古き宿駅「野路駅」の名残り
萩の玉川
源頼朝などが宿泊した中世の宿駅、野路宿は近年の発掘調査により、南草津駅の西側一帯の地にあったことが明らかになってきましたが、その故地には、宿駅を偲ぶ何らの遺構はない。
その中で、野路町の旧東海道沿いに復元された萩の玉川跡は、日本六玉川の一つ、野路の玉川の故事来歴を伝える唯一の名所であります。
その跡地には「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる波に月やどりけり」と詠った源俊頼の歌碑が残されています。
「野路の玉川」旧跡 (草津市野路四丁目)
この町ほど紀行文や歴史書の中に多くその名をとどめているところはなく、「野路の篠原」として和歌などにも数多く詠まれています。
近江路や 野路の篠原 夕ゆけば 志賀よりかえる笹波の風(捨玉集)は、代表的なもので、このような歌が数多く詠まれるようになったのは、この地に野路の宿がおかれにぎわったことに起源します。
都から東下りの旅人が、逢坂山をこえ瀬田の唐橋を渡って、一里山のだらだら坂経て野路の玉川に達すると、そこは今までとちがった広々とした野原の一本道となりますから、野路という実感を持ったことと思います。
ことに都から離れ、東国への長い旅路を思うとき、はるか左手にかすむ琵琶湖の面、紫に煙る比叡、比良の山並みを望み、言い知れぬ思いに胸を打たれたことが想像されます。そのような哀愁を帯びたほとんどの歌が、野路の篠原という言葉の中に、含まれていると思われます。このような土地がらが、やがて地名となって野路と呼ばれたものでしょう。
この地にまつわるお話も悲話が多く、たとえば平宗清(平宗盛の子)の最後の地である話であるとか、佐々木高綱の馬子切りの話などがあります。また、源平以後の争乱に多くの人家が戦災をうけたことはもとより、幾百人の人たちがその犠牲になったものか、今も町のあらゆるところに石仏の埋まっていることも、この土地の歴史上の位置を示しているように思われます。