山上の西の丸・北の丸・本丸・二の丸へ
二の丸の石垣砕石の矢穴多数残る。
お城のデータ
別 称:八幡城
所在地:近江八幡市宮内町 map:http://yahoo.jp/9llC9f
区 分:山城
標 高:251m 比高差:155m
現 状:公園・寺・山林
遺 構:郭・石垣・石碑・説明板
築城期:織豊期
築城者:伊庭氏
改築者:豊臣秀次
駐車場:日牟礼八幡宮
目標地:村雲瑞龍寺・日牟礼八幡宮
訪城日:2011.12.17
お城の概要
安土城の焼失から3年後、天正13年(1585年)に、18歳にして近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)が築城した城が八幡山城です。後背部は 津田内湖(昭和46年干拓)、東には西の湖(ラムサール条約登録湿地)が広がっています。本丸、二の丸、北の丸、出丸からなる城郭を持ち、南側の山麓には 城主「豊臣秀次」の居館や重臣達の邸宅があったとされ、中世の城の形態である山城の形を取る最後の城として歴史的価値が高いとされています。築城に当た っては、安土城下の町や社寺の一部を移し、新しいまちづくりが進められました。
八幡山城は長らく石垣を残すだけでしたが、村雲御所瑞龍寺が移築されロープウェーが整備されたことなどにより、多くの観光客が訪れる観光拠点になって います。
八幡山城の本格的な調査はこれまで行われてきませんでしたが、平成12年度からの本格的な調査では、豊臣秀次居館跡から金箔瓦の破片(約200点)などが出土 しています。
歴 史
長享年間(1487-89)に六角氏の家臣・伊庭氏の居城としていた。
天正13年(1585)羽柴秀次は叔父の秀吉から近江国に20万石を与えられ、八幡山を本拠とした。天正十三年(1585年)に羽柴秀次(豊臣秀次)によって築かれました。文禄四年(1595年)に秀次が秀吉の命により切腹して八幡城も廃城となりました。昭和三十七年に秀次の菩提寺の村雲瑞竜寺を京都より移築されました。八幡は城下町ではなくなりましたが、秀次が開いた八幡堀を含む水運に優れ、近江商人の町として残りました。
築城から5年後(1590年)、秀次は100万石を領し清州へ移封となり京極高次が城主となりましたが、1595年、秀次が自刃後に八幡山城は廃城(高次は大津城へ 移封)となりました。
本丸西側高石垣
西の丸
西の丸より北・・・長命寺~琵琶湖~対岸湖西~比良(雪雲の中)
西の丸より、西・・・水茎岡山城。
H23の「のろし駅伝のスタート・ゴール」http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/111124/wlf11112409060005-n1.htm
北の丸
北の丸より東の眺望
本丸
本丸の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)。に村雲御所端龍寺を移築されている。
現在、本丸跡にある『端龍寺本堂』は、秀次の母(日秀尼)が秀次の菩提を弔うため京都嵯峨野の村雲に建てたものを、昭和36年に移したもので村雲御所とも呼ばれている。
左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。
真ん中は三上山(近江富士)の左裾に星ヶ丘城址
二の丸から東~右が観音寺城址(繖山)。
遠方が箕作山城(清水山・・鉄塔が建つ)。正面が小脇山城址・太郎坊宮(箕作山系)。
左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。
織田信長亡き後、安土の民を移り住まわせ、城下町・近江八幡をつくりあげた。また、楽市楽座を施し自由商業を推し進めたことが、のちのちの近江商人発祥につながったのではないかとも言われている。
近江八幡の城について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。 |
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