勝島城は、「滋賀県中世城郭分布調査報告書」には、城郭分布図に「比定地と勝島城」のみ、解説・踏査図は無い
近江愛智郡志より
お城のデータ
- 所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)小倉町 map:http://yahoo.jp/axZK7V
- 現 状:畑地
- 区 分:平城
- 築城期:
- 築城者:
- 遺 構:愛知川崖・基壇・廓・堀痕・石垣
- 標 高:172m 比高差:ー
- 目標地:県道217号線で分断され愛知川に突き出した愛知川崖の鉄塔
- 駐車場:農道に路上駐車
- 訪城日:2016.4.16
- お城の概要
- 旧愛知郡愛東町小倉集落の南東に位置し、県道217号線で分断され愛知川に突き出した愛知川崖の位置する。勝島城は、近江愛智郡志の挿絵図には、小倉城の西の愛知川崖に「水掘りれ四方を囲う単郭城」であったようだ、小倉城の出丸・支城か?
- 愛知川崖に基壇状に廓に【勝島城址】の城址案内板は、旧愛知郡愛東町の城跡で「鯰江城・小倉城と勝島城」のみ。
- お城の歴史
- 詳細不明。だが、
- 小倉城は、 小倉氏は清和源氏満季流といい、承暦年代(1077~1080)、小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのが、そもそもの始まりと伝えられている。以来、小倉氏は小倉城を拠点として、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を築いていった。
『蒲生系図』によれば、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて功を上げ、近江守護となった佐々木定綱の室は蒲生俊綱の姉であった。そして、俊綱の娘が小倉九郎の室となっている。このことから、小倉氏が鎌倉時代初期においてすでに相当の勢力を有していたことが知られる。以後、小倉氏は佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示し、東近江における一方の雄として続いた。とはいうものの、小倉氏の事蹟が記録などから知られるようになるのは、応仁の乱当時を生きた小倉左近将監実澄の代にいたってである。
ちなみに、小倉氏の出自に関しても諸説があり、『近江愛知郡志』では
(1)小椋實秀の裔にて菅原氏
(2)清和源氏多田満季の裔より出たもの
(3)佐々木満綱の子孫より出た家
の三説を紹介し、(1)に関しては小倉氏の家紋「梅鉢」からうなずけるところだが小椋實秀なる人物が確認できないこと、(2)に関してはその根拠となる系図が南北朝時代で終わっていてそれ以降を継承する正本系図が存在しないことを注記して、それぞれ疑問を呈している。そして、『尊卑分脈』の小椋源氏系図、個人所蔵小椋氏系図を掲載している。
一方、『近江蒲生郡志』では、蒲生氏の一族として小倉氏を取り上げ、「小倉氏は愛知郡小椋を本拠とする清和源氏なり」として、蒲生氏と小倉氏の関係系図と小倉氏系図一本を併載している。
- 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、近江愛智郡志、近江蒲生郡志
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