お城のデータ
現 状:森林
区 分:丘陵城
築城期:戦国期(大永~元亀年間)
築城者:池田氏
城 主:池田氏
遺 構:曲輪・土塁・堀
標高:245m 比高差:20m
目標地:桧尾神社の鳥居
駐車場:鳥居の50m手前を右折。100mほど細い道を進むと坂で正面に池が,池の側空地に駐車
訪城日:2014.11.13
大手虎口
お城の概要
田地区の隠れ里みたいなところの民家の裏手に城跡はあります。橋を渡り、そのまま正面を登ります。すぐに現在は畑地ですが郭跡と思われる平坦地があり、その上にも平坦地があります。この二つには土塁のなく、後世に開墾されたものかも?。
二段目の平坦地の奥を少し登ると、甲賀定番の単郭方形の主郭があります。西側に平虎口があり、左手の土塁は周りの土塁に比べ分厚く、一段と高くなっていて、櫓がのっかっていたカ。
甲賀特有の単郭のみの城郭とは異なり、低山に築かれた連郭式の丘城で、櫓台を設け土塁囲みの主郭と大きな三つの郭で構成されている
この池田坊谷城の付近には、支城と見られる城が複数存在し池田坊谷城はその本城となっていたカ?
主郭虎口(郭内より)
歴 史
池田坊谷城とは戦国時代 大永~元亀年間に築かれ、池田氏の城と伝わる。その他詳細は不明。
『佐々木南北諸士帳』に、池田城主 佐々木随兵清和源氏 池田太郎定信。
池田城主 後に信長随兵トナル 池田庄三郎亘輝。
池田城主 其後備前北方住国主トナル 青木筑前。の名が見える。
鈎の陣夜襲 長享元年(1487)9月、足利義尚六角攻めのため近江に進発。湖南湖東で高頼軍と合戦。義尚、同年10月1日鈎の安養寺へ陣を移す。その日の夜、甲賀武士が攻撃する。(第1回)同年12月20日の攻撃で義尚負傷。(第2回 これも疑問) 延徳元年(1489)3月26日、義尚(義煕)25歳で病死。(手傷が死因とする説があるが、間違いであろう。
甲賀21家の1つ、池田家 池田大和守
大原源三 望月出雲守 和田伊予守 美濃部源吾 池田大和守 山中十郎 鵜飼源八 服部藤太夫 芥川左京亮 神保平内 佐治河内守 上野主膳正 伴播磨守 高嶺蔵人 大河原源太 隠岐左近 多喜勘八 頓宮四方介 内記伊賀守 岩室大學介 大野宮内
主郭内 池跡?
←城道か?山道か?民家裏の切岸
池の間の車道(土橋?)・・・後方が城址
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系
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