城郭探訪

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佐和山城の石垣、彦根城に再利用 井伊家、豊臣との戦いに備え

2015年03月16日 | 平山城

佐和山城の石垣、彦根城に再利用 井伊家、豊臣との戦いに備え

佐和山城の石垣を再利用したことが分かった鐘の丸西面の石垣(彦根市金亀町・彦根城)

 滋賀県彦根市教育委員会は12日、徳川家重臣だった井伊家の居城で特別史跡・彦根城(同市金亀町)から、石田三成の居城で関ケ原合戦で落城した佐和山城(同市佐和山町)で使われていた石垣と瓦片を確認した、と発表した。佐和山城の石垣を利用したことは江戸中期に書かれた井伊家文書「井伊年譜」に記述があるが、実際に発見されたのは初めて。市教委は、豊臣家との戦いに備え、築城を急ぐため再利用したのではないか、としている。

 佐和山城は、彦根城の東約2キロにあり、三成が1600(慶長5)年に西軍を率いて関ケ原合戦で敗れたあと、徳川家康の重鎮井伊直政(なおまさ)が城主となり、04(慶長9)年の彦根城築城開始に伴い廃城となった。

 城が築かれた佐和山(232メートル)の地盤には青みがかったチャート(堆積岩の一種)が含まれている。本丸跡にわずかに残る石垣にもチャートが確認された。こうした石垣は彦根城でこれまで確認されず、佐和山城の石垣はどこにいったのか謎とされていた。

 今回見つかった石垣は、彦根城大手門跡に近い「鐘の丸」西面で確認された鐘の丸は城内で最初に完成した曲輪(くるわ)で初代城主の直継が最初に住んだ建物があったと伝わる。石垣も築城当初に造られ、一度も修理されていない。

 確認された石垣には、チャートと湖東流紋岩という2種類の石が混在しているが、県内の城でチャートの石垣は佐和山城だけで、石材を移して再利用したと断定した。高さ約7メートル、長さ約30メートルにわたり組まれ、大きい石では縦約60センチ、横約120センチあった。

 瓦片は、「太鼓丸」東側の石垣内側から出土。手のひら大の丸瓦や平瓦などがあり、栗石の代わりに詰められていたとみられる。このうち軒平瓦片に、佐和山城跡から出土したものと同じ文様「一巻き均整唐草文」があった。同文様は県内では佐和山城跡でしか見つかっておらず、佐和山城で使われていたと推定できる「二重の均整唐草文」も出土した。「二重の均整唐草文」は伏見城から金箔(きんぱく)瓦として出土しているという。

 中井均滋賀県立大教授(城郭史)は「佐和山城から彦根城へ移築したとの文献は江戸中期の記述なので内容に疑問もあったが、考古学的に移築が立証できたことは価値がある」と話す。

 13日から彦根城の開国記念館で出土した瓦片の展示を行う。

~京都新聞記事~

「平成26年度彦根城石垣探検隊」当日配布資料


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