虎口
お城のデータ
所在地:亀山市川崎町川崎一色字野畑 map:http://yahoo.jp/Nm0Knu
築城期: -
築城者: -
改築者:羽柴秀吉
城 主: -
区 分:平城
遺 構:土塁・空掘・井戸・現地説明板
城 域:70m×120m
訪城日:2014.12.6
お城の概要
古城跡が所在する川崎町は、安楽川と八島川、御幣川が合流し、安楽峠越えの街道や近世には巡見道が走る交通の要衝であった。
周辺には、落山城跡や野元坂館跡、青館跡があり、特に峯城跡は八島川対岸に位置する。
古城跡は、八島川左岸、川から約10mの高さの河岸段丘上にある。
南側に谷が入り込む急斜面を選地しており、自然の地形を巧みに利用した築城といえる。
主郭となるのは、周囲に土塁が巡らされた曲輪1で、東側が開口し虎口2が設けられる。
この虎口は南側の土塁幅が広く、横矢が掛かる。
また、曲輪1には北西側にも虎口状の土塁開口部があり、横堀3へ通じている。
曲輪1の北側は、土塁と堀を連続して配置することで防御を固め、さらにそれらを屈曲させることで横矢を掛けるといった構造をしている。
このような複雑な構造は、築城当初のものではなく、天正10年(1583)とその翌年、羽柴秀吉軍が峯城を攻めた戦いの中で改修されたものと考えられる。
ただし、横堀が峯城側に設けられている点や、「九々五集」に「秀吉公ハ川崎村ニ本陣シ給ふ」と記されている点から、羽柴方の陣城とする見解がある一方、峯城への侵攻路を押さえる位置に虎口が設けられている点から、峯城方の支城とする見解があり、改修時の築城主体については明らかではない。
古城跡の築城にいたる経過や時代背景は不明である。
しかし、八島川のまさに対岸に峯城跡が位置することから、峯城跡に対する「古城」で、峯築城以前はここが峯氏の居館であった可能性がうかがえる。
八島川東岸の段丘上に築かれ、城の西側は崖状、南から東には入り組んだ自然谷を利用して築城されている。
唯願寺(真宗高田派)前の道から主曲輪への虎口部が確認できるが、道路によって取り崩され東側の自然谷から虎口への経路は不明、現状は寸断された道路の西側に虎口から入城できるが、未整備で概要は目視は困難な状態であった。
虎口を入ると正面に高さ3mほどの土塁が北側へと廻っており、主曲輪へは土塁を迂回する形で南側から入る。
北側の土塁上に上がると、こちら側には三重の空堀が巡らされ圧巻である。この三重の堀を越えると、西に向いて食い違い虎口が設けられており、こちらは搦手か。
食い違い虎口を形成する土塁は更に北に延び、防御ラインを形成しており、井戸跡も確認できる。
唯願寺(真宗高田派)の背後の竹薮の中に3重の空堀が見え、中に入り土橋から虎口、土塁などを楽しむ事が出来る。
八島川へ下る道路の左側にはすでに深い空堀があり、その道路北側は、主郭正面への虎口が確認できますが、中は竹と藪で主郭へは侵入できません。
唯願時の左横を進み城域に北側から入るとすぐに高さのある土塁と3重の空堀、長大な横堀が目に入ってきます。
八島川へ下る道路の左側にはすでに深い空堀があり
歴 史
なお、北方約1kmには峯城があり、峯城の支城ではないかと考えられているが、現在の古城城の縄張りからは、天正11年に秀吉が伊勢攻めを行った時に、秀吉方によって改修され、本陣であった。
古城(ふるしろ)跡の築城にいたる経過や時代背景は不明である。
現在残る複雑な城郭構造は、築城当初のものではなく、天正11年(1583)とその翌年、羽柴秀吉軍が峯城(亀山市川崎町) を攻めた戦いの中で改修されたものと考えられる。
羽柴方の陣城とする見解がある一方、峯城への侵攻路を押さえる位置に虎口が設けられている点から、峯城方の支城とする見解があり、 改修時の築城主体については明らかではない。『現地説明板より』
参考資料:現地説明板・伊勢の城
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!