていた。 ちょうど伊豆神社の東側一帯が「御陣屋」と呼ばれ陣屋跡であった。 伊豆神社の東側にある舟入遺構の所に案内板が設置されている。

お城の歴史

堅田藩(かただはん)は、近江国滋賀郡・高島郡(現在の大津市堅田)に存在した藩。藩庁は堅田陣屋。

元禄11年(1698年)堀田正高によって築かれた。 堀田正高が下野国佐野から一万石で入封し、堅田に陣屋を構えたのが堅田藩の始まりである。

文化3年(1806年)堀田正敦のとき一万三千石に加封され、文政9年(1626年)に一万六千石で再び下野国佐野に転封となり、堅田藩は消滅し天領となった。

戦国時代、堅田は堅田水軍と呼ばれる水軍衆がおり、安土城を本拠として天下布武を狙う織田信長にとっては、堅田は重要拠点と見なされていた。また、堅田は水運の要衝としても大いに栄えた。

中でも堅田は、織田信長や豊臣秀吉が重用した堅田水軍の根拠地であって、中世から江戸時代にかけては、水路権を握った堅田衆と呼ばれた人々によって、琵琶湖最大の自治都市を築いていた。この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」が、

西イ港この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」

近世には、元禄11年(1698年)3月7日、下野国佐野藩主であった堀田正高が1万石で堅田に移封されたことにより、堅田藩が立藩した。藩政の基礎は初代藩主・正高から第3代藩主・堀田正永の頃にかけて固められた。第6代藩主・堀田正敦は陸奥国仙台藩主・伊達宗村の八男であり、その経緯から若年寄、湯島聖堂再建の副奉行、『寛政重修諸家譜』などの編纂を務めるなど文教政策に携わっている。文化3年(1806年)には3,000石を加増され、1万3,000石の所領を領することとなった。なお、正敦は仙台藩の藩主に若年藩主が相次いだため、その補佐役も務めている。藩政においても5ヵ年に及ぶ倹約令を発し、藩財政再建に努めた。

正敦は文政8年(1825年)4月に城主格に任じられたが、翌年10月10日に再び佐野へ移封となったため、堅田藩はここに廃藩となった。

堅田の所領のうち、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。

 

堀田 正高(ほった まさたか)は、下野佐野藩主、のち近江堅田藩の初代藩主。

徳川綱吉に仕え大老を務めた堀田正俊の三男。母は稲葉正則の娘。名は正有正在とも。

貞享元年(1684年)、父が暗殺されたときに1万石を分与され、佐野藩主となった。

元禄11年(1698年)3月7日、近江堅田に移封されて、堅田藩主となる。

享保7年(1722年)5月9日、七男・正峯に家督を譲って隠居し、

享保13年(1728年)5月29日に62歳で死去した。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』・現地説明板・nobusan(中世の自治都市・堅田)

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