平成28年新春『城歩会』無料特別企画
お城のデータ
別 称:宮部砦
所在地:長浜市宮部町(旧・東浅井郡虎姫町宮部) map:http://yahoo.jp/5FYhjI
現 状:社地(宮部神社)・宅地
区 分:陣城(砦)
築城期:戦国期
築城者:宮部善祥坊継潤
廃 城:天正9年頃
遺 構:城跡碑・土塁・堀
目標地:宮部集落の宮根神社
駐車場:宮部集落の宮根神社(駐車場)
訪城日:2016.1.10
お城の概要
元亀の争乱で、虎御前山城と横山城の繋ぎ城とされ、小谷城からわずか5㎞程南、宮部集落の西側に宮部神社があり、そこが宮部城跡。
土塁・堀・供養塔が残る。神社境内に、見落としそうな位置に「伝宮部城址」の碑や宮部継潤、田中吉政の供養碑が建てられている。
城址には、住宅が建たないというが、ここも例外ではなかった。
歴 史
ーーー信長公記 巻五 元亀三年 3、戦野 奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事
この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
軍道・築地・・・予想図
元亀3(1572)年信長は嫡男織田信忠の初陣に小谷城攻めを選んだ。7月19日に岐阜を出発した信長・信忠父子は赤坂、横山城を経て、21日小谷城下へ到着した。前回と同じく雲雀山と虎御前山を前線基地に佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆が清水谷から水の手まで攻め込み、城下に柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが陣を張った。翌日秀吉が阿閉貞征の山本山城下へ放火、それを阻止しようとした城兵と戦いになったが退けた。織田軍は23日北進して地蔵坊を、24日夜には大吉寺を焼討して僧侶、建造物は灰燼に帰した。
さらに琵琶湖湖上では打下城の林与次左衛門が明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らと海津浦・塩津浦・余呉の入海・竹生島を攻撃した。27日から虎御前山砦の建築が始まった。織田軍に好き放題に自領を荒らし回られても手出しができなかった浅井長政は威信低下を恐れて朝倉義景に信長を倒せるチャンス到来と偽情報を流してついに義景を動かした。29日小谷城へやってきた義景は愕然とした。織田軍は悠々と小谷城前に砦を築き、城下には織田軍の兵が溢れていた。義景は率いた1万5千の兵と大嶽城に篭ってしまった。 間もなく虎御前山砦は完成した。信長はこの砦と横山城の連絡を確保するために八相山にも砦を築き宮部城を改修させ、9月16日秀吉を虎御前山砦の守将に任じ信忠と横山城へ戻った。
これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え(武田信玄の動きに備えるため。このときの信長をとりまく情勢は、ここに書かれるほど余裕のあるものではなかった。)、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。ーーーーー
宮部継潤は、天文9年(1540)9歳の時、比叡山に上り西堂の行栄坊で修行、剃髪して継潤と称した。その後、20歳になって宮部に帰り、湯次神社の社僧善浄坊清潤の養子となり跡を継いだと云われる。やがて、湯次神社の近くに鎮座する宮部神社を修築して城塞化、土豪として自立した。そして、江北の戦国大名浅井長政に仕えた。
元亀2年(1571)横山城の木下藤吉郎に勧められて織田方に転じ3千石を領し、以後宮部城は天正元年(1573)8月の小谷城落城に至るまで、織田軍の重要拠点となり、宮部から虎御前山には軍道が開かれたと伝えられる。
継潤はその後も秀吉の与力として中国遠征などに同行し、天正9年(1581)因幡鳥取城攻めでの戦功により、但馬国豊岡城二万石ついで因幡国鳥取城五万石の大名となった。その後宮部城は廃城となった。
宮部の北東にある湯次神社の善祥坊清潤の養子になった、坂田郡醒ケ井の国人土肥真舜の子孫八は9歳から比叡山で修行し20歳になって継潤と名を改め湯次に戻ってきた。
その後宮部を押領して西暦200年前後からある井守保利社(宮部神社)を改修、城砦化して土豪化し宮部氏を名乗り湖北の他の土豪と同じく戦国大名となった浅井氏に従った。湖北の国人、土豪衆は元は独立しており、京極氏の一被官だった浅井氏が抜きん出た存在になったのでそれを中心に取りあえずまとまったのが浅井家臣団である。だから浅井氏が信長に押され気味になると保身のため浅井氏を見限るものが出る。
秀吉の懐柔策に姉川合戦後最初に寝返ったのが継潤だった。秀吉は継潤を信任していた証拠に長浜城主になると4番目に多い知行を与えた。また甥秀次を人質として継潤の養子とした。継潤もその期待に応え、因幡鳥取城主にまで登りつめた。継潤は小谷城に人質で居る妻を救おうと家臣の友田近右ェ門に暗号を持たせ小谷城へ遣わした。その暗号が分かった妻は城から無事脱出した。また継順の妻と共に城内にいた友田の父も暗号に気づいて城から逃げる事が出来た。
近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。
虎御前山城の遺構
虎御前山の遺構は、一部破壊されている部分もあるが、比較的良好に 残されている。
山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ)(伝織田信長陣)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御がなされる。 また、最も小谷城に近接する伝木下秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に、周囲に帯曲輪が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせる。
虎御前山城図
天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ、9月1日に長政が自刃して浅井氏は滅亡、小谷城攻略戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となった。
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!