お城のデータ
所在地:東レ瀬田工場内 大津市大江1丁目1-1 map:http://yahoo.jp/JQ3s05
築城期:南北朝
改築期:戦国期
築城者:佐々木氏
改築者:山岡氏によって改修され石垣にて天守台も作られた。
城 主:高野甲斐守、山岡景隆の弟景祐
遺 構:天守台、城址碑
目標地:東レ・若松神社
駐車場:若松神社
訪城日:2013.9.25
若松神社より城址方向 遠景の森が、窪江城(別名大江城址)
お城の概要
昔は尾根上だったJRの線路を挟んで東レの工場内へ続く。 築城は南北朝の頃。戦国期に山岡氏によって改修され石垣にて天守台も作られた。
資料によると天守台が残っておりコンクリートで相当補強はされていますが石垣は往時のものとの事。(工場内には城址碑も建てられているようです。)
元々、この辺りには古墳があり、若松神社には陶器でできたお棺が出土した。これら古墳を利用した城域が、今は、城址の中心部は工場の敷地内にある。
東レ瀬田工場(大江1丁目1-1)内にあり、100m前後の標高をもつ小丘陵地に立地していました。
湖上を望むにも陸上交通をおさえるにも格好の立地条件で、かつ川と湖が自然の要害を形づくっていたと言えます。
歴 史
窪江城の歴史は日本城郭大系でも不明と記され、あくまで伝承レベルとして、建武年間(1330年代)に近江佐々木氏によって築城され豪族の勢多判官一族が初代城主を務めたと考えられ、その後、足利方の武将・摂津掃部頭がこの付近を支配したと言われるそうです。
現在は東レ敷地内には石垣も残る。ちょうどJRの線路側にある水路などはひょっとしたら当時の水濠の名残か?
城主は当初高野甲斐守でしたが滅亡し、瀬田斐守でしたが滅亡し、瀬田城主山岡景隆の弟景祐が守ったと記されています。
瀬田城は、瀬田唐橋の東南畔に位置し、窪江城と共に瀬田橋と東海・東山道を監視する軍事的要衝の地を占めていた。
この瀬田城は、「寛政改修諸家譜」によれば、瀬田の土豪山岡氏の一族で、田上城主であった山岡資広が永享年間に初めて築城したとされ、
以後、瀬田城は代々山岡氏の居城となった。
山岡氏は、当初六角氏の被官であったが、永禄11年(1568)、織田信長の入京後は一転して織田方に属した。
天正10年(1582)、明智光秀が本能寺に信長を討ち、安土城に向かおうとした際、瀬田城主山岡景隆を味方に引き入れようとしたが、景隆は主君の恩顧を裏切れないという理山で、光秀の行手を妨げるために瀬田橋を焼き落とし、甲賀へ引き上げたという。
以後、瀬田城は廃城となった。
山岡兄弟、 兄は瀬田城主山岡景隆であったが、弟は窪江城城主山岡景祐、東からの攻撃に弟、兄の順で西に攻め入られるのを防ぐ責務を負っていたという。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津かんきょう宝箱
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