「信長公記」 巻三 元亀元年
1、相撲見物 常楽寺にて相撲の事
信長公は常楽寺にしばらく滞在し、3月3日近江国中から力士を集めてこの地で相撲見物をした。
集められた力士は百済寺の鹿・百済寺の小鹿・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地与右衛門といった面々であったが、会場には他にも腕自慢の相撲取りたちが我もわれもと詰めかけ、数をも知れないありさまとなった。
さて木瀬蔵春庵の行事のもと取組は進み、最後に鯰江又一郎・青地与右衛門が勝ち残った。信長公は両人を御前に召し寄せ、褒賞としてのし付きの大小を与え、さらに両人を家臣に加えて相撲奉行に任じた。両人とも面目の至りであった。また見事な相撲を見せた深尾又次郎には信長公から衣服が贈られた。
相撲ののち信長公は京へ向かい、5日①に入京して半井驢庵邸に宿泊した。京には畿内隣国の諸侯や三河の徳川家康もすでに到着しており、挨拶の者たちで門前は市をなすがごとき情景となった。
①入京した日付は5日ではなく2月30日が正しいとされる。したがって相撲見物も3月3日ではない。
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=信長が名付けた東家、西家が奉納=

◇近江八幡 滋賀報知新聞■平成27年12月24日(木) 第17380号
織田信長が好んで行わさせた「竹相撲」発祥の地と伝えられる新宮大社(近江八幡市安土町下豊浦)の拝殿に二十日、竹相撲のようすを描いた絵馬が奉納された。
相撲発祥の歴史を後世に
竹相撲は太い竹を用いた力比べで、力自慢の男二人がとりあったが決着が付かず、信長の采配で引き分けとなり、健闘の褒美として信長から二人に「東」と「西」の名字を与えたと伝えられている。
今年の信長祭りでは、同神社境内で地元有志による竹相撲が再現され、相撲発祥の地としての歴史文化に思いを馳せた。十一月二日には、信長と竹相撲の歴史を伝える記念碑が境内に建立された。
竹相撲を実際にどのように行われたかがわかる図画が残されていないため、東家と西家が地元出身の画家・塩谷榮一氏(京都市在住)に作画を依頼し、絵馬に描きあげられた。

奉納された絵馬は、縦一メートル二〇センチ横二メートル一〇センチの大きさでヒノキの額縁に納められている。いかにも強そうな男二人が両手で太い竹をもち、相撲を取りあう緊迫した闘いのようすが力強く描かれている。
塩谷氏(74)は「国会図書館や相撲博物館などに足を運び、信長の竹相撲に関する文献や資料を探して調べ、安土城が完成した時に兵士を集めるために競わせたと伝わる竹相撲をイメージし、四か月かけて描きあげた。私は地元との関わりが深く、こうした郷土の歴史を伝えていく思いを大切にしていきたい」と話していた。
また、絵馬を寄贈した両家の代表で東家四十四代目当主の東康彦さん(67)は「竹相撲が行われたことにより、信長から名字を頂いた歴史を大切にしていきたい。名字にゆかりの深い竹相撲の絵馬が奉納できたことは両家の誉れでもあり、大変うれしく思う」と話した。
除幕式には、両家や神社関係者、塩谷氏、地元の子たちが参加した。ヨシ葺き屋根の拝殿の天井下のベールが取り払われた大きな絵馬は、相撲発祥の安土の歴史を伝えている。