お城のデータ
所在地:長浜市小堀町 map:http://yahoo.jp/XL4GgO
区 分:平城
遺 構:碑・説明板
築城期:室町期
築城者:小堀氏
目 標:小堀町公会堂
駐車場:小堀町公会堂
訪城日:2015.10.24
お城の概要
小堀町公会堂(公民館)の道を挟んで斜め前に石碑と説明板があります。その手前の路地を入ると池が有り、これは堀跡のようです
小堀氏館は、遺構などは何も残っていないが、小堀地区の総持寺西側住宅地の一角に石碑と案内板が立てられている。
慶長7年の検地の絵図が残っていて、そこには「小堀新介殿屋敷」と記されていて道路と水路に囲まれた長方形の敷地であったようだ。
歴 史
小堀遠州出生地
小堀遠州をだした小掘氏の屋敷跡である。
同家は山門領平方荘上郷内の小掘居住した土豪で、永享7年(1435)の勧進猿楽棧敷注文次第(『長浜八幡宮文書』)に『小堀殿』として登場するのが初見である。その後近くの総持寺の文書に土地の寄進者、売主として戦国初期まで登場する。浅井氏に仕えたことは間違いないが、その滅亡を待たずに秀吉の旗下に入ったらしい。
慶長七年(1602)検地の際作成された絵図が残っており、移住直後の状況を知ることができる。
場所は、小堀町小字東方の一部で、絵図には「小堀新助殿屋敷」と記されている。絵図中の屋敷付近は、縦横に道と水路がめぐっていて、何処までが屋敷であるのか判断に苦しむ。同じく同村に残る検地帳によれば、六畝七歩を「新助殿やしき」として登録しているが、これでは規模が小さすぎるであろう。慶長絵図によると、南に「馬かけ場々」、「下司村堀」があり、屋敷との関連が指摘される。特に、後者は細長い池として現在も水をたたえており、地元では「ばんば堀」と呼ばれている。この堀が屋敷を回るものであったとすれば、先の屋敷地の比定は、もう少し東へ範囲を拡大させる必要。
遠州は、天正7年(1579)当地で生まれた。その頃、父親の新助政次は、当時長浜城主であった羽柴秀吉に仕えていた。
小堀町の共有文書の中に、江戸幕府が慶長検地に使用した慶長7年8月の年号のある「江坂田郡小堀村絵図」がある。それには「小堀新助殿屋敷」とあり、ここがすなわちその地にあたる。この東南には「馬かけばんば」「ばんば堀」、また、西南に「ばんば屋敷」などの地名があり、しかも、当屋敷を中心とした付近一帯の地形は、ほぼ絵図のまま今日まで残っており貴重である。
石碑・説明板(30年前の写真)
ばんば堀(30年前の写真)
小堀 政次 (こぼり まさつぐ) 神主 侍大将 中陣副将
「・・・心の動揺は、刀や槍のさばきにも現れる。 心を弱くすれば、それは必ず相手にも伝わるもの。 一度敵と刀を交えたならば、決して迷うな。 気で倒せ」。豊臣秀吉 の配下として有名な武将。
最初は 浅井家 に仕えていたのだが、浅井家 が 織田家 に滅ぼされた後は 織田家 の家臣となり、秀吉の弟 「羽柴 秀長」 の配下となった。
羽柴秀長 の死後は 豊臣秀吉 の配下となり、主に内政や築城などで功績を上げ、備中(岡山県西部)の城主となっている。
「関ヶ原の戦い」 の後は 徳川家 に従った。
彼の息子の 「小堀 政一」 は 「小堀 遠州」 と呼ばれ、芸術的な 築城 や 庭作り で一躍有名になり、華道や茶道の 「遠州流」 の創始者となっている。
小堀氏館は、築城年代は定かではないが小堀氏によって築かれた。 小堀遠州正一の父正次は、浅井氏に仕えていたが、浅井氏滅亡後に豊臣秀秀長に仕え3,000石を領した。 関ヶ原の役の後、幕府の備中総代官に補され、備中松山城に入りにて14,000石を領した。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、淡海の城
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